03 煙草

 シャワーで精液を洗い流され、フラフラとした足取りで風呂場を出た。冷蔵庫にあったミネラルウォーターをガブ飲みして、焦げ臭さに気付いたので兄を見ると、父のタバコを吸っていた。


「ケイちゃん……タバコ、嫌いじゃなかった?」

「ん……なんとなく吸いたくなった」


 服を着てソファに座った。カーテンの隙間から朝日が射し込んでいた。


「僕は出勤するよ。怪しまれたくないし」

「俺は……講義入れてない」

「そうだったね。電話かかってきても取らないで。インターホンも無視。わかった?」

「わかった……」


 そのまま俺はソファに横になった。泥に沈むかのように意識を手放した。

 気が付いたのは昼過ぎだった。腹だけ減っていて、何も口にしたくない気分。ゼリー飲料を見つけたので無理やり押し込んだ。

 自分の部屋に戻り、ベッドに寝転んで手を見つめた。俺はこの手で父を埋めた。これから一生、隠し通さねばならない秘密を持ってしまったのだ。

 けたたましく固定電話の音が鳴り、俺は耳をふさいだ。きっと父の職場からだろう。なかなか音は止まず、電話線を引っこ抜いてやりたかったが、そういうわけにもいかない。

 俺は大学で使っているリュックサックを開け、中からイヤホンを取り出した。音量を最大にして音楽をかけた。重いバスドラム。うなるギター。ボーカルの絶叫。音の洪水に巻き込まれていれば、全てを忘れられる気がした。


「カナ。帰ったけど」


 どれくらいの時間が経っていたのだろう。俺はまた、眠ってしまっていて、兄に肩を叩かれていた。プレイリストは終わっており、俺は耳からイヤホンを抜いた。


「お帰り、ケイちゃん……」

「今日はしんどいから簡単なやつね。すぐできるし降りてきて」


 ダイニングテーブルの上の灰皿は綺麗になっていた。兄が捨てたのだろう。俺は椅子に座り、兄の後ろ姿を眺めた。ジュウッ、と油がひかれた音がした。今晩は何かの炒め物か。


「カナ、誰か来た?」

「わかんない……寝てた。電話は何度か鳴ってた」

「そっか」


 ダイニングテーブルに、肉野菜炒めと米が並べられた。俺はガツガツとそれらをかきこんだ。兄はいつものように、行儀よく姿勢を正して口に運んでいた。兄はふわぁと大きなあくびをした後に言った。


「さすがに身体キツい。今日は早めに寝るよ」

「明日、土曜日だし。ゆっくりしなよ」

「でも、父さんの職場には行ってくる。嘘なら得意。全部任せて」

「……うん」


 食べ終わった後、兄はまた、タバコを吸った。


「父さんみたいなことしないでよ、ケイちゃん」

「自分でもよくわかんないんだけどさ……無いとやってられないんだよ」


 俺は昨夜の兄の言葉を覚えていた。家政婦だという言葉を。だから食器を洗おうと思ってシンクの前に立った。


「カナ、余計なことしないで」

「だって」

「一度もやったことないでしょ。教える方が面倒なんだよ。今日は疲れてるんだからさ」


 俺の手から食器をひったくった兄は、わざとらしくガチャガチャと音をたてて作業を始めた。そんな意思表示をされては、大人しく引き下がるしかない。俺は風呂の準備だけをしてソファで兄を待った。

 おそらくさっきの俺は間違えたのだろう。ソファに来た兄の目は血走っていて、頭を一発殴られた。

 

「しゃぶって」

「……はい」


 初めてさせられた時のことはハッキリと覚えていなかった。上手くできると褒めて抱き締めてくれるから、それが嬉しくて、鉄棒の練習をするのと同じ感覚で兄のことを悦ばせたのだ。動作はすっかり身体に染み込んでいたから、何も考えなくてもよかった。しっかりと飲み干すと、兄は俺の頭を撫でて言った。


「うん……上手。今日はこれだけでいいよ。お風呂入ろうか」


 兄の機嫌が直ったことに安堵した俺は、たっぷり泡をつけて背中を流した。男性にしては小さな背中。そこにどれだけの負担がかかっていたのだろうか。今までそんなことを想像すらしていなかった自分を恥じた。

 湯につかると、兄は大きなため息をついた。


「はぁ……もう父さんに怯えなくて済むと思うとせいせいするよ」

「……そっか」

「母さんが死んだ時さ。僕まだ十歳だったんだよ。追い出されたくなかったら、家事もカナの世話もしろって怒鳴られて。必死に料理覚えたな」


 言葉を選ぶ必要があった。ごめん、は違う。ありがとう、もおかしいだろう。迷って黙り込んでいるうちに、兄は立ち上がってしまった。身体を拭きながらリビングに行くと、ダイニングテーブルから嗅ぎ慣れた匂いがすることに気付いた。


「えっ……ケイちゃん、あれ……」


 灰皿に、火がついたタバコが置いてあり、一本の白い筋になった煙を立ち上らせていた。喫煙者ではない俺でも、火がつけられたばかりだとわかる、そんな長さのタバコだった。兄はそのタバコをつまんで吸い始めた。


「ケイちゃん!」

「ははっ」

「おかしいよ、絶対おかしいよ、危ないよ!」

「僕たち、試されてるのかな。いいよ。やってやろうじゃない」


 そのタバコを吸い切った兄は、ぐしぐしと灰皿にすりつけた。そして、苦い味のするキスをされた。


「今夜からは一階で寝よう。広いし」

「嫌だよ……だって、父さんが……」

「僕に逆らうの? 食事も自分で用意できない、ゴミ出しの日も知らない、学費だって払ってもらってる分際で?」

「ごめんなさい……」


 枕だけはそれぞれ自分の部屋から持ってきて、並んで横になった。俺は、どうしても気になっていたことを聞いてみた。


「ケイちゃん。俺のこと、愛してるって、嘘だったの」

「半分はね。カナが生まれるまでは、父さんだって優しかったから。やっぱり、血の繋がりがあるのとないので平等に接するなんて、無理があったんだろうね。母さんが死んでむきだしにされた。そりゃあ……恨んだよ、カナのこと」


 兄は俺の手をさすりはじめた。


「でも、この世にたった二人だけの兄弟だからさ。こうなった以上、死ぬまで離さないよ、カナ。元々それが目的だったんだ。もうカナは普通の恋愛なんてできない身体だ。この僕がそうした」


 指が組み合わされ、熱を持った。


「カナも逃げようだなんて考えないことだね。これからはもっと縛るから。だって、僕たちは、共犯者なんだからさ」


 父が眠る冷たい土の中のことを、思い浮かべてしまった。あのまま見つからなければ、父は腐敗し、骨になるのだろう。俺の呼吸は徐々に浅くなっていった。


「安心して。カナがきちんと僕の言うこと聞くなら、酷いことしないから。今まで通り気持ちよくさせてあげる。まあ、今夜は勘弁ね。もう、寝る……」


 兄の指の力が弱くなっていった。しばらくしてから、俺はそっとそれを外した。静かな寝息を立てる兄の表情は、とても安らかで。俺もその呼吸に合わせ、ざわめく心を落ち着かせようと息を吐いた。

 一旦意識は沈んだようだが、叫び声で目が覚めた。


「あっ、ああっ! あっ!」

「ケイちゃん、ケイちゃん!」


 兄はジタバタと手足を動かしていた。俺は兄に覆いかぶさって止めさせた。


「しっかりして、ケイちゃん!」

「……はぁ、はぁ、はぁ」


 兄はびっしょりと汗をかいており、俺の顔を見上げて薄く笑った。


「ケイちゃん、やっぱりここで寝るの、やめた方がいいよ」

「いや……あっちがその気ならとことんやってやるよ。僕はもう、父さんなんてこわくない」


 ぎゅっと兄が俺の背中に腕を回してきた。胸同士をつけると、兄の鼓動がドクドクと高鳴っているのがわかった。それが次第に収まっていき、兄はまた、眠ったようだった。

 俺は……どうしようもできないのだろうか。

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