弔葬師《アンジェラス》の正義

くろ飛行機

人を好きになるって、なんですか《invention》

1 或るカウンセラーの独白


 部屋の時計が十七時を告げる。カタカタとキーボードを打つ音だけが、静かなカウンセリングルームに響いていた。

 暖色の照明、リラックス効果のある香りを出す装置、居心地の良い室内装飾、そして部屋の中央に置かれたふかふかのソファ――――――私は、部屋中を見渡して患者クライアントを受け入れる準備ができたことを確認する。後は、患者クライアントを待つのみだった。


 私は、次に予約が入っている患者クライアントのデータを、パソコン上に表示させる。


神狩盡かがりつくし、十一歳、当院への通院回数四回』


 患者クライアントの基本的な情報が画面に映し出されると、私はため息をついた。


 ――――――この少年は非常に厄介だ。


 仕事柄、初めてカウンセリングを行った時に、その患者クライアントがどれほどの精神的ダメージを持っているかをおおよそ判別する。そして、ここに来る者の大抵は深刻な状態であることが多い。

暴れる者。話ができる状態でない者。異常な妄想に囚われている者――――――。

 通常・・のカウンセラーたちが皆そろって匙を投げるほどに、厄介極まりない状態の患者クライアントたち。

 その理由は、傀朧カイロウと呼ばれる不思議な力が関与しているからである。

 傀朧とは、多くの人間たちが信じない超常現象を引き起こす元となる不可視の物質だ。それは人間の想像から生まれ、この世界に滞留し、やがて傀異カイイと呼ばれるバケモノを生む。

 想像の残滓である傀朧は、通常は脳から排出され、人間の精神にダメージを与えることはない。しかし、多大なストレス等の精神負荷が、傀朧の排出を妨げることがある。排出されなくなった傀朧は、人間の精神により大きなダメージを与える。

 私は、そんな患者クライアントを治療する傀朧医かいろういと呼ばれる特殊な医者だ。傀朧医は傀朧を用い、外科的、内科的治療を行う想術そうじゅつ患者クライアントに行使することで治療を行う。しかし、精神にダメージを負ってしまった患者クライアントの治療は困難を極める。なぜなら原因物質である傀朧を脳から取り除いても、その者の精神が元に戻るわけではないからだ。


 私は、傀朧医として多くの患者クライアントを治療してきた。

 しかしその影で、治療できずに多くの患者クライアントが絶望し、私の前から消えた。

 そのたびに、私は絶望を繰り返した。何度も何度も、力のなさを嘆くうちに、想術は、決して万能とは程遠いのだと痛感した。


 ――――――コン。


「どうぞ」


 弱弱しいノックが私の耳に入る。

 最後に部屋の隅にある小さな装置のスイッチを入れ、席につく。


「こんにちは、つくしくん」

「……こんにちはせんせい」


 私は神に祈った。存在するはずのない、虚構の行きつく先。人間の想像の最も高みにある超越的な存在に縋った。

 もし、傀朧が想像から生み出され、それが傀異カイイとなって形作られるのならば、神は実在するのではないか。いや、実在する。


 ああ、神よ。どうか、この子に救いを――――――。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆



 神狩盡かがりつくしは、ふかふかのソファの真ん中に座った。

 黒いTシャツの上から茶色のベストを着て、下は半ズボンと、年相応の恰好をしている。ただ年相応でないのは彼の体格だ。十一歳の平均身長よりも背が低く、体重もその分軽い。色白で顔色も良いとは言えない。無表情で感情を表に出さず、瞳はいつも遠くをぼんやりと見つめているようだった。


「今日はどうやって来たの?」

「送ってもらった。七楽ならくに」

「七楽課長に? それはよかったね。彼女は外で待っているの?」

「うん」


 こちらが喋りかけるとよく話してくれる。言葉通りまっすぐに。嘘は決して吐かなかった。彼はとても素直で純粋だった。


「今日はご飯、何食べた?」

「いちごパフェ。ここに来る前に食べたよ」

「好きだねいちご。今が旬だし、美味しいよね」

「うん。潰した時に、綺麗になるから好き」

「いつもいちごを潰して食べるの?」

「うん。潰しちゃう。潰さないと、美味しくない」


 彼は赤いものが好きだった。それだけでは普通のことだが、彼の場合深層心理に赤いもの・・・・がこびりついているせいで、赤ばかり見てしまうのだろう。それは、彼の話を聞いた時に理解した。


「じゃあ今日も昔のこと話してくれる? もちろん、嫌なことや話したくないことは話さなくてもいい」

「大丈夫。せんせいになら話してもいいかなって、思うんだ」

「ありがとう。無理はしなくていいからね」


 私は神狩盡かがりつくしと少し離れた斜めの位置に座り直す。


「じゃあ今日は、三つ質問をするね。まずは、君がお母さんにしてもらって嬉しかったことを教えて欲しい。できるだけ具体的に、思い出せる範囲で」

「……おかあさんはいつもご飯を買ってきてくれたよ。コンビニのお弁当。揚げ物とか、ハンバーグ。でもぼく、よく残しちゃった。そしたら、おかあさん、すっごく悲しそうにしてた。あとは、よく一緒に出かけた。夜遅くに、キラキラした街に行った。手をつないでくれたのが、とっても嬉しかった。それでね、高いところに行って、街を見下ろしたんだ。すっごく綺麗だった」

「なるほど」


 神狩盡かがりつくしは、にっこりと笑った。瞳の奥に漂う、心の傷を隠すように。

 彼は捨て子だったらしい。

 一歳にも満たない年齢で、想術師協会そうじゅつしきょうかい所管の児童養護施設の前に捨てられていたのだという。この養護施設は、特殊な事情を抱えた子どもたちが多く在籍している。彼は三歳の時、母親を名乗る女に引き取られた。その女は当時金をたくさん持っていたが、どこからか持ち逃げした汚い金であり、やがて一文無しになってしまったらしい。

 その上、女は狂っていたのだ。


「ぼく、おかあさんが笑ってくれたら嬉しかった。キラキラしたお店とか、友だちと会ってる時とか、化粧をしてる時とか。笑ってくれたら、ぼくも嬉しくなる。だから笑って欲しかったのに……」


 彼は壮絶な身体的虐待を受けていた。資料を読んだ時、吐き気が込み上げてくるほどには限りなく不快で悍ましい内容だった。

 殴る、蹴る、焼く、打つ、斬る――――――どれも吐き気を催す残虐性だった。


「そうなんだね。盡くんが、お母さんのためにしてあげた一番のことって、何かな?」

「……」

「話したくなかったらいいよ」

「……いい子にしてたよ」

「いい子?」

「いい子にしてたら好き。いい子じゃなきゃ嫌い。だから、いい子にしてた」

「具体的にはどういうふうにしたらいい子なの?」

「……うん」


 彼の顔から笑みが消え、鬱屈とした悲しみが表情を強張らせる。これ以上は聞くまい。


「……ぼくね」

「うん」

「天使なんだって。神様の子どもなんだって。だから、耐えなくちゃいけないんだって」

「……」


 これも、神狩盡かがりつくしからよく出てくる言葉の一つだ。資料を読んだところ、母親はよくわからない妄想に取り付かれていたらしい。彼への虐待の理由も、自らが信じるに基づいた行動だったらしい。


「でもぼく、いい子じゃなかった」

「どうして?」

「そう言われた」

「いい子にしてたんだよね」

「うん。でもダメなんだって。〈好き〉じゃないって」


 彼との会話の中で、よく〈好き〉という単語が出てくる。彼は〈好き〉という言葉を母親からよく言われていたらしく、その意味がわからないのだと言う。


「お母さんのこと〈好き〉?」

「うん。大好き。世界で一番好き。でも、わかんないんだ。本当に、好き・・なのか。何が好きで、何が嫌いなのか。わかんない」


 彼の表情が一気に曇る。そしてこの後、彼の中のトラウマが一気に弾けるのだ。


「……〈好き〉ってなんだろ」


 彼の体がわずかに震える。

 カウンセリングはここまでだ。彼のトラウマが弾ければ、いくら話をしても傷を広げることにしかならない。


 神―――彼の母親の言う神とは、一体なんなのか。

 先ほど神に祈った私からすればとても痛い話である。


 なぜなら私は、地獄に落ちるからだ。


 今日、彼を呼んだのは他でもない。私は、彼を救うために彼を殺す。

彼の心を壊した母親は、もうこの世にはいない。神狩盡が、自らの手で殺したから。


 これ以上どれだけ話をしても、彼の心を完全に治すことなどできはしない。

 彼のような素直で良い子・・・を見ていると、胸が張り裂けそうになる。

 犯してしまった罪は消えない。できれば、私が変わってあげたかった。私が代わりに母親を殺してあげればよかった。


「ねえつくしくん。眠くならない?」

「うん……ちょっと眠たい」

「君は最初のころから比べると、とてもリラックスして話してくれるようになった。それが私は嬉しくてね」

「嬉しい?」

「そう。だから試してみたい療法があるんだ」


 私は立ち上がる。私が浅い呼吸を繰り返していることを決して知られないように、彼の隣に座った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る