04 呪い

 翌朝は俺の方が先に目覚めた。

 部屋の壁掛け時計を見ると七時過ぎ。兄はまだ寝かせておいていいだろう。

 改めて俺は今いる部屋を見渡した。特に用事もなかったし、ここに入ることはほとんどなかった。壁に写真が何枚か飾ってあったが、その全ては俺か母で、兄は一枚もなかった。やはり、父にとって兄はそういうことだったのだ。

 トイレに行って戻ってくると、兄がもそもそと動いていた。


「ケイちゃん……もう少し寝る?」

「いや、起きる。早く済ませておきたいし」


 兄は朝食を作ってくれた。おかずは目玉焼きとベーコンだった。兄は言った。


「昼までには帰ってくれると思うから。長くなりそうなら連絡する」

「うん。わかった」


 兄を見送り、俺は自分の部屋に戻った。ずらりと並んだマンガも、最新機種のゲームも、手をつける気がしなかった。兄はそれらを全く持っていなかったことにようやく気付いたのだ。

 クリスマスの時も、今思えば違和感があった。俺の記憶にある限り、兄はもう大きくなったからと、サンタクロースは来なかった。そういうものだと俺は信じ込んでいた。

 逃げ場は音楽だった。俺はベッドの上で身を丸めて耳に集中した。兄もスマホだけは与えられていたから、それでこのバンドを知ったのだろう。

 ――この人、カッコよくない?

 中学生の頃、兄にそう言われ、ミュージックビデオを見せられた。それはスタジオでバンドが演奏するシンプルなもので、太い腕でマイクを掴み、力強く歌う男性ボーカルに、俺は一気に虜になった。

 それからは二人で、過去の曲をあさっていった。俺たちが生まれる前から活動していて、日本にも何度か来たことがあるようだった。

 残念ながら、今はライブに力を入れていないらしく、生で見られる機会はなさそうだった。しかし、画面の向こうの彼らは、俺たちの憧れで、お守りで、理解者だった。

 玄関の扉が開く音がして、俺は一階に降りた。


「お帰り、ケイちゃん」

「ん。全部やってきた。書類出したりとか」

「……そう」


 詳しくは聞きたくなかった。形だけの捜索願いか何かを出したのだろう。勤勉な父親が急に帰ってこなくなった家庭の息子たちが、何もしないのはおかしいから。


「カナ。昼は外に食べに行かない?」

「うん、いいよ」


 着替えるのも面倒だった俺は、部屋着のTシャツとジャージのまま、兄に着いて玄関を出た。

 この辺りで食べるところといえば、駅前のファーストフード店かファミレスしかない。今回は兄が後者を選んだ。


「いらっしゃいませ」


 すぐに四人がけの席に通された。俺は兄の正面に座った。若い女性の店員が、すぐに水の入ったコップを三つ持ってきた。

 三つだ。


「えっ……二人ですけど」


 俺はそう言った。


「あら……申し訳ありません、そうですよね」


 店員は一つ、コップを下げた。心底困惑している彼女の表情に、ぞわっと背筋が寒くなったが、兄はまるで気にしていない様子で、注文用のタブレットを操作しはじめた。


「僕、ミックスグリルにしようっと」

「珍しいね……ケイちゃんがガッツリしたやつ頼むの」

「今日はそういう気分なんだよ。はい、次カナね」

「んっ……」


 さっきの水の一件で、食欲が削がれてしまった。俺はさらっと食べられそうなものを探したが、生憎蕎麦やうどんは無かった。麺類なら何とかなるか、と明太子パスタにした。

 ドリンクバーも頼んだ。兄は何も言わずとも俺の分のコーラを入れてきてくれた。兄はウーロン茶だろう。兄は黙っていたが、機嫌が悪いというわけでもなさそうだった。


「お待たせいたしました」


 料理が運ばれてきて、途端に兄はペラペラ喋りだした。


「やっぱりさぁ、他人に作ってもらったご飯がたまに食べたくなるわけ。父さんがうるさかったから、大抵のものは作れるようになったけど……それでもね」

「俺、ケイちゃんの作るご飯、好きだよ」

「だろうね。中学と高校は弁当もあったから大変だった」

「うん……今さらだけど、本当にありがとう」


 当時の俺は、有り難みなんて感じていなかった。当然のように毎朝弁当箱を受け取って、帰ってくればそのままキッチンに置くようなことをしていたのだ。


「これからは、俺もちょっとは手伝うよ」

「まあ……多少はね。でも、ずっと二人で暮らしていくんだからね。就職もうちから通えるところにするんだよ」

「うん……」


 この先の人生のことなど、深く考えたことはなかった。大学に入れてホッとしてそれで終わっていた。俺の心は常に兄にあったから、恋愛なんてしたこともなく。平穏な日々を送ることさえできれば、それでよかった。

 結局、俺は明太子パスタを残してしまった。勿体ない、と兄が食べた。そのことにも驚いたけど、さらに衝撃を受けたのは、兄がホットコーヒーを飲み始めたことだった。


「ケイちゃん、飲めなかったよね? しかもブラック?」

「不思議なんだよね。こんなに美味しいもの、何で飲めなかったのかな……」


 おかしい。兄は少しずつ、おかしくなっている。まるで、父に……侵食されているみたいだ。コーヒーは、父の趣味だったから。


「ダメだ。食後はタバコも吸いたい。父さんのことヤニカス呼ばわりしてたけど、僕もそうなったな」


 帰宅してすぐに、兄はタバコに火をつけた。顔を覆うようにして口元に持っていく仕草は、父そのものだった。俺はそれを直視できなくて、兄に背を向けソファに座った。


「カナ」


 しばらくして、タバコの香りをまとわりつかせた兄が、俺の隣に来て手を握ってきた。


「何か、疲れちゃった。癒やして」

「ケイちゃん……」


 兄は俺の首筋に鼻を近付けてきた。


「カナはいい匂いするよね。落ち着く」

「それなら……よかった」


 唇をペロリと舐められて、そのままねっとりとしたキスに突入した。俺はうずいて止まらなくなって、兄の敏感な場所へ手を伸ばした。


「カナ、やらしい……」

「ケイちゃんが教えたんでしょ……」


 俺は兄を押し倒して貪った。身体を重ねている間は、父のことを忘れられると思った。兄は高い声で喘ぎ、それにそそられた。

 半裸で絡み合った俺たちは、終わらせた後、しばらく黙ってくっついていた。もう、この家で、俺たちを止めてくれる人は誰もいないのだ。


「カナ……そろそろ重い」

「ごめん」


 乱れた服を直し、ふとダイニングテーブルの方を見ると、また、火のついたタバコが灰皿にあった。


「ひっ……!」

「ちっ」


 兄はタバコをくわえ、大きく煙を吐き出した。それから、虚空に向かって話しかけ始めた。


「何? 怒ってんの? カナはもう、自分から欲しがるようになっちゃってるんだよ。カナはとっくに僕のものなんだ」

「やめてよ、ケイちゃん、やめて」

「これから毎日見せつけてやるよ」


 そして、身体を曲げて笑い始めた。


「あははっ、ははっ、ははっ……」

「ケイちゃん……!」


 俺は兄を後ろから強く抱き締めた。


「やっぱり自首しよう、一緒に罪を償おう」

「何言ってんの。僕に散々さっきみたいなことしてさ。もうできなくなるんだよ。耐えられるの?」

「俺は……」

「隠し通すよ、絶対に」


 腕を離すと、兄は振り返って俺の頬をつうっと撫でた。自信に満ちた瞳が俺を見つめた。

 俺たちはきっと、呪いをかけられている。父は確実に俺たちを見ている。父が諦めるのが先か、俺か兄が耐えられなくなるのが先か。


「カナ。もう一回しよう。今度はあっちのベッドでね」

「うっ……」


 断われば、また平手が飛んでくるかもしれない。


「わ、わかった……」

「それでいいんだよ。今度はカナのこと鳴かせてあげるから」


 兄はロープを使った。父の首を絞めたロープを。俺は身体をさらけ出すしかなくて、執拗な兄の責めに弱音を吐いた。

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