10 映画

 金曜日は講義を入れていなかった。その代わりに他の曜日に詰め込んだのだ。そうすれば三連休にできる。しかし、結果として家に取り残されることになってしまった。不吉なことばかり起きるこの家に。

 昨夜も結局兄に流されてしまい、散々喘がされたので、起きたのは昼前だった。何も起こっていないことを確認してから、冷蔵庫にあった朝食を食べ、過ごし方を考えた。

 ――映画でも観に行こうか。

 スマホで調べると、特に予習が必要なさそうなアクション映画があった。映画館があるショッピングモールまでは電車で三駅の距離だ。大学と同じ方向で、定期券の範囲で行けるのもいい。

 最低限の持ち物だけをズボンのポケットに詰めて、駅まで歩いた。日差しは日に日に強くなっていた。着実に夏に向かうのだ。

 平日の昼間ということもあり、電車は空いていた。ゆったりと席に座り、向かいの親子連れを眺めた。


「こら、ちゃんとお座りしなさい」


 母親が小さな男の子を叱っていた。その男の子は渋々、といった様子で足を揃えて座った。その隣には、さらに小さな男の子。兄弟か……。

 思えば、父と兄と三人で出かけたことなどあっただろうか。父が俺だけを動物園や水族館に連れ出してはくれていたが。兄は、その間何をしていたのだろう。全く記憶にない。当時の俺は、兄が一緒ではないことなど気にも留めていなかったはず。

 母が生きていれば、それは変わっていただろうか、とふと思った。七つ離れているから、遊び場所を選ぶのは大変かもしれないが、俺に合わせて子供向けのところに四人で行ったのだろうか。

 向かいの親子連れは俺と同じ駅で立ち上がった。同じショッピングモールに行くのかもしれない。彼らはエレベーターの方に行き、すぐ見えなくなった。俺はエスカレーターを登った。

 映画館に着き、チケットを買った後、昼食代わりにポップコーンを食べることにした。あとはコーラ。支払いをして、隣の受け渡し口で、と言われたのでぼおっと待っていた。

 すると、飲み物が二つ置かれたトレイを渡されそうになった。


「えっ、コーラしか頼んでないですけど」

「コーヒーはお連れ様のものじゃ……?」

「いえ、一人ですが」

「済みません……本当ですね、失礼しました」


 それで一気に萎えてしまった。席に座り、退屈な広告を観ながらポップコーンをつまんだ。ほとんど味がしなかった。

 映画自体にものめりこめなかった。演出は派手だし、ストーリー自体の軸もぶれていないのだが、主演の演技が鼻についてしまった。一度気になりだすとどこまでもダメで、エンドロールを最後まで見ずに席を立った。

 気晴らしに出かけたというのに、かえってモヤモヤしてしまった。俺はあてもなくショッピングモールを歩いた。

 ベンチで休憩しようとしたが、どこも老人たちのたまり場になっており、仕方がないのでカフェに入ろうとしたが、そこも満席。平日だから困らないだろうと思っていたのに。

 結局、帰ることにした。もう少し時間が潰せればよかったのだが。自分のベッドにうつ伏せに突っ伏して、しばらく目を瞑った。

 ミシッ、ミシッ。

 床を踏みしめる音が近付いてきた。

 兄は、まだ仕事をしているはず。それに、早く帰ってきたのなら、玄関の扉が開く音が聞こえていたはず。

 ミシッ、ミシッ、ミシッ。

 足音は、確実に俺の部屋の前で止まった。


「父さん……?」


 呼びかけてみたが、それきり、静まり返ったままだった。俺はイヤホンをつけて大音量で音楽を流した。

 兄が帰宅したのは、いつもと同じくらいの時間だった。


「カナ、今日はハンバーガーで勘弁ね」

「いいよ。たまにはジャンキーなやつ食べたかった」


 兄は酒も買ってきていた。ハンバーガーとポテトを食べ終わると、ビールを一缶プシュッと開けた。


「カナも飲みなよ。チューハイも買ってきた」

「俺はいいよ……」

「僕の言うこと聞けないの? 二年くらい早くていいじゃない。飲んで」

「はい……」


 何本かあったが、俺は桃のサワーを選んだ。初めは果実のいい香りがしてジュースみたいだったが、後に残る苦みが気持ち悪かった。


「それで……大学はどう?」

「えっと……」


 兄がそんなことを聞いてくるなんて珍しい。今まで、俺の学校生活が二人の話題に上ることなどほとんどなかった。


「二年生から専攻が決まるんだけど、どこにしようか決められなくて」

「単位は大丈夫そう?」

「うん。出席はしてるし。レポートの課題発表はまだ先なんだけどね」


 父が死んで、本当に兄が父親代わりになってしまったので、それで気にしているのだろうか。そう思ってあれこれ大学の仕組みを説明してみた。


「ふぅん……そっか。まあ、おれも大学の時は、勉強だけじゃなくてけっこう遊んでたからさ。奏人も彼女くらい作れよ」

「ケイちゃん……?」


 兄はニヤニヤと俺の顔を覗き込んでいた。顔はほんのり赤い。


「なんだ、奏人。おれは学生の頃はそこそこモテてたぞ」

「ケイちゃん!」


 俺は立ち上がり、兄が持っていた缶をぶんどった。


「あれ……カナ?」

「ケイちゃん、またおかしなこと言ってた!」

「ん……なんか記憶飛んでる……」


 ガシガシと頭をかいた兄は、すがるように俺を見上げてきた。


「今の僕は……僕だよね」

「そうだよ、しっかりしてよ」

「ははっ……疲れてるのかな」


 もうこれ以上飲ませない方がいいだろう。俺だってチューハイとはいえキツい。俺は兄を立たせて父の寝室へ行かせた。


「ケイちゃん、もう寝よう」

「やだ……一週間しんどかったんだ。甘えさせてよ、カナ」


 酔っぱらいのどこにそんな力があるのか、俺はベッドに引きずり込まれた。


「ダメっ……ケイちゃん……」

「カナ……僕、きちんと教えたでしょ。尽くして」


 そうしてされたキスはとても苦くて。突き放さなければ、と思う反面、今の兄に優しくしてあげたくなって。

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 誰かに心の中でそう言いながら、兄のシャツのボタンを外していった。

 兄は言葉でたっぷりと伝えてきたので、その通りに身体をなぞった。また、俺はこの行為に抗えないのか。


「ねえ……ケイちゃん。こういうこと、もう最後にしよう。俺は、ケイちゃんと一緒に暮らせるだけで十分幸せだよ」


 すると、兄はたちまち血相を変えて殴りかかってきた。


「ぐっ……」

「はぁ? 何言ってんの? もうカナは僕好みに作り変えたんだからね。一生続けるに決まってるじゃない」

「でもっ……!」

「まったく……反抗するような子じゃなかったのに」


 うずくまり、顔を守る俺の頭を兄は何度もはたいてきた。さっき飲まされたチューハイのせいもあるだろう、ぐわん、ぐわん、と頭の中が揺れ、吐き気がしてきた。


「やめて……やめて……」

「ほら、最後までやって。今まで何の苦労もせずにここまで育ってきたのは誰のおかげ?」

「ケイちゃん……」

「だからやるんだよ。カナはこの先そうやって生きていくしかないんだから」


 そして、続きをさせられた。目の前はチカチカしていてムードも何もない。俺がさせられているのは一体何なんだ。

 けれど、兄と繋がった時の快感は、たまらなく甘美で。俺はさらなる刺激を求めて腰を動かしてしまった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

「それでいいんだよ、カナ」


 やはり、兄には逆らえない。この身体も制御がきかない。兄という存在は、俺の細胞の隅々まで染み渡っている。それをわからされた夜だった。

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