09 内情

 兄より先に目覚めた。時計を見ると五時。あまり眠れなかったようだ。今日は一限目から。二度寝して遅れるのも嫌だし、と兄の寝顔をみつめていた。昨日うなされていたのが嘘のように安らかだった。

 六時頃になって、兄が身じろぎをした。


「ん……カナ、起きてたの」

「うん……ケイちゃん、昨日の大丈夫だった?」

「昨日の?」

「覚えてない?」

「何か……変な夢は見た気がするけど。忘れちゃった」


 本人に記憶がないというのなら、わざわざ言わなくてもいいだろう。俺は兄と一緒に部屋を出た。

 キッチンに行くと、換気扇がついていた。コンロの上には鍋。兄は舌打ちをして鍋のフタを取った。


「……ケイちゃん、何だった?」

「袋麺だな。できたてっぽい」


 俺もそっと中を覗いた。ほどよく固まった卵が乗っていた。これは……父がたまにしていたことだった。俺は言った。


「それ、捨てた方がいいよ……」

「勿体ない。僕が食べるよ。カナはいつもの卵と……ソーセージでも焼くよ」

「う、うん……」


 兄と一緒に出るのも早すぎるが、また異変が起こった家で一人というのも心細い。俺は大学図書館に行ってみることにした。朝一番だというのに、けっこう人が多く、ついたてのある一人用の席はほとんど埋まっていた。

 俺は館内をうろついた。入学してから二ヶ月ちょっと。実を言うと、あまり来たことがなかったのだ。どこに何の種類の本があるのかすらよくわかっていなかった。何か気軽に暇を潰せそうなものはないだろうか、と日本人作家の棚まで来てみると、黒いロングヘアーの女の子と出くわした。


「あっ……」

「おっ、奏人くんじゃない。おはよう」


 ルミは文庫本をいくつか小脇に抱えていた。


「奏人くん、何か探してるの?」

「まあ、なんとなくね。ルミは?」

「あたしは今読んでる本が終わったから。電車の中、退屈なんだよね。だから持ち運びやすいやついくつか借りてるってわけ」


 文学部に入っておいて、俺は作家の名前すらよく知らない。ルミの持っている本も、きっと有名な人なのだろうが、俺にはわからなかった。


「ねえ、時間あるよね。カフェ行こうよ。ここで立ち話もよくないし」

「うん……そうだね」


 ルミがカウンターで貸出処理をするのに付き合ってから、俺たちは図書館を出た。ここは総合大学だ。敷地はかなり広い。カフェ、というと、法学部と文学部の間にあるあそこを指すのだろう。俺も何回か利用した。やはりルミはそこへ足を向けた。


「暑いしあたしはアイスコーヒーかな。奏人くんは?」

「俺、コーヒー苦手なんだ。アイスティーにするよ」


 二人掛けの席に向かい合って座った。ルミのリュックサックは先ほど借りた本でパンパンだ。それにしても、ルミはいつも一人のことが多い。容姿は整っているし人当たりもいいし、女友達はいないのだろうか。俺はそんな疑問を少し変換してから口に出した。


「ルミ、最近俺とばっかりつるんでるけど、他の友達はいいの?」

「あー、群れるの好きじゃなくてさ。女子のグループとか、そんなのとは無縁でいたいの。奏人くんに声かけてるのは、心配っていうのもあるけど、絡みやすいっていうのはあるかな」

「へぇ……そんなの初めて言われた」


 今思えば、あれは兄の作戦だったのだろうが。俺は友達なんて作らなくてもいいと兄に何度も言われていた。勉強の邪魔になるし、そんな時間があるなら相手をしてあげると。だから、休み時間は常にイヤホンをしていたし、修学旅行の班行動は腹が痛いことにして旅館で寝ていた。それくらい、他人を遠ざけて生きてきたのだ。


「奏人くんも集団行動苦手そうだね」

「うん、嫌い。大学はいいよね。一人で行動していても浮くことないし」


 社会に出るときは、ある程度の協調性が必要になるだろうが、今はモラトリアム。面倒ごとから逃げられるものならそちらに避難しておきたい。しかし、俺は人間関係よりももっと複雑な問題を抱えているわけで。


「ルミ、あのさ。今朝は勝手に鍋に袋麺が作られてた」

「そっか……タバコといい、まだ自分が死んだことがハッキリわかっていないのが憑いちゃってる、とかなのかな。妙に人間くさくて変な感じだよね……」


 そして、ルミは核心をついてきたのだ。


「この前、お兄さんと二人暮らしって言ってたじゃない? ご両親は?」

「母親は、俺が三歳の時に病気で死んで。父親は……行方不明なんだ」


 ルミは大きく目を見開いた。


「えっ? お父さん、いついなくなったの?」

「もうすぐで一週間。それから、おかしなことが色々起こって」

「ちょっと! それって凄く大事なことじゃない。最初に話してよ!」

「出会ったばかりでペラペラ喋れるわけないだろ!」


 俺の声はカフェの中に大きく響いてしまった。チラチラと周りから見られ、肩をすぼめた。ルミもしゅんと下を向いてしまった。


「ごめん、ルミ……大きな声出して」

「あたしこそ、ごめん。そうだよね。無神経だった」


 沈黙は苦手だ。俺はとにかく何かを喋ろうとしたが、ルミの方が早かった。


「あたしさ、小さい頃から感じるせいで、声かけちゃう癖ついてて。奏人くんのは……今までとは何か違うな、って必死になってた」

「その気持ちは嬉しいんだ。でも、俺も言えないこととかたくさんあってさ。本当にごめん」


 それからは、ルミの話だった。


「最初に感じたのはおばあちゃんのお葬式だったかな。まだいるよ、おばあちゃんいるよ、って言ったら親戚たちの様子がさぁって変わって。おばあちゃんも、感じる人だったみたいなんだよね」

「そっか……」

「おばあちゃんは、いつの間にかいなくなってたけど。それから、他の人に憑いてるなっていうのがわかるようになってさ。声かけて、一緒にお祓いしたこともあるよ」


 そうこうしていると、一限が始まる時間になってしまったので、ルミとは別れた。今日は彼女にずいぶんと内情を話してしまった。けれど、決定的なことだけは言えない。俺はもう、わかっているんだ。あれは父だって。俺と兄のせいだって。

 昼食を食べている時に兄から連絡が入った。今夜は食料品のまとめ買いをしてくるという内容だった。

 四限まで受けて、真っ直ぐ帰りたくなかった俺は、久しぶりにゲームセンターに入ってみた。大きな黒いネコのぬいぐるみのクレーンゲームが目に入った。

 ――ケイちゃん、ネコ好きなんだよね。父さんが嫌いだから飼えなかったけど。

 俺は千円札を両替し、それに挑戦した。六回やって取れた。八十センチくらいあるだろうか。ふわふわとしていて、抱き心地もいい。ネコを抱えたまま、俺は電車に乗って帰宅した。兄は俺より十分ほど遅く帰ってきた。


「見て、ケイちゃん。六百円で取れた」

「へえ、凄いじゃない。可愛い」


 兄はビニール袋から次々と買ったものを取り出していたので、俺も手伝った。兄は言った。


「味噌汁とか、もうインスタントでいいよね。地味だけど作るのしんどかったんだ」

「もちろん大丈夫だよ。休日とかさ、ちょっとずつ俺にも料理教えて?」

「カナがやりたいなら……いいか。まずは食材の選び方からなんだよね。カナ、何も知らないでしょ」

「うん……よろしく」


 夕飯はホイコーローだった。インスタントの味噌汁も十分美味しかった。父はなぜ頑なに、兄に料理を強いていたのだろう。今となっては知る由もない。

 片付けが終わって、兄がそっと俺の頬に触れてきたので、ぴくりと身体が反応してしまった。これくらいなら、まだ普通の兄弟だろう。でも、その先は。


「カナ。今日も鳴いてよ」

「ん……」


 重ねられた唇。それ以上の言葉を失ってしまった。いつか、いつか切り出さなければならない。禁断の関係を終わらせることを。

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