弔葬師《アンジェラス》の正義
くろ飛行機
人を好きになるって、なんですか《invention》
1 或るカウンセラーの独白
1
部屋の時計が十七時を告げる。カタカタとキーボードを打つ音だけが、静かなカウンセリングルームに響いていた。
暖色の照明、リラックス効果のある香りを出す装置、居心地の良い室内装飾、そして部屋の中央に置かれたふかふかのソファ――――――私は、部屋中を見渡して
私は、次に予約が入っている
『
――――――この少年は非常に厄介だ。
仕事柄、初めてカウンセリングを行った時に、その
暴れる者。話ができる状態でない者。異常な妄想に囚われている者――――――。
その理由は、
傀朧とは、多くの人間たちが信じない超常現象を引き起こす元となる不可視の物質だ。それは人間の想像から生まれ、この世界に滞留し、やがて
想像の残滓である傀朧は、通常は脳から排出され、人間の精神にダメージを与えることはない。しかし、多大なストレス等の精神負荷が、傀朧の排出を妨げることがある。排出されなくなった傀朧は、人間の精神により大きなダメージを与える。
私は、そんな
私は、傀朧医として多くの
しかしその影で、治療できずに多くの
そのたびに、私は絶望を繰り返した。何度も何度も、力のなさを嘆くうちに、想術は、決して万能とは程遠いのだと痛感した。
――――――コン。
「どうぞ」
弱弱しいノックが私の耳に入る。
最後に部屋の隅にある小さな装置のスイッチを入れ、席につく。
「こんにちは、
「……こんにちはせんせい」
私は神に祈った。存在するはずのない、虚構の行きつく先。人間の想像の最も高みにある超越的な存在に縋った。
もし、傀朧が想像から生み出され、それが
ああ、神よ。どうか、この子に救いを――――――。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
黒いTシャツの上から茶色のベストを着て、下は半ズボンと、年相応の恰好をしている。ただ年相応でないのは彼の体格だ。十一歳の平均身長よりも背が低く、体重もその分軽い。色白で顔色も良いとは言えない。無表情で感情を表に出さず、瞳はいつも遠くをぼんやりと見つめているようだった。
「今日はどうやって来たの?」
「送ってもらった。
「七楽課長に? それはよかったね。彼女は外で待っているの?」
「うん」
こちらが喋りかけるとよく話してくれる。言葉通りまっすぐに。嘘は決して吐かなかった。彼はとても素直で純粋だった。
「今日はご飯、何食べた?」
「いちごパフェ。ここに来る前に食べたよ」
「好きだねいちご。今が旬だし、美味しいよね」
「うん。潰した時に、綺麗になるから好き」
「いつもいちごを潰して食べるの?」
「うん。潰しちゃう。潰さないと、美味しくない」
彼は赤いものが好きだった。それだけでは普通のことだが、彼の場合深層心理に
「じゃあ今日も昔のこと話してくれる? もちろん、嫌なことや話したくないことは話さなくてもいい」
「大丈夫。せんせいになら話してもいいかなって、思うんだ」
「ありがとう。無理はしなくていいからね」
私は
「じゃあ今日は、三つ質問をするね。まずは、君がお母さんにしてもらって嬉しかったことを教えて欲しい。できるだけ具体的に、思い出せる範囲で」
「……おかあさんはいつもご飯を買ってきてくれたよ。コンビニのお弁当。揚げ物とか、ハンバーグ。でもぼく、よく残しちゃった。そしたら、おかあさん、すっごく悲しそうにしてた。あとは、よく一緒に出かけた。夜遅くに、キラキラした街に行った。手をつないでくれたのが、とっても嬉しかった。それでね、高いところに行って、街を見下ろしたんだ。すっごく綺麗だった」
「なるほど」
彼は捨て子だったらしい。
一歳にも満たない年齢で、
その上、女は狂っていたのだ。
「ぼく、おかあさんが笑ってくれたら嬉しかった。キラキラしたお店とか、友だちと会ってる時とか、化粧をしてる時とか。笑ってくれたら、ぼくも嬉しくなる。だから笑って欲しかったのに……」
彼は壮絶な身体的虐待を受けていた。資料を読んだ時、吐き気が込み上げてくるほどには限りなく不快で悍ましい内容だった。
殴る、蹴る、焼く、打つ、斬る――――――どれも吐き気を催す残虐性だった。
「そうなんだね。盡くんが、お母さんのためにしてあげた一番のことって、何かな?」
「……」
「話したくなかったらいいよ」
「……いい子にしてたよ」
「いい子?」
「いい子にしてたら好き。いい子じゃなきゃ嫌い。だから、いい子にしてた」
「具体的にはどういうふうにしたらいい子なの?」
「……うん」
彼の顔から笑みが消え、鬱屈とした悲しみが表情を強張らせる。これ以上は聞くまい。
「……ぼくね」
「うん」
「天使なんだって。神様の子どもなんだって。だから、耐えなくちゃいけないんだって」
「……」
これも、
「でもぼく、いい子じゃなかった」
「どうして?」
「そう言われた」
「いい子にしてたんだよね」
「うん。でもダメなんだって。〈好き〉じゃないって」
彼との会話の中で、よく〈好き〉という単語が出てくる。彼は〈好き〉という言葉を母親からよく言われていたらしく、その意味がわからないのだと言う。
「お母さんのこと〈好き〉?」
「うん。大好き。世界で一番好き。でも、わかんないんだ。本当に、
彼の表情が一気に曇る。そしてこの後、彼の中のトラウマが一気に弾けるのだ。
「……〈好き〉ってなんだろ」
彼の体がわずかに震える。
カウンセリングはここまでだ。彼のトラウマが弾ければ、いくら話をしても傷を広げることにしかならない。
神―――彼の母親の言う神とは、一体なんなのか。
先ほど神に祈った私からすればとても痛い話である。
なぜなら私は、地獄に落ちるからだ。
今日、彼を呼んだのは他でもない。私は、彼を救うために彼を殺す。
彼の心を壊した母親は、もうこの世にはいない。神狩盡が、自らの手で殺したから。
これ以上どれだけ話をしても、彼の心を完全に治すことなどできはしない。
彼のような素直で
犯してしまった罪は消えない。できれば、私が変わってあげたかった。私が代わりに母親を殺してあげればよかった。
「ねえ
「うん……ちょっと眠たい」
「君は最初のころから比べると、とてもリラックスして話してくれるようになった。それが私は嬉しくてね」
「嬉しい?」
「そう。だから試してみたい療法があるんだ」
私は立ち上がる。私が浅い呼吸を繰り返していることを決して知られないように、彼の隣に座った。
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