08 囚人

 水曜日はアラームをかけないので、起きたのは九時頃だった。兄は当然出社していた。冷蔵庫の中には卵焼きと味噌汁と冷凍のハンバーグ。それらを温めて食べた。

 ふと思い立った俺は、兄に連絡した。今晩は俺がスーパーで惣菜を買ってくると。料理はできないが、それくらいなら大丈夫だ。少ししてから、兄から了解と返ってきた。

 昨日買ったマンガの続きを読んでから家を出て、昼は大学近くの牛丼屋で済ませた。三限は心理学入門だ。まだ序盤なのだが、率直なところ興味が薄れてしまっていた。それでも単位は欲しいので、課題の内容を聞き逃さずにメモした。

 四限は必修の情報処理。パソコンソフトの使い方の実習だ。ルミの姿もあったが、席が離れており、講義中は特に関わることはなかったのだが、終わった瞬間に俺のところにきた。


「お疲れ、奏人くん。カフェでも寄っていかない?」

「ごめん。今日は夕飯買って帰らないといけないからさ……」

「そっかぁ。じゃあ途中まで一緒に帰ろう?」


 今日のルミは黒いTシャツに健康的なショートパンツという姿だった。見る度に服のテイストが違う気がするのだが、どれもよく似合っていた。きっと、男子からモテる部類だろう。

 実際、ルミと校内を歩いていると、彼女に視線が降り注ぐのがわかるのだ。俺もこの身長のせいで人からよく見られる方なので、何となく察することができる。しかし、ルミも慣れているのだろう、気にしている様子はなかった。


「奏人くん、昨日は大丈夫だった?」

「うん。タバコもなかったし、兄もうなされてなかったし」

「お兄さん、うなされてるの?」

「あっ……」


 そうだ。それは言っていなかったんだった。でも、こうなったら仕方ない。


「実は、そうなんだ。しばらくしたら収まるんだけどね」

「ふぅん……奏人くんじゃなくて、家自体に何かが憑いてるって考えた方が良さそうだね」


 ルミは歩きながら、長い黒髪を耳にかけた。


「奏人くんの家ってどんな家?」

「えっと……普通の戸建てだよ。俺が生まれる一年前に建てたって聞いてる」

「じゃあ、前に住んでた何か、っていうわけでもなしかぁ。一回、奏人くんの家行ってみたいな」


 俺はぶんぶんと手を振った。


「いや、それは困るよ」

「なんで?」

「その、兄と二人暮らしなんだけどさ……嫌がるんだよ、人入れるの」


 本当は父だ、嫌がっていたのは。俺も小学生の頃くらいには人並みに友人がいたのだが、絶対に連れてくるなときつく言われていた。理由は知らない。こわくて聞けなかった。そして、俺がよその家に遊びに行くのも良く思われていなかったので、他人の家には数えるほどしか行ったことがなかった。


「お兄さんってもう社会人?」

「うん、そうだよ」

「じゃあ、帰ってくる前にこっそり入れないかな?」

「えっ……」

「あはっ、その前に、男女が家に二人っきりになるのはまずいかぁ! あたしたち、付き合ってるわけでもないしね!」

「そ、そうだよ」


 俺はもう、女の子への興味なんてなくしてしまったから、どうにかなるわけはないけれど。ルミがそういう感覚を持ってくれていてよかった。ここは切り抜けることができそうだ。

 駅に着くと、ホームがバラバラだったことがわかったので、階段の前で別れた。スーパーに行き、真っ直ぐに惣菜コーナーに行ってみた。普段はあまり食べないようなものがいいだろう。揚げ物をいくつかと、ポテトサラダを買った。

 帰宅すると、タバコの匂いがした。玄関に兄の革靴はない。だとしたら……またか。俺は灰皿にあったタバコの火を消した。


「父さん……」


 よく見ると、灰皿の近くにタバコの箱はない。兄が持って行っているのだろう。それなのに、こうして一本火がついているのだから、どうしてもそうだとしか思えないのだ。俺は買ってきたものを皿に移して冷蔵庫に入れた。

 早く帰ってきてくれ、と願いながら、イヤホンをつけてミュージックビデオを観た。俺と兄が好きなボーカルは、今は筋肉質な男性だが、昔はガリガリだったらしい。彼が若い頃の楽曲でそれを知った。どちらもカッコいいと思う。

 兄はいつもより遅かった。残業していたから今会社を出た、という連絡がきた。ということは、あと三十分くらいのはず。俺はゲーム実況を観ることにした。バカっぽいやつがいい。プレイが下手くそな実況者がアクションに挑戦するものを選んで気を紛らせた。


「ふぅ……ただいま」

「お帰りケイちゃん。座っててよ。俺が準備するから」


 兄は椅子に座り、前髪をかきあげた。額には汗をかいていて、眉根を寄せていた。


「ケイちゃん……大丈夫?」

「仕事でミスってさ……それで遅くなった。まあ、今日中に解決したからいいんだけど」


 俺はレンジで惣菜を温め、ダイニングテーブルの上に並べた。


「おっ、メンチカツ?」

「うん。普段ケイちゃんは作らないなって思って」

「手がかかるからなぁ。ありがとうね、カナ」


 食べ終わる頃に、俺は切り出した。


「ねえ、ケイちゃん。帰ったらさ、またタバコに火がついてた」

「困るよなぁ。火事になったらどうするんだよ」

「灰皿自体、捨てない……?」

「僕が使うから。なんかさ、ずっと前から吸ってたみたいな感覚なんだよね」


 兄は自分の変化をどう受け止めているのだろうか。俺にはまるでわからなかった。火のついたタバコだって、困るよなぁの一言で済ませてしまうし、塩だって舐めるし。


「ケイちゃん……やっぱり、父さんのこと……」

「自首はしないよ。カナがしようとしても、僕が言いくるめるから。まだ大学生のカナと、社会人経験が七年ある僕、どっちの言うことをみんな信じると思う?」

「ごめんなさい……」


 俺が謝ると、兄はプッと吹き出した。


「そんな暗い顔しないでよ。今の生活の方が気楽じゃない。タバコなんて消せばいいだけだしさ。カナだって、父さんに勉強のこと言われてキツかったでしょ?」

「それは、そうだけど……」

「ようやく二人だけになれたんだ。楽しもうよ」


 今までも、心のどこかで、兄と二人きりになることを望んでいた。兄と触れ合い、快楽を与えてもらい、余韻にひたることが、嬉しくて仕方なかったから。けれど、俺は知ってしまった。兄が本当は何のために俺をしつけたかを。


「カナ……昨日も可愛かったよ」

「ケイちゃん……」

「今日は遅くなっちゃったし、控えめにしとくけどさ」


 俺はその夜も兄の指示通りに動いた。兄に教えられたやり方で、肌をなぞり、力を調整して。行為にふけってさえいれば、他のことは忘れられる。そう思って身体をゆだねた。しかし、終わって兄が寝てしまってから、後悔に襲われた。

 ――やめないと。兄弟でこんなことを続けるのは、やっぱりおかしいんだ。

 しかし、お金は父が握っていたし、今となっては兄がどうにかしているのだろう。俺はこの家から逃げることができない。例え誰かの家に身を寄せたって一時的なものだ。浮かんだのはルミの顔だったが、さすがの彼女も兄弟で事に及んでいるだなんて知れば態度を変えるに違いない。


「うっ……あうっ……」


 兄が身を震わせ始めた。俺は上半身を起こして兄の肩をさすった。


「大丈夫、大丈夫だから、ケイちゃん」


 俺の声は、届いているのかどうなのか。兄は長い間、呻き声をあげており、一旦起こした方がいいと思った俺は大きく身体を揺さぶった。


「ケイちゃん、起きて!」

「はぁっ、はぁっ……」


 薄く目を開けた兄。俺と視線がかち合うと、ぎゅっとしがみついてきた。


「カナ……どこにも行かないで、お願い……」

「うん……俺は、ここにいるよ。ケイちゃんと一緒にいるよ」


 そう言うしかない。実際にそうするしかない。俺はとっくに、囚われているのだ。

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