07 消耗

 アラームが鳴るより早く目が覚めた。兄の姿は隣にはなかった。キッチンへ行くと、兄は卵焼きを作ってくれていた。


「おはよう、ケイちゃん」

「おはようカナ。もうすぐできる。お茶でもいれて待ってて」


 言われた通りにして椅子に座った。灰皿には一本だけ吸い殻があった。兄が朝一番に吸ったのだろう。兄はテキパキと皿を俺の前に並べてくれた。卵焼きの他には味噌汁と小さな焼き鮭。これは冷凍食品のようだ。


「いただきます」


 そういえば昨日は兄はうなされていなかった。俺が気付かなかっただけかもしれないが。盛り塩に効果があったということなのだろうか。気になった俺は、朝食を食べ終えてから、すぐに玄関に行ってみた。


「……ひっ!」


 盛り塩に、赤い液体が染み込んでいた。俺は腰を抜かして動けなくなってしまった。俺の叫び声を聞き付けたのだろう。兄が飛んできた。


「どうした、カナ」

「し、し、塩が……」


 兄は皿を持ち、フンと鼻を鳴らした。


「なんだ、カナ。こんなのしてたの?」

「う、うん……でも、赤いのは……わからない……」

「なんだかかき氷みたいだね。イチゴ味のかき氷」


 そう言って兄は人差し指を塩に突っ込み、ぺろりと舐めた。


「ケイちゃん!」

「しょっぱい。普通の塩だよ。こんなの意味ないって。捨てるよ」


 どう考えても不気味な代物を可愛らしく例えた上、口に入れるなんて。兄は……こんな人だっただろうか。兄は一旦キッチンへ行った後、俺の腕を掴んだ。


「ほら、立って。そろそろ用意しないとでしょ」

「ごめん、ケイちゃん……」


 俺は二階の自分の部屋に戻って着替え、リュックサックを持って降りてきた。兄はタバコを吸っていた。タバコのことはよくわからないけれど、今まで吸っていなかった人が、いきなりあんなに肺に入れるようになって大丈夫なのだろうか。

 火曜日の一限目は気楽に受けられる一般教養の科目だ。だからサボることもあったけれど、やはり兄と一緒に家を出たい。塩があんな風になってしまったからなおさらだ。兄と電車に揺られ、早めに大学に着いた。

 自動販売機に行き、ミルクティーを買って教室に向かっていると、後ろから肩を叩かれた。


「奏人くん、おはよう」

「お、おはよう……」


 ルミだった。今日は涼しげな白いブラウスにデニムのフレアスカートという格好だった。


「こっち行くってことは、もしかして美術史?」

「そうだけど……」

「あたしもだよ。一緒に受けよう」


 朝の一件はこたえていた。俺は小さな声でルミに報告した。


「その、さ……塩が、赤くなっちゃって」

「え、ええ? 詳しく聞かせて?」


 俺は昨日からの事をつぶさに話した。塩を盛った後、火のついたタバコはなかったこと。翌朝、赤い液体がついていて、それを兄が舐めてしまったこと。ルミは口元に手をやり、考え始めたようだった。


「えっと……白い塩を使ったんだよね?」

「そうだよ。スーパーに売ってた普通のやつ」

「黒くなるのは聞くんだけどね。赤かぁ。お兄さんのいたずらじゃなくて?」

「わかんない……さすがにそういうことする人じゃないと思うんだけどさ」


 けれど、いっそいたずらであってほしかった。それなら、あんな風に舐めてみせるのも説明がつくし。本当にかき氷のソースだったのかもしれない。帰宅したら、兄に問いただそう。

 二限目はルミとは別の講義だったので、一旦別れたのだが、昼食は学食で食べようということになった。誰かとの会話は疲れはするのだが、今は気持ちを吐き出せる相手が居て欲しいのが正直なところだ。


「あれっ、奏人くん小どんぶり? それだけで足りるの?」

「ん……食欲ない」


 ルミはカツカレーだ。手足が細い子なのだが、昨日のラーメンといい、けっこう食べる方らしい。食事中にあんな話をするのも嫌だったので、俺は話題を探した。


「ルミは……専攻、どうするの」

「そうだねぇ、迷ってる。よく読むのは国文学なんだけどさ、英文学も楽しいなって最近惹かれてて」


 俺もルミも文学部だ。二年生で専攻を決めるシステムで、一年生の間は自由に受けて自分に合ったものを探すということになっている。


「奏人くんは?」

「心理学とか気になってたんだけどね。実際講義受けてみたら、けっこう数字扱うから、難しそうだなって思っちゃった」


 元々、大学生活に期待なんてしていなかった。父が望む通り、大卒の資格さえ手に入れればそれでいいと考えていた。文学部を選んだのだって、テストではなくレポートが多いと聞いて、ただそれだけだった。作文なら得意だったから。

 就職のことまでは、正直考えていなかった。父は本当は法学部に行ってほしかったようだ。けれど、俺は父のように警察官になるつもりは毛頭ない。犯罪を犯してしまった今では特にそう思う。

 ルミとはそのまま、取っている授業の情報交換。俺はすぐに食べ終わってしまい、ルミがバランスよくルーと米を口に運ぶのをなんとなく見ていた。スプーンで全て綺麗にすくいとったルミは、水を一口飲んだ後に言い放った。


「でさ……奏人くん、あたしに言ってないこと、まだあるでしょ」

「うっ……」


 ルミとはまだ出会って二日目。まあ、彼女は俺を以前から認知していたようだが。何をどこまで言ってしまっていいものだろうか。ルミは続けた。


「ゆっくりでいいよ。けど、あまり長く放っておいてもいいものとは思えない。あたしは、感じるだけでそれ以上のことはできないけど……お祓いとかだったら紹介できるし」


 まさかこうなった原因が、兄が父を殺したから、だなんて言えるはずがなかった。俺はルミから目をそらし、咳払いをした。


「ありがとう、ルミ。でも、今のところは、大丈夫だから」

「大丈夫には……見えないよ……」


 一体ルミがどんな視線を投げかけているのか、俺には確認する勇気がなく、勢いをつけて立ち上がり、食器の乗ったトレイを持った。


「じゃあ……俺、行くから」


 ルミの表情を見ることもなく、俺は椅子にかけていたリュックサックを掴み、足早に返却口へ向かった。

 ぼんやりしながら残りの講義を済ませ、本屋に寄った。そろそろ今追っているバトルもののマンガの最新刊が出る頃だった。平積みにされていたそれを取り、購入した。家に着いてから、ベッドの上で寝転んで読んでいると、半分くらい過ぎたところで兄が帰ってきた。


「おかえりケイちゃん」

「ただいま。ごめん、しんどくてさ。今晩ピザとかでいい?」

「いいよ。毎日手作り大変でしょ。その……父さんいないんだし。気ぃ抜いていいよ」

「ん……そうだね」


 ピザを注文して待っている間、俺は兄に尋ねた。


「今朝の塩さ。ケイちゃんのいたずら?」

「違うよ。カナが塩盛ってたことすら朝知ったし」

「じゃあ、やっぱり……」

「まあ、何かの化学反応かもしれないし? 深く考えることないって」


 食後、ピザの箱を潰していると、兄に囁かれた。


「今夜はたっぷりしよう。ちゃんと準備しといて」

「わかった……」


 拒否なんてできるはずがない。また殴られるのは嫌だ。それならきちんと従順にしていた方が優しくされるかもしれない。明日の大学は昼からなのだが、兄はそれをわかっているはずだ。きっと長くされる。

 その予感は当たって、兄はなかなか寝かせてくれなかった。自分から腰を動かすように命令され、ようやく解放された頃には、全身が悲鳴をあげていた。俺は服を着ることすら億劫で、気絶するかのように意識を手放した。

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