第25話 警察庁零課お掃除班④


 母に許可をもらうことは、最初から考えなかった。

 夜更けの外出なんてふだんでも論外だし、熱を出して学校を早退した翌日ではなおさらだ。

(こっそり抜け出して、こっそり戻る……しかない!)


 いつものジャージは洗濯して、母がテレビを見ている居間に干してあった。

 もう乾いているはずだが、わざわざ取りに行って注意をひきたくない。

 メイはクローゼットの奥から、中学で使っていたジャージをひっぱりだした。

「うん、ぴったり……って、背がのびてない証拠かー」


 カーテンを開けて天気を確かめると、いつの間にか小雨がぱらついている。

 先週「仕事」で使って、壁にかけたまま忘れていた黄色い雨合羽をはおった。

 フードつきのポンチョタイプで、小学校から使っている。ちょっと子どもっぽいけれど、台風でもなければ傘なしでしのげるし、動きやすくてお気に入りだ。


 時計を見た。

 千里があと十分ほどで、近所の交差点まで車で迎えに来てくれることになっている。

 ウェストポーチにお財布とスマホを入れた。


 布団の下にクッションを入れ、中で人が寝ている感じにかたちを整える。

 万一、母に無断外出がバレた時のために、デスクに書き置きを残した。


『昼間寝すぎて目がさえちゃったので、ちょっとだけ、お散歩に出てきます。

 すぐ帰るので心配しないでください。スマホはちゃんと持ってます。   メイ』


 納得してくれるとは思えないが、これぐらいしか書けない。

 スリッパをベッドサイドにそろえて置き、靴下はだしでそうっと部屋を出た。

 小さい破壊神はなにも言わず、楽しそうについて来る。


 階段の途中で、メイは足を止めた。

 玄関に行くには居間の、開けっぱなしのドアの前を通らないといけない。

 テレビの音に耳をすます。ちょうど『どんちゃら探偵の野望』が、クライマックスで盛りあがっていた。やるなら今だ。メイはひとつ深呼吸して、声をかける。


「お母さん、わたし、もう寝ちゃうねー」

「はーい、おやすみー」


 期待どおり、母は立って来なかった。

 テレビ画面に釘付けで、たぶん、ふり向くことさえない、はず。


 着ている雨合羽がこすれる音が気になったが、テレビから響く派手な効果音や声高なセリフ、BGMにまぎれると信じて、なるべくすばやく居間の前をすり抜ける。

 どきどきする胸をおさえて玄関でしばし、居間の様子を確認。


 なにか笑えるどんでん返しがあったらしい、テレビがわっと盛りあがり、母が吹き出すのが聞こえた。メイはすばやく運動靴を出して履き、傘を持って玄関の引き戸をそうっと開けた。

 ゆっくり動かさないとがらがらっ、とすごい音を出すからだ。


 息を詰めて自分がすり抜けられる幅だけ開け、出て、閉める。鍵をかけた。


 母は、追ってこない。

 安堵のあまり長々と息を吐き出すメイに、小さい破壊神がおもしろそうに言った。

「親の巣を抜け出すだけなのに、人食いの魔物の横を通るような気合いだったな」


 メイは傘をさし、小走りに待ち合わせ場所をめざしながら、ついぼやく。

「こんなことしたってバレたら……お母さんに殺されちゃう」

「ほう、あの母親におまえを殺す気合いがあるとは驚きだ」


「そっ、そういう意味じゃないです! ホントに殺すんじゃなくて、これは比喩、もののたとえです! 今の『殺されちゃう』はその、めちゃくちゃ叱られる、とか、そういう意味で……」

「なんだ、それだけか」

「それだけです!」

「つまらん」

「つまらなくないですっ」


 時間より早く、待ち合わせ場所についた。雨のおかげか、道に人影はない。

(ご近所の人に見られないですみそう。助かるー)

 メイは千里の、黒いコンパクトカーを探してあたりを見まわした。

 千里は多忙でしばしば遅れてくるので待つつもりだったが、


「あ」


 濡れた路面にライトを光らせ、ほぼ時間ぴったりにやって来た。

 運転席のウィンドウが降りて、千里が硬い表情で言う。


「お待たせ。助手席、乗って」

「はい、失礼します」


 何度も乗せてもらって慣れている。傘をたたみ、すばやく乗りこんだ。

 千里は黙って車を出し、スマホのナビを使って街を抜けると、高速道路に入った。


「ほ……ほんとうに遠いところなんですね」

「そうなのよ。メイちゃん、お母さんに黙って出てきたんだよね?」

「は……はい。絶対許してくれなさそうだったから……」


「わたしだって、メイちゃんが自分の娘だったら絶対! 許可しないわよ」

「あはは……」

「なのにこんなこと……たのんじゃってごめんね」


 運転しながら言う千里の横顔が今にも泣きだしそうなのに気づいて、メイは驚いた。

 いつも元気で強気な千里らしくない。


「そ……それで今日の現場って……どんなとこなんですか」

「行けばわかるから」


 暗い声でつぶやいて気を取り直し、千里は小さな笑顔をつくってメイを見た。

「実際に見て、これは無理! って思ったら、遠慮なく言ってね。命賭けちゃダメよ」

「は……はい」

 命がけになるような現場、と知っただけで十分すぎて、メイは黙りこむ。


 小一時間、高速を走った。

 知らない地名のインターチェンジで降り、雨の降る中、どんどん山の中へ入っていく。

 小さな峠を越えると、田園地帯に出た。


 行けども行けども、車のヘッドライトに照らし出されるのは細く、糸をひくように降りしきる雨と、とうに稲刈りのすんだ田んぼばかりで、ものさびしい。

(お天気のいい昼間なら、ぜんぜんちがう印象かもしれないけど……)

 その時、


「!」


 急に背筋がぞくりとした。

 車の中なのに、足もとからざわざわと悪寒がはいあがってきて、メイは身を縮める。


 千里がスピードをゆるめた。

 一車線しかない田舎道の交差点で、停車する。


 規則正しく動き続けるワイパーの向こう、降りしきる雨の中、行く手を阻むように並ぶ三角コーンが、ヘッドライトに照らし出されていた。


 貼られているシールを見ると、よくある〈通行止め〉ではなく、零課の〈出入り禁止〉だ。

 路上だけではない。見ると左右の空き地にもずらりと、驚くほどの数が並んでいる。


「あ、あの、あれって……」

 口を開いたメイに、千里が答える。

「そう、零課の封鎖ライン。で、その向こうに見えるのが……」

「……!」


 封鎖ラインの彼方、二百メートルほど先に、夜よりなお暗くわだかまる、丸い丘が見えた。

 冬枯れた空き地に囲まれ、地に伏せた巨獣のシルエットのようにも見える。


 丘は、もつれあう巨大なイバラのような、凶悪なケガレに覆われていた。

 いや、ほんとうにイバラだろうか。

 梢が、うごめいている。

 幹が、もだえている。


 ケガレはみちみちと音を立て、刻々と、大きくなろう、さらに大きくなろうとしていた。

 だが丘から外に出られないので、より暗く、重くなりながら上へと積みあがっていく。

 おぞましさに息をのむメイの耳に、千里の静かな声が響いた。


「丘のふもとに鳥居と、大きな岩があるの、見える?」

「はい。こ、こんなに暗くて街灯もないのに……鳥居も岩も、うっすら光ってるから……」

「あれ、封印結界のかなめなんだ」

「え……すごい!」


「戦国時代末期に、この地で祟り神になってしまわれた鎮守の神さまを、当時の陰陽寮が鎮めたの。記録によるとその時、術者がふたり、亡くなってる」

「……!」


「長い、長い間、代々、大勢で手入れしてきたけど、このあたりの土地全部が呪われちゃってるから、いくら浄化しても追いつかなくて……」

 悔しそうにくちびるを噛む。


「結界も、もうボロボロ。いつ崩壊してもおかしくない。でもそうしたら眠っておられる祟り神さまが目覚めて、出てきてしまう」

「そ……そうしたら、どうなるんでしょうか」


 たずねはしたものの、メイも答えの予想はついた。

 スサノオの霊玉ウパーラを喰らい、異形と化して狂乱した龍神の恐ろしさは忘れられない。

 敵も味方もない。見るものすべてを滅ぼす勢いだった。祟り神というならきっと──。


「祟り神さまに説得は通じない。人の目に見えようと見えまいと、大惨事になるわ」

 やっぱり、と思うメイに、千里は淡々と続けた。

「大昔、ここを封じるために亡くなった術者のひとりはね、わたしの先祖なんだ」

「えっ……」


「うちにはその人が残した、こんな家訓が伝わってるの。もとは鎮守の神さま、浄めのヌシさまだったもののけさんが、時に祟り神になってしまうのは人にも責任のあることだから……だからみだりに討ち滅ぼすことなく、意を尽くし、心を尽くして祈り鎮め奉りなさい、って」


「すてきな家訓ですね」

 心から言うメイに、千里はちょっと笑った。

「でしょう? うちの家訓は、わたしの心のよりどころなの。誇りなの。だから、なんとかわたし……わたしたちの手でここの神さまを救いたい……救いたかった。でも……」

「…………」


「ここ、お掃除班うちが鎮められなかったら、討伐班が引き継ぐんだ」

「!」

「期限は明日」

「そ……そんな……」


「悔しいけど、しかたない。お掃除班ができることは全部、やったんだよ。たましずめ……鎮魂が専門の課員はもうご高齢で、とてもここまで来られないし……結界がもろくなりすぎてて、先週ぐらいからもう、一度にひとりしか、中に入れなくなっちゃったしね」

「ひとり! た、たったひとりであの中を〈お掃除〉する……んですか?」


「みんな、もう限界。結界崩壊に備えて、封鎖ラインを強化するのがせいいっぱいだった」

「でっ、でもあの、千里班長なら……」

「わたしはこれ以上、近づけないの」


 千里は怒ったような声を出して、目もとににじんだ涙を乱暴にぬぐった。

 悲しい、というより腹が立つ……あるいはむしろ、悔しくてたまらない、という感じだ。

「ど、どうして……」

 と言うメイの後ろから、小さい破壊神がおもしろそうに口をはさんだ。


「もろくなった結界が壊れるからだろ。おまえの気は攻撃向きだからな」

「そ……そうなんですか?」

 メイは座席の後ろに浮かぶ小さい破壊神と、運転席の千里を見くらべる。

 破壊神は平然と続けた。


「センリと言ったっけな。おまえ、ガラでもない鎮静なんざ辞めて、討伐をやれ」

 千里の事情も信念も聞いていたはずなのに、遠慮も容赦もないコメントに、千里がイラッとしたのがメイにもわかった。


「メイちゃんの神さまは……人を怒らせるのが上手ね」

「あう、す、すみません……」

「なぜ怒る。ほんとうのことを言っただけだろう」


 機嫌のいい小さい破壊神がそれ以上なにか言う前にと、メイはあわてて割りこんだ。

「あのっ! それでわたしは、ここでなにをすればいいんでしょう?」

 初めて、千里がまっすぐ、助手席のメイを見た。驚いているようだった。


「メイちゃん、あれを見て怖くないの? あそこに、ひとりで入らないといけないんだよ?」

「だいじょうぶです!」

「無理してない? わたしの話を聞いたからって……」


「ちがうんです。わたしもよそで……ヌシさまやもののけさんたちに会ったから……」


 学校のヌシ、〈岩倉さん〉や、笹鳴山の交番でメイに助けを求めてきた大きな大きな、愛らしいもののけさん。メイのお弁当を勝手に食べてしまった代わりに、びっくりするほどおいしいおむすびを置いていってくれた、どこか計り知れない感じのヌシさまたち。


 今までの出会いがどっとよみがえってきて、メイはたまらなくなる。

「わたしが、この土地のヌシさまをお助けしたいんです! 討伐なんてあんまりです」


 零課の研修で聞いた。

 祈り鎮める鎮静に対し、討伐とは、


『妖異を、存在をたもてないほど細切れにして滅ぼすこと』


 だと。


 破壊神が獲物を斬り刻むのと同じだ。ちがうのは、

(人間は、滅ぼした命を食べるわけじゃない。ただ、滅ぼすだけ。それに……)


 人の術は破壊神の刃ほど速くない。あれほど強力でもないはずだ。

 きっと、相手を苦しめてしまう。

「それに術者が相手より弱かったら……術を返されて死んじゃうこともあるんでしょう?」

 悲劇の上塗りだ。


(そんなの、絶対イヤ……!)


 という思いに駆り立てられて、メイはきっぱり言った。

「なにをすればいいのか、教えてください。わたし、やります」

 ふだんおとなしいメイの気迫に、千里は息をのみ──

 うなずいた。


        ◆


 車から降り、降りしきる雨の中、竹ぼうきをもらった。

 見ると今夜の竹ぼうきには数珠が巻かれ、手書きの護符が何枚も結びつけてある。

「すごい! 光ってますね」

 目を丸くして見とれるメイに、傘をさして立つ千里は、真剣に注意した。


「身を守るためよ。結界の中は、護身が得意なベテラン課員でも、歩くのも、息するのもしんどいぐらい瘴気しょうきが濃いの。あ、瘴気って言うのは、ケガレのいちばん悪質な状態で……具象化できないほど濃いケガレのこと」

「具象化できないほど、って、じゃあ、あの、すごい巨木みたいになってる部分の方が……」


「そう。マシなの。かたちをとれるだけ、マシ。具象化してるおかげであるていど安定して、直接さわらなければあんまり影響受けないですむしね」

「あれが……マシだなんて……」


「でも、瘴気はちがう。毒ガス……ううん、むしろ液体に近いかな。怨念や呪いのエキスみたいな状態で、近づいただけでしみこんでくるの。植物なんか触れただけでしおれて枯れちゃうし、腐るし、小動物も弱い妖怪も、たちまち死んでしまう」

 言いながら千里はちらっと、わきに浮かぶ小さな破壊神を見たが、メイは気づかなかった。


「霊能者でも、護身にスキがあったり、心が弱ければあっという間に乗っ取られて命を食い尽くされる。死ぬか……生きた死体みたいになって……人を襲う化け物になった例もあるのよ」

「!」


 ほうきを手に息をのむメイを前に、千里は顔を曇らせる。

「メイちゃん、こんなことも今初めて聞くんだよね。やっぱり、こんな無茶なこと……」

「それで、気をつけなければいけないのは、どんなことですか?」


 メイの決意の固さにはげまされ、千里はくちびるをひきしめて続けた。

「メイちゃんの霊気はとても受容的だから、結界を壊す心配はないわ。でも、受容的だから、瘴気をはねつける力はそれほどない。結界に入れるタイプの霊能者はみんなそう。だから身を守るために、こういう護符を使うの。でも、無限に効くわけじゃない」


 メイが手にしている竹ぼうきの、穂先から手もとの柄の先まで、なぞるように指さした。


「護符は、穂先に近い方から順に、燃え尽きていきます。十二枚つけてあるけど、よくもったとしても一時間。残り三枚になったら問答無用で撤退! 絶対に、守ってね」

「はい」


「護符をこれだけつけてても、それでもあの中では消耗するから、疲れたり、わけもなくネガティブな感情がわいて止まらない、ってなったらほうきで自分のまわりに円を描いて」

「円を?」


「そう。くるっとまわって、自分のまわりを丸く掃けばいいわ。その円が閉じると、簡易だけど結界ができて瘴気の侵入を防いでくれる。少し休めます」

「わかりました」


「最後に、この、巻いてある数珠ね。これが、ほうきで円を描いただけで結界を作ってくれる術のもとなの。でもこれも、あの中ではすごい勢いで傷むから」

「!」

「三本あるけど、一本でもちぎれそうになったらすぐ、逃げて」

「えっ……」


「二本だと効き目が半減します。そうなったらもう、退避するだけでせいいっぱい。浄化なんか忘れて。自分の命優先で、すみやかに撤退すること! わかった?」

「了解しました」


 護符だらけの竹ぼうきを胸に答えるメイに、小さい破壊神が楽しげに言った。

「手に負えないと判断したらそう言え。始末してやる」


 小さい破壊神も近づいただけで結界を壊してしまうため、ここで待つことになっている。

 でも、呪いではじけそうな丘を見やる目は、ごちそうを前にした猫みたいだった。

 場違いなほど無邪気な期待に、きらきらしている。


 メイは苦笑した。

「その時にはお願いします。行ってきます」

 メイは千里と小さい破壊神、つけっぱなしの車のヘッドライトに背を向けた。

 小走りに三角コーンの封鎖ラインを越える。


(あ……)


 空気がずしっと重たくなった。

 雨合羽に当たる雨音まで、急に強くなった気がする。

 ポンチョ型の合羽をなびかせ、メイは水たまりだらけの道を、ばちゃばちゃと走って行く。


 封鎖ラインの中は、怖いほど荒れ果てていた。

 千里の教えてくれた瘴気のせいだろう。木々はみな折れ朽ち、野ざらしの骨のよう。

 水がよどむのか、腐った肉のような悪臭も鼻をつく。

 道の舗装も、風化が進んでいた。


 走るにつれ、ヘッドライトの光が背後に遠ざかり、弱まっていく。

 ついに光が届かなくなり、行く手に踊っていた影が、夜闇に溶ける。

 周囲の闇が厚みを増した。

 雨雲と夜闇が地上のすべてを押しつぶそうと、のしかかってくるかのようだ。


 かまわず真っ黒な丘のふもと、微光を放つ鳥居と大岩めざして走った。

 たどりつき、鳥居を見あげて立ち止まる。


 簡素な鳥居だった。

 しめ縄を張った大岩のわき、古い石段にもうけられている。

 ひどく傷んであちこちひび割れていた。ケガレか本物かわからないツタがいちめんにからみ、朽ちかけの横木からはささくれがぶらさがっている。


 なのに今もうっすら、金色の光を放っていた。

 不思議なほど、優しい光だ。

「…………」


 降りしきる雨音に混じって、異形の森が結界の中で、みしみしときしむ音がした。

 メイはひとつ深呼吸、石段を登り、鳥居をくぐる。


「!」


 息が詰まりそうになった。

 闇が濃すぎて、スープどころか泥沼にはまった心地だ。空気はあるはずなのに窒息しそう。

 進もうにもねばつく重たい瘴気にはばまれ、石段の、次の一段が、あがれない。


 ぼっ、と音を立てて、ほうきの先の護符が一枚、燃え落ちた。

 二枚目もくすぶり始める。


(うそ! まだ入って数秒しかたってないのに……!)


 恐怖にかられ、ほうきをふりまわしかけて、メイははっと我に返った。


(やみくもにふってもダメ! ちゃんと……ちゃんと心をこめて……)


 助けたい、この地のヌシさまをお救いしたい、心安らかにお休みいただきたい……その思いに集中し、あふれ出た言葉をそのまま、声に乗せる。


「きれいに……なりますように」


 掃いた。

 まぶしいほど強烈な光が竹ぼうきからほとばしり、瘴気がひいた。


 息ができる。

 階段をあがろうと必死でがんばっていた足が急に軽くなり、とん、と次の段を踏んだ。

 メイはぽかんとする。

 わけがわからなかった。今までこんな強い光が出たことはない。


(も、もしかしてこの、護符たっぷりのほうきのおかげ? ありがとう千里さん! 護符を書いてくださった人! これなら、これならなんとかなるかも……!)


 メイは、夢中で掃いた。

 海をかきわけるように掃き。

 夜を祓うように掃く。


 掃いて、登り、掃いて、登る。

 どれほどの時間、そうし続けていたかわからない。

 気づくと、踊り場にいた。


 今や土砂降りの雨の中、周囲にイバラのような、大蛇のようなケガレの巨木が迫っている。

 丘の中腹あたりらしい。


 見あげると、行く手の瘴気はいよいよ濃く、ふり返ると、せっかくここまで切り拓いて来た道もすでに、新たな瘴気にとっぷりと沈んでいた。


 息が切れていた。

 急に、とてつもない疲労をおぼえる。膝が震えて、立っていられない。ふと目を落とし、


(えっ?)


 ぎょっとした。

 知らないうちに竹ぼうきに結ばれた護符が、半分以上燃え尽きている。


 あわてて残りを数えた。

 五枚。

 残りが三枚になったら戻るよう言われたのを思い出し、ぞっとする。


 どうしよう、こういう時、どうするんだったっけ?

 疲れすぎて頭がまわらなかった。かろうじて、


(そう! 疲れたら円! ほうきで、自分のまわりに円を描いて……)


 思い出しはしたが、さっきまで軽かった竹ぼうきが今はずっしり、石のように重かった。

 みるみるうちに分厚い瘴気が、真っ黒な壁となって押し迫ってくる。


 メイは必死で、なかばほうきをふりまわすようにして、自分のまわりを丸く掃いた。

「!」

 すんでのところで完成した結界が淡い光を放ち、瘴気の接近をせきとめる。


 メイは、崩れるように、石畳の上にへたりこんだ。

 けんめいに呼吸を整える。


 雨合羽のフードが脱げてしまい、たたきつける雨にみるみるうちにずぶ濡れになる。

 なのにフードをかぶり直す気力もないほど、疲れ果てていた。


(ダメ! こ……こんなやり方じゃぜんぜん、通用しない……ど……どうすれば……)


 その時。


 足もとで丘が、身じろぎした。

 地底に眠る祟り神が、いびつなまどろみのうちに、メイの存在をかぎつけたのだ。


 瘴気が濃くなりはじめた。

 地底からとめどなく噴きあがるケガレに、異形の巨木が目に見える速さで育ち始める。

 ほうきに巻かれた数珠の一本が、ぷつん、とちぎれた。


「あっ……」


 木製の数珠玉がぱらぱらと石畳の水たまりにまき散らされ、たちまち腐り落ちていく。

 そのありさまに息をのむより早く──

 濡れた石畳からどっと逆流した怨念に、メイは自分を見失った。



警察庁零課お掃除班⑤へ続く

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