06 ルミ

 アラームは早めにかけておいた。俺は兄を揺り動かした。


「ケイちゃん。昨日お風呂入らなかったでしょ。さっとシャワー浴びよう」

「うん……」


 のっそりと起き上がった兄の腕を引っ張り、風呂場に連れて行った。シャワーをかけても、兄はまだぽやんとしていたので、俺が洗った。


「……二日酔いだ」

「俺、コンビニ行ってくるよ」


 髪が短くて良かった。すぐ乾く。コンビニで二人分のパンと栄養ドリンクを調達し、兄に渡した。時間ならまだ余裕があった。

 兄はコーヒーを飲んだ。わが家では父の専用になっていたドリップコーヒー。その香りでどうしても父を想起してしまう。食後にタバコまで吸われたら尚更だ。

 俺と兄は一緒に家を出た。一限目が始まるには早い時間だが、一人であの家に取り残されたくなかったのである。電車は途中まで同じで、軽く兄に手を振り、俺が先に降りた。

 昨夜降った雨で地面は濡れていた。まだ湿気がまとわりつく。たどり着いた大教室にはちらほらと人がいて、俺は後ろの方の席に座った。

 外界を遮断するように、イヤホンをつけた。高校時代と同じだ。中学の時もそうだったが、俺は部活というものに入ったことがなく、同年代の友人を作らなかった。

 俺には兄と、音楽さえあればいい。

 二つの大きな秘密を抱えてしまったことで、その信念はより強固になった。

 文化人類学の短い映像を見せられ、それからは教授の作ったスライド。手元にその資料は配布されていたから、説明を聞くより先に文字を全て読んでしまい、あとは退屈な時間を過ごした。

 次はドイツ語の授業。様々なバンドの曲を調べているうちに、ドイツのロックバンドが好きになり、それが理由で選んだようなものだ。少人数だから、至って真面目にドイツの祝祭の紹介を聞いていた。

 時間ぴったりに終わり、学食に行こうと荷物をリュックサックに詰めていると、後ろから肩を叩かれた。


瀬田奏人せたかなとくん」

「……はい」


 見覚えのある女の子だった。胸まで伸びたストレートの黒いロングヘアー。淡い水色のワンピース。少し垂れた目元はタヌキを連想させる、可愛らしい子だ。この授業では生徒同士の会話練習もあるので、話したことはある気がする。


「話があるの。お昼、一緒に食べよう」

「えっと……」

「あたしは岩木いわきルミ。ルミでいいよ、奏人くん」


 いきなり下の名前呼び。同世代の女子にそうされるのは初めてだ。唐突な距離の詰められ方に戸惑ってしまった俺は、断ろうと画策した。


「俺には話すことないけど」

「あたしにはあるの」

「すぐ終わらせて。ここで聞くから」

「ちょっとややこしいんだ。食べながら。ねっ?」

「うん……」


 結局ルミに着いていくことにしてしまった。先に席を取り、うどんを買って向かい合わせに座った。ルミはラーメンだ。


「で、何なの」

「単刀直入に言うね。今の奏人くん、よくないものが憑いてる」

「……はっ?」


 心当たりしかない。しかし、それを表に出すわけにはいかない。ルミのことなどまだよく知らないのだから。彼女は質問してきた。


「最近、心霊スポットとか行った?」

「行ってないよ……」

「あたしさ、ハッキリとは見えないんだけど、感じるんだ。そういうの」

「何? 霊感ってやつ?」

「そう呼んでもらってもいいよ」


 これ以上話すのはまずい。俺は熱いうどんを我慢しながら素早くすすった。ルミは続けた。


「まあ……いきなりされても困るよね、こんな話」

「うん。困る。俺、幽霊とか信じてないから」

「じゃあ、実害は出てないのかな。変わったこととかない?」

「ないってば」


 兄の変化。火のついたタバコ。薄揚げを噛み潰し、口をつぐんだ。


「あたしね、ここまで強く感じたのは初めて。心配なんだよ」


 ルミの丸い瞳は俺を真っ直ぐに捉えていた。何もかも見透かされているような黒い眼差しだ。俺は観念した。


「……ちょっとだけ、変なことはある」

「ほら、やっぱり。言ってみて」

「たまに……家の灰皿にさ、火のついたタバコが置いてあるんだよね。家族の誰もつけてないのに」

「ふぅん……そいつは妙だね」


 兄の事は避けた。正直なところ、最近のあれこれで参ってはいたが、まだそこまでルミのことを信用はできない。ルミは言った。


「せめて、玄関に盛り塩しておくといいよ。小さいお皿の上に三角錐の形に盛るの」

「うん……やってみる」


 二人とも食べ終わり、さて解散だな、と席を立ちかけたのだが、ルミは俺の手を掴んできた。


「連絡先、交換しとこう? 何かあったらいつでも相談に乗るから」

「わかった……」


 ルミは手帳型のケースに入ったスマホを取り出した。俺はというと、クリアケースのシンプルなスマホだ。


「へぇ……奏人くんのアイコン、初期設定じゃん」

「ルミは……ネコ?」

「そっ。うちで飼ってるの。奏人くんは動物好き?」

「普通」


 早く話を打ち切ろう。そう思ってそっけなく返したのだが、ルミはこんなことを言ってきた。


「次の一般教養、日本史でしょ。あたしも取ってるよ」

「あっ……そうなんだ」

「奏人くん、背高いし目立つし。前からよく授業かぶってるなぁって思ってたんだよ?」


 空の食器が乗ったトレイを返却し、なし崩し的にルミと一緒に教室に行くことになってしまった。女の子と二人、という状況にはそわそわしてしまう。変に見られてはいないだろうか。

 真ん中の方の席に並んで座り、そのまま講義を受けた。あまりルミを意識するのも何だしと、いつもは取らないメモを取った。

 終わって、俺はそそくさと荷物をまとめた。今日はこれで終わりだ。


「じゃあ、俺帰るから」

「うん。また一緒に講義受けよう!」


 それには返事をせずに、リュックサックを背負って早足で教室を出た。自宅の最寄駅まで帰ってきて、百円均一で小皿を、スーパーで塩を買った。ほんの気休めかもしれないが……とにかくすがってみたかったのである。

 玄関には父の革靴が置きっぱなしになっていた。それには触れることができず、隅の方の邪魔にならない場所に盛り塩をしてみた。

 兄が帰ってくるまで、ベッドの上で何もせずにぼんやりと過ごした。家族以外の人と話すのなんて本当に久しぶりだったから、どっと疲れてしまった。

 玄関の扉が開いた音がしたので、一階に降りた。今夜は冷凍の餃子を焼くようだった。


「ケイちゃん……せめてお皿出しとく」

「まあ、それくらいはね」


 兄と二人きりの食卓。それ自体は慣れたものではある。しかし、そんな最中に、ひょっこり父が帰ってくるのではないか。そんな気もしてしまうのだ。兄と二人で、確かに埋めたというのに。

 風呂に入った後、灰皿にタバコがなかったのでホッとした。本当に効き目があったのだろうか。

 兄は俺の肩を掴んでぶっきらぼうに言った。


「カナ。今日も口でやって。動くのはしんどい」

「うん……」


 兄を満足させた後、ダブルベッドに並んで横たわった。兄が俺の指をしゃぶり始めたのだが、たまにあることだ。黙って天井を見上げていた。

 しばらくして、舐めるのに飽きたのか、兄は背中を向けてしまった。俺はぐっしょりと濡れた指をティッシュでぬぐった。

 寝息が聞こえてきたので、俺は兄の背中にしがみついた。兄の髪は、同じシャンプーを使っているから、その香りがするのだけれど。深く息を吸い込むと、兄の甘い匂いがする気がした。赤子の匂い、というのは嗅いだことがないけれど、きっとそういう類の匂いだ。

 ――どうか、父さん。このまま見逃して。

 俺はただ、兄と一緒に居たかっただけなのだ。

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