第26話 警察庁零課お掃除班⑤

 丘が、見えた。


 緑したたる美しい森におおわれた、こんもりと丸い鎮守の丘。

 丘に棲まう神、丘の化身たる神は、この丘そっくりのシルエットを持つ、おおきな獣だ。


 イノシシに似ている。


 たくましく盛りあがった背からは、たくさんの若木や草花が生えている。

 ゆったりと歩むひづめは優しく、なにも踏みしだくことがない。

 この神が通りすぎると緑が濃くなる。水が澄む。不思議な良い香りがする。


 イノシシ神は、近在のひとびとを守護している。

 刃をふるったり、戦ったりすることはない。

 立派な牙も使われたことはなく、やわらかく苔むしている。


 これは田畑の守り神。

 土と水をおさめる、とても穏やかな鎮守の神だ。


 だが、戦火がこの地を襲った。


 神を祀っていたひとびとは奪われ、殺され、生き残った者もちりぢりになった。

 集落は焼け落ち、田畑は踏みにじられた。

 残されたのは、愛する者たちの無惨な死体だけ。


 巨きな獣のかたちを持つ神、豊穣と子孫繁栄を約束する神は悲しんだ。

 泣いて、泣いて、泣いた。

 血の涙を流しておめき、吠え──


 悲しみすぎて、狂った。


 家も野山も巨大なひづめで蹴散らし、牙にかけて引き裂いた。地形すら激変させた。

 もはや守護していた民の子孫も見分けられず、慈悲を乞う母子さえ踏みつぶした。


 今や巨体をおおうのは黒いイバラと瘴気の炎。

 戦場を駆ければ災厄を、野山を駆ければ人にももののけにも死と疫病をまき散らす。

 まがまがしい祟り神となりはてた。


 霊能者がやってきた。

 修験者。巫女。僧侶や祈祷師。

 祟り神を鎮めようとした。討とうとした。


 すべて殺した。


 するともっとずっと力のある者たちが、数をたのんでやってきた。

 彼らは強かった。

 祟り神は荒れ狂った。


 何人かは返り討ちにしたが、彼らは命がけで祟り神を眠らせた。封じることに成功した。

 眠れる祟り神はしかし、眠ってもなおケガレをとめどなく吸い寄せ、吐き出している。


 ゆえにこの地の瘴気は絶えることがない。

 ふくらみ続けている。

 今も轟々と──


 こだまする怨念が土を腐らせ。


 慟哭どうこくが水を毒する。


 その──祟り神の恨み、憎悪、狂気のすべてが今、メイのものだった。

 凍えそうに寒い。

 なのに身体は燃えている。

 じりじりとめらめらと、骨の随から燃え続けている。


 ──痛イ。苦シイ。憎イ。


 もはや、感じられるのはそれだけ。だがその時。


(!)


 蠅が、目に入った。

 祟り神の魂を灼いた、凄惨な戦の記憶。

 怨嗟えんさの原風景の中、あちこちにやけに蠅が飛んでいる。


 蠅。


 たくさんの、異様なほど真っ黒な蠅。


 普通の蠅ではない。

 暗く尾をひく瘴気をまとい、人、獣、もののけ、なんであれ、その場のすべての命の、恐怖、絶望、慟哭を、大喜びでなめまわす。


 蝿の王の分身だ。


 恐怖と絶望、悲しみを糧とし、無数の分身で世界をおおう最古の夜叉神、ロキ。

 その姿を目にしたとたん、メイは理解する。


 ロキが、あおったのだ。


 いつもしているように──メイもその片鱗を体験したことがある──最悪の悲劇を望んでひとびとの対立をそそのかした。それこそがロキの欲望であり、本能だから。


 恐怖を万倍にもふくらませ、絶望をかきたて、ふだん武器をとらない、ごく普通のひとびとまでも、凄惨な殺し合いに駆り立てた。

 無惨な結果に、痛恨の涙を流させた。


 温和な鎮守の神、戦いには無力な神の深い慟哭に、執拗にたかってあおり続けた。

 そして──ついに血の涙を流して祟り神となりはてた獲物を、歓声をあげ、魂の底までしゃぶりつくしたのだ。


 そのせいでこの地は。

 この神は。

 こんなにも呪われてしまった。


(ひどい!)


 真っ白な怒りに目がくらんだ。


 瞬間。


 頭の中が静かになった。


 怨念の侵入がやんだのだ。

 もう祟り神の咆哮は脳裏に響かず、恐ろしい記憶も見えない。


 メイは、まばたきした。

 五感が戻ってきた。


 夜の暗さ、激しい雨音。

 濡れた髪が顔にはりついている。

 手のひらをついた石畳が冷たい。


 雨滴の伝う眼鏡ごしに、淡く輝く竹ぼうきを見た。

 護符はすでにあらかた燃え落ち、もう二枚しか残っていなかった。

 数珠も、残っているのは一本だけ。それもちぎれかけている。


 パニックになってもおかしくない状況なのに、なぜか頭はしん、と冴えていた。

 考えているのは、どうすればこの場から逃げられるか、ではない。


(このままなんて、絶対イヤ。なにがなんでも、この神さまを正気に戻してさしあげたい)


 その思いに身体が内から熱くなり、たちまち、こごえていた指の先まであたたまる。

 今やメイは、なにも恐れていなかった。

 どこからか、果てしなく力がわいてくるかのようだった。数珠を失い、とうに弱っているはずの結界も、なぜか苦もなく維持されている。


(でも、どうしよう? どうすれば、この方のお役に立てるだろう?)

 考えた。

 なにも思い浮かばない。


 念が届くかどうかと、心配などしなかった。

 濡れた石畳にすわって前を見たまま、呼びかける。


「スサノオ」

「なんだ」

 この場にいないはずなのに、すぐそばに浮かんでいるかのように、耳慣れた声が応じた。


 小さい破壊神は「あきらめたのか」とは言わなかった。

 メイの怒りと闘志の甘さを感じているにちがいない。とても機嫌がいい。

 その機嫌の良さがうれしくて、メイはさらに平静になった。

 問う。


「このひとを正気に戻してさしあげたいんです。わたしになにができるか、教えてください」

 なんだ、ぶっ殺す方法を知りたいんじゃないのか……とでも言いそうな、ちょっと不満そうな沈黙が一瞬、流れた。破壊神はしかし、メイの問いに答えた。


「いつもの紙切れは持ってるんだろ」

「えっ、折り紙のことですか?」


 メイは濡れた手をジャージのすそでふき、急いで雨合羽の下のウェストポーチを確かめる。

(お財布とスマホなら入れたけど、折り紙はさすがに……)

 思うより早く、指先に四角く固いものが当たった。

 あっ、と思い出す。


 先週、忙しすぎてお供えをなかなか折れなかったので、移動中のバスの中か、待ち時間にでも折ろうと入れたきり、出すひまもなく忘れてしまっていた。

 和紙製ミニ折り紙、百枚入り。それも、ふた包みも入っている。


「ありました! 持っています」

「だったら、やつが望んでいるものでもつくってやるんだな」

「はい……! ありがとうございます!」


(それなら……それならわたしにもできる……!)


 喜びにはやる気持ちをおさえ、メイは雨合羽の中、ひざの上で、百枚入り折り紙の包みを丁寧にはがした。ふた包みとも、はがした。

 二百枚を重ねてひざに置き、そっと、最初の一枚を手にとる。


 怨念と狂気に染まった鎮守の神が渇望しているもの、求めてやまないものを知ろうと目をつむり、土砂降りの雨に向かって顔を仰向ける。


(どうか……どうか……あなたがほんとうに望むものを、つくらせてください)


 祈った。

 願った。

 いつしか心の、自分である部分が薄れ、穏やかな静けさだけが全身に広がり──


「……あ」


 気がつくと手が膝の上で勝手に動いて、なにかが折り上がっていた。

 結界の光があっても合羽越しではよく見えず、指先でなぞって形を確認する。


 末広がりのフォルムは着物姿ですわった人のよう。

 前で合わせた両端は、そでのよう。


(あ、おひなさま……?)


 気づくと同時に、そのかたちを通して、祟り神を助けようと近づいてくる光を感じた。

 おそらく、この地でこの神とともに平和に暮らし、穏やかに一生を終えた人。


 日々の営みの印象がきらきらと、光の雨となって舞い落ちてくる。


 小さな喜び。

 小さな哀しみ。

 手仕事。土のにおい。ささやかだけれど豊かな実り。

 長く、長く続いた平和な時代。


 光が宿ると、折り紙のおひなさまは、雨合羽の下ですう、とみずから立ちあがった。


 折り方を知らないおひなさま、着物姿のひとがたを、メイはさらに折った。折り続ける。


 ふたつ。

 みっつ。

 よっつ。

 いつつ。


 折りあがる端から、祟り神を救うため降りてきた光が宿り、ひとがたは立ちあがる。


 ──おやしろさま。

 ──おやしろさま。


 ひとつ、またひとつと立ちあがる。

 子どものまりつき歌が耳に響く。

 祭りのおはやしも聞こえてくる。笑って、泣いて、踊って。


 無心に紙を折り続けるメイの口をついて、誰かの言葉が、メイではない声があふれ出た。


「おやしろさま……ごらんくだされ。空を、ごらんくだされ」


 空を。

 豊かな日々にも、時には荒れた空。

 戦と殺戮のあと、くすぶる煙の上にも、穏やかにそそいだ春の日射し。

 暮れては明け、暮れては明け、星月と太陽はめぐり──


 今やメイは、紙を手で折ってはいなかった。

 触れるはしから、紙がみずから同じかたちに折りあがり、光を宿して立ちあがる。


 次々に雨合羽の下からすべり出て、激しい雨の中、淡い光の尾をひいて飛んでゆく。

 彼らの奉ずる鎮守の神。

 敬愛する、穏やかな巨獣の姿を持つ神のもとへ。そして──


        ◆


「!」

 見守っていた千里はハッと息をのんだ。

 空気が変わった、と感じるより早く、丘のふもとの封じの大岩が、まっぷたつに割れた。

 割れた岩が倒れる、ずしん、という重たい音が、遠く響く。


 丘の中腹には瘴気の雲に埋もれるように小さく、メイの結界の光がのぞいていた。

 だがその淡い光が、恐ろしい勢いで強まりはじめた。

 ふくらんでいく。

 大きく、明るく。まぶしいほど──


「か、神納さ……」

 思わず目の前に手をかざした時、瘴気を貫き、天まで届く巨大な光の柱が立った。

 鳥居が粉々に砕け散った。

 丘から爆風が生じ、地表をなで、封鎖ラインにぶつかって火花を散らす。


 お掃除班総出で、数日がかりで強化した封鎖ラインが、揺れた。

 三角コーンのいくつかが火を噴き、溶け落ちた。

 数個が倒れた。

 だが封鎖ラインが破れる前に、


「!」

 真夜中の空高く、光の柱によってぽっかり空いた雨雲の切れ目に、〈日の出〉が輝き出た。


 むろん、物理現象ではない。ありえない。

 なのに明るい。本物の太陽同様、正視できないほどまぶしい霊的な光に、封鎖ラインの外の野山で小鳥が目を覚まし、ピチチチ、と早朝のさえずりをつぶやき始める。


 丘のシルエットが、動いた。


 最初は、光り輝く〈日の出〉へ向かって、瘴気の陰がさらにのびていくかに見えた。

 だがすぐ、ちがうとわかる。

 丘と同じほど黒く、大きい、驚くほど大きい影がゆっくりと丘から抜け、昇っていくのだ。


 祟り神だった。

 鈍重なひづめが、もがくように宙をかく。昇ろうとしている。

 無数の小さな光の玉がはげますように、祝うように、そのまわりを舞い飛んでいる。


 昇っていくにつれ、真っ黒な巨体から黒いかけらがぼろぼろと、はがれ落ちていくのが見えた。かけらを落とすほどに、その姿はだんだん明るく、小さく、軽やかに澄んでゆく。

 透きとおってゆく。


 うっすらと淡く浮かぶ、巨獣の輪郭がかすかに、そよいだように見えた。

 その背に光の若木が芽吹き、すくすくと伸びていく。

 半透明の草花が萌え出、咲きみだれる。


 ありし日の姿を取り戻した鎮守の神は、喜び踊る無数の光の玉とともに、まぶしい幻の〈日の出〉へとゆったりと歩み入ってゆく。ほどなく、光に溶けて見えなくなり──


〈日の出〉もろとも、あとかたもなく消えた。


 なにもなかったかのように、あたりまえの夜の暗さがよみがえり、あたりをおおう。


「…………」


 頬に当たる風が、軽かった。

 祟り神と一緒に、長年あたりに吹きだまった瘴気も根こそぎ祓われ、消え去っていた。


 丘のシルエットは今はただこんもりと丸いだけ。ぱらつく小雨の音まで穏やかだ。

 千里の手から、傘が落ちた。


「すごい……! 妖異が見えるようになったばかりの子が……〈岩戸開き〉を……!」


 ぼうぜんとつぶやく千里の横で、小さな破壊神がちょっと残念そうな声を出す。

「ふん。祓っちまったか」

「え……」

「久しぶりに、少しは食いでのあるやつを斬れるかと思ったのに」


「そっ、そんなことにならなくて良かったです。人家も近いし、被害が出ると困りま……」

「イノシシ一匹つぶすていどで、そんな騒ぎになるわけないだろ」

 あきれたように言う小さな破壊神に、千里はたじろいだ。

「ははは、うわあ……あれがイノシシ一匹……ですか」


 この地の祟り神は零課の基準でS級、と判定されていた。

 妖異のS級とは、ハリケーンにたとえるならカテゴリー5以上。

 地震にたとえるならマグニチュード8以上。

 つまり、暴れ出したら大災害になる、ということだ。


 遠見係の課員から、「神納五月巡査の守護神は、Sを五つつけても足りないぐらいの超弩級の神さまだから。くれぐれも刺激しないようにね」と注意されてはいた。

 しかし、ふだんは縮身して気を抑えてくれているし、話も通じる。


 強いのはわかっていても「Sを五つつけても足りない」はさすがに言いすぎでしょ、と千里は内心思っていた。だがあの、零課も手を焼くS級祟り神をザコあつかいとは!

「…………」


 初めて、相手の力のケタを読み間違っていたことに気づいた千里は、思わずそろそろと、小さな破壊神から距離をとる。

 そこへ、小柄な人影がおぼつかない足取りで、真っ暗な石段を降りて来るのが見えた。


「メイちゃん!」


 跳びあがるようにして駆けだす千里の後ろを、小さい破壊神が追う。

 メイは、千里の声に顔をあげた。

 急ごうとしたようだ。しかし崩れ落ちた鳥居の残骸につまずいたり、よろけたり。メイが最下段にたどりついた時にはもう、足の速い千里は丘のほとりにたどりついていた。


「メイちゃん!」


 千里は小柄な少女に飛びついて、濡れた雨合羽ごと抱きしめた。

「ありがとう! ほんとにありがとう! なんてお礼を言っていいか、わたし……」

 その時やっと、メイが泣いていることに気づいて、びっくりして体を離す。

「ど、どうしたの? どこか痛いの?」

「い……逝って、し、しまわれました……」


 しゃくりあげながらか細くつぶやくメイの肩に、千里はそっと手を乗せた。

「おみごとでした。ほんとうよ。どうして謝るの」


「だ、だって、わたし、ケ、ケガレを浄めて……お心を鎮めていただいて、お、穏やかにとどまっていただけると、思っ……は、は、祓うつもりなんか……なかっ……」


 涙に声を詰まらせるメイに、小さい破壊神がぴしりと言った。

「泣くな」

「ふぐっ……で、でも……」

「おまえはやつの願いをかなえたんだ。誇れ」

「!」


 メイは泣き顔のまま、驚きにゆっくり、目を見開く。

 うつむいた。


「そ……そうですね……わたし……あの神さまに、永く、安らかに、この地にとどまっていただきたかったけれど……そ、そんなのわたしの……身勝手な……願望で……」


 守るべき民も土地も失ったゆえに、狂乱した神だ。愛する人々がわざわざ迎えに来てくれたのに、ついて行かない理由などなかったにちがいない。


「で、でっ……でもやっぱり悲しいです」

 なかなか涙を止められないメイのずぶ濡れの頭を、千里は手持ちのタオルで優しくぬぐう。


「こんなに濡れて……疲れたでしょう。体調崩した直後だし、いちおう病院に行く?」

「い……いえ、だいじょうぶです。そんなに疲れてません」

「ほんとに?」

「最初はすごく、疲れたんですけど、途中から……今日はたくさん、ほんとうにものすごく大勢の方が助けてくださったので、そのあとはかえって……元気になった感じで」


 やっと落ちついてきたメイは涙をふき、光の窓が開いた方角へ向き直った。

 あらためて手を合わせ、丁寧に一礼する。

「皆様、ありがとう……ありがとうございました」


 それから近くに浮かぶ小さな破壊神を見あげ、こちらにも手を合わせて一礼した。

「スサノオも、ありがとう」

「なにがだ」

「教えてくれなかったら、折り紙使うなんて思いつかなかったです」

「バカかおまえは。持ってるもんはなんでも使え」

「あと、見ててくれてありがとう。おかげで勇気出ました」


 人間サイズだったら抱きしめたいぐらい感謝しています、と、口に出すのはさすがに遠慮した。なのに、気持ちとイメージがうっかり、念同様に伝わってしまったらしい。

 小さい破壊神は薄気味悪いものを見るような顔をして、手の届かない距離まで遠ざかる。

「あ、なんかひどい……」


 その時、千里が硬い声を出した。

「メイちゃん」

「は……はい?」

 あわててふり返ると千里がメイのわきにしゃがみこみ、メイの竹ぼうきを調べている。


「護符、二枚しか残ってないじゃない! 残り三枚になったら撤退、って言ったよね?」

「あう……す、すみません。気がついた時はもう、そうなってて……」


「こまめにチェックしなきゃダメよ! それになに? 数珠も残ったの、たった一本? いつ気がついたの? これが切れてたらあなた、死んじゃってたかもしれないのよ!」

 と言った指先が軽く触れたとたん、ぷつっ、と数珠が切れた。


 足もとに散らばる数珠玉を見おろすふたりの間に、居心地の悪い沈黙が流れる。

 千里は、メイの無謀を叱るべきか、無事を喜ぶべきか、激しく葛藤しているようだった。

 それから、はあああ、と長いため息をついてうなだれる。


「せ……千里さん?」

「わたしはね……『メイちゃんには早すぎます』って言ったのよ」

「誰に、ですか?」


「さっきの〈岩戸開き〉見た時にはね、メイちゃんにたのんで良かった、って思った。今でも思ってる。すごく感謝してる。ほんとうよ。でも、このほうきの状態見ちゃったら……」

 もう一度、はあああ、と長いため息をつき、千里は立ちあがった。


 深々と、メイに頭をさげる。

「ごめんなさい。まだ初心者で、身の守り方もよく知らない、しかも未成年のあなたにこんなお願いしちゃった自分が恥ずかしい。無責任だった。ほんとうにごめんなさい」

「いえあの……だ、だいじょうぶだったし……」


「運が良かっただけ! 運にたよってちゃこの仕事、命がいくつあっても足りないの!」

 と仁王立ちになる千里に、小さい破壊神がおもしろそうに口をはさむ。

「霊能者なんてやつらは、運も実力のうちだろ」

 千里がぐっ、と言葉に詰まったところをみると、ほんとうにそうらしい。


 しかし千里は破壊神の横やりに負けず、メイに向かって続けた。

「そうだとしても! それでも、運だけにたよっちゃダメなんです! メイちゃん」

「は……はい」


「おわびにわたし、責任をもってあなたに、身の守り方でもなんでも、わたしに教えられることは全部たたきこむから! 遠慮なくがしがししごくから、そのつもりでいてね!」

「あう」

 メイはたじたじと後ずさる。


 その時、どこからともなく、ぐうう、と変な音がした。

「? なんの音……」

 真夜中の暗がりをうかがう千里を前に、メイは赤くなる。

「す、すみません! わ、わたしのおなかです……」

 ぐうう。

 ふたたび響いた盛大な腹の虫に、千里は目を丸くした。


「メイちゃん、大物ね! あの瘴気の中につっこんだ直後に……おなかすくなんて! ベテランでもたいてい食欲なくすし、寝こむ人だって……」

「いえその今日は、あ、朝寝坊しちゃって、まだ二食しか食べてなくて……」


 言い訳になってない言い訳をつぶやくメイの背中を、千里は笑いながらばんばんたたく。

「いいねいいね、そうこなくっちゃ! 夜食、おごるわ」

「え、そんな悪い……」


「いいの! おごらせて。あ、でもメイちゃん、先にビジネスホテルにでも寄ってシャワー浴びなきゃね。そんなに濡れたままじゃカゼひいちゃうし、あれだけのケガレにふれたあとは、簡易でも、家に帰る前にみそぎをした方がいいし」

「えっ、そうなんですか?」


 雨はいつしか、やんでいた。

 千里とメイは車に乗りこみ、鎮守の丘をあとにする。

 ゆっくりと晴れていく雲間から、月がのぞいた。


        ◆


 千里に連れられ、メイは生まれて初めてビジネスホテルに入った。

 シャワーを浴び髪を乾かす間に、千里が服をコインランドリーで洗って乾かしてくれた。

 生き返ったみたいにさっぱりした気分で、また車に乗りこむ。


「じゃあ次はお夜食ね! メイちゃん、ファミレスとラーメンと中華、どれがいい?」

「え、コ、コンビニのサンドイッチでいいかな、って……」

「ダメ。今夜はなにがなんでも、しっかり食べて帰ってほしいの! わたしも食べるし」

「あ……あははは」


「選んで。ファミレスとラーメンと中華! どれがいい?」

「そ、それは迷いますね……でも……ファミレス……かなあ」

 いちばんくつろげそう、と思ったのだが、千里は目を輝かせた。


「いいわね! ちょうど季節限定のスイーツが出てるの。今年はまだ食べに行ってなくて」

「どんなメニューなんですか?」

 しばらくかぼちゃを使った甘味メニューのバラエティについて話に花が咲き、メイの空腹感がさらに増したころ、ファミレスについた。


 初めての真夜中のファミレスは客もスタッフも少なかった。しかしそれ以外はなにもかも昼間と同じで、メイはびっくりしてしまう。

 千里が三人前注文したのにも驚いた。楓もよく食べると思ったが、千里はもっとだ。


(千里さんの底なしの霊力のもとって、もしかして、ごはん?)


 わたしももう少し、ちゃんと食べた方がいいのかな……なとど思うメイをよそに、オーダーがすむと、千里が真顔で切り出した。

「実はね」

「はい」


「わたし、あの丘について、課長に相談したの」

「課長に!」

「討伐班に引き継ぐ前に、なんとか鎮静してもらえませんか、って」

 確かに大矢野課長なら、ひとりでもあの祟り神を鎮めてしまえそうだ。


「でも、いつもお忙しいから、だめだろうな、っていうのもわかってて。そしたら……メイちゃんのこと、推薦されてね」

「えっ……」


「でもわたし、『メイちゃんには早すぎます』って言ったの。だってメイちゃん、入ってまだ一年目よ? 妖異を見るようになってからも、半年そこそこでしょ」

「そういえば……そうですね」

 忘れていた。なんだかもう、生まれた時から妖怪たちと暮らしているような気がする。


 千里は憤然と続けた。


「わたしだって課長のことはものすごく尊敬してる。零課のレジェンド……陰陽寮時代や万妖異改方よろずよういあらためかた時代もふくめて、歴代トップの中でまちがいなく三本の指に入る人よ! でもね、これはむちゃくちゃだと思ったの。メイちゃんには早い! 安全確保が不可能だもの。ちょっと頭に来ちゃって『ありえません! なに考えてんですか』とかも言ったかな」

「わあ……」


「そしたら課長、『神納さんなら、だいじょうぶだと思いますよ』って。にっこり」

 驚きが大きすぎて、メイはなんと答えていいかわからない。


 千里はぎゅっと眉根を寄せ、身を乗り出した。内緒話のように言う。

「課長、ときどき怖くない?」

「えっ? い……いえ……」

「だってあの時わたし、課長の提案に乗る気なんか、これっぽっちもなかったんだよ?」


 運ばれてきたどんぶりメニューにさっそく手をつけ、ざくざくと豪快にかきこみながら、

「なのに、課長が『だいじょうぶだと思いますよ』って言って、さっさと行っちゃったあと、しばらくして気がついたら、メイちゃんに電話、かけてたの」

「えっ……」


「絶対、あのとき言霊ことだま使って、なんか術かけたんだと思う。わかんないけど、絶対」

「うーん……そういえば課長、うちの両親を〈説得〉する時も術、使ってたし……」


「でしょ! 確かに今回、結果は良かったわ。理不尽なぐらい良かった! さすが課長! でもね、それとこれは別! 課長のあれは明確に反則! 零課の規則にも抵触しまくってる!」

「え……そ、そうなんですか?」


 驚くメイをよそに、千里はどんぶりを片づけて味噌汁をすすりながら、箸をふる。


「緊急時をのぞいて、一般人はもちろん、部下にだって、説明もなくあんなことするのは出雲法違反です! 取り締まる側が違反してどーすんの、って話」

「あう……そ……それはそうですね……」


 とは言いつつ、あの課長がやるなら、それはしかたがないのでは、とメイは考えてしまう。

 千里もたいらげたトレイを横に置き、水を飲んで、ちょっとテンションが落ちた。


「まあ……緊急って言えば零課は忙しすぎて、いつでも緊急事態なんだけどね……」

「こ……今夜の現場も、今日明日中に鎮静できなかったら討伐、でしたもんね……」

「うん……」

 ふたりは向かい合ってちょっとしんみり黙りこむ。


 そこに千里が注文した特盛り焼き肉定食が出てきた。

 千里は「わたしばっかりごめんね」とメイに謝りつつも、これまたがつがつ、ものすごいペースで食べ始める。見とれるほどの食べっぷりだ。


「緊急時だから……うん、そこは同意する。でも、わたしやっぱり、腹立つのよ」

「課長に、ですか?」

「ううん、自分に」

「えっ……」


「いくら課長が言霊ことだま使いの名手でも、わたしが未熟者だとしても……こんなあっさり、普通の人みたいに術かけられるなんて、悔しすぎる……零課の課員として恥よ、恥!」


 千里はものすごい量のつけ合わせサラダをほおばりながら、宣言した。

「今後はわたし、課長と話す時には絶対、油断しない! 二度と術なんか、かけられるもんですか!」

「うわあ……それ、できたら逆に、すごいですよね」

「そお?」


 そもそも課長に張り合おうなんて、わたしなら思いつきもしないし、とメイは思う。

 破壊神が言ったように、千里はほんとうに攻撃向きなのかもしれない。

 たのんだグラタンが出てくるのを楽しみに待ちながら、ちょっと周囲を見まわす。


 小さい破壊神はいなかった。

 ふたりが食事に寄ると聞いて、先に帰った。あるいはどこかに遊びに行ったのかも。

 なんだか、そんな気がする。


(大矢野課長……そういえば、最近お会いしてないな)

 メイは千里とちがって、課長を怖いとは感じない。

 課長がだいじょうぶと言うなら、素直にだいじょうぶ、と思える。

 なにかの術でそう思わされている、とは思わなかった。なぜなら──


(あ、たぶんだけど、わたしは課長に術かけられたこと、ないから……かも?)

 むしろ、今ふり返ると課長はメイに対して、うっかり術をかけてしまわないよう、気をつけているような気配もあった……気がする。


(ロキさんをわたしにけしかけちゃった、って聞いた時は、さすがにちょっとびっくりしたけど)

 蝿の王のことを思い出したせいで、今夜浄めたばかりの鎮守の丘の印象がよみがえってくる。


 けれどみそぎのおかげか、この場の明るさのおかげか、生々しさはかなり薄れていた。


 ふと気づく。


 あの場が呪いと祟りの場になってしまったのは、ロキだけのせいではない。

 戦争をしていたのは人。目先の欲望にかられ、盗んだり奪ったりしたのも人。

 悲しみから抜け出せず、手当たり次第に呪ってしまったのはもののけ。


 ロキが関与しなくても、似たような出来事は起きたのではないか。

 人ももののけも、間違えるから。

 弱いから。


(でも……やり直せる)


 どれほど深い、癒やしがたい苦しみさえも手放して、明るい方へ踏み出すことができる。

 メイは今夜、その証拠を見せてもらった。

 そして今、あらためて思い返してみると、


(わたしがなんとかお役目をはたすことができたのって……実は、ロキさんのおかげかも)

 と思わずにはいられなかった。


 あの場に、ロキの残像が残っていたから。

 ロキの分身、黒い蠅を見つけたから、そのおかげで──祟り神の怨念にのみこまれ自分が誰かもわからなくなっていた時、正気を取り戻すことができた。


 恐怖と絶望、悲哀を喰らうロキがたかっているということは、その場の命が、そういう暗い感情に溺れてすべてを見失っている証拠だ。

 蠅がたかっていたら食べ物が傷みかけている、というのと似ている。


 最初はかっとなった。怒りに我を忘れた。

 けれど、その怒りに押しやられて怨念の流入がやんだとたん、思い出した。


 なにが起きても、どう反応するかは、選べるのだ──と。


 だから。


(ロキさんにも、感謝を。ありがとうございます。おかげさまで学べました。ありがとう)


 うっかり口に出したら、この場にいなくても小さい破壊神が察知して憤慨しそうだから、目を閉じ、心の中だけでそっと唱える。

 まさにその時。


 数キロ離れたところをたまたま飛んでいたロキの分身。

 真っ黒な蠅二匹が、この「感謝」の波動のせいであとかたもなく塵になった。


 分身の消滅を感じ取った蠅の群れは、本能的にメイの周囲からしりぞき、距離をとる。

 蠅の王はすでに一度、メイの祈念で、思わぬ痛手をこうむったことがあった。

 だが、さほど深刻にとらえていなかった。


 その時、メイの祈念をそこまで強めてしまったのは、ロキ自身の魔法だったからだ。

 しかし、今のはちがう。

 いきなり灼かれた。


 前ぶれもなく、光さえなかった。

 なのに破壊神の放つ破滅の火さながら、我が分身を滅ぼした──。


 驚愕に一瞬、全世界に散らばる蝿の王の無数の分身が、動きを止める。

 すぐ、もとどおりに動き始めたが──


 今や。

 最古の夜叉神、数多の悪魔の名を冠された不敗の魔王は我知らず、メイを恐れはじめていた。

 恐怖の気の化身が、恐怖する。


 ありえない異変のきざしを目撃したのは、夜空高く輝く、白い月だけだった。



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