第19話 もちつきウサギと月の石④

 縮身した小さい姿のまま、ものの数十秒で雲の高さを超え、ジェット機の飛ぶ高度に達する。


 山々も足もとに見る高さだが、この高度までは比較的、なじみがあった。

 大昔、山より巨大で凶暴な、空飛ぶムカデのような妖怪がたくさんいたからだ。

 そいつらはものすごくタフだったが、賢くはなかった。

 それで、スサノオと同世代の夜叉神たちに狩り尽くされ、たちまち姿を消した。


 今は、この高度には龍が棲んでいる。

 ちょうど、角とうろこをきらめかせ、長い身体をうねらせて、半透明の防衛色の一頭がゆったりと通りかかった。

 大きさからして成龍。破壊神に自分を狩る気がないことを察し、急ぐことなく泳ぎ去る。


 スサノオはしばし宙にとどまり、月を見つめた。

 夜空に浮かぶ月までの距離は、まったく縮まったようには見えなかった。

 思っていたより、遠い。

 かなり、遠い。


 こんな速さで飛んでいてはらちがあかない、と判断。

 スサノオは縮身を解き、人間サイズに戻った。

 同時に、額を縦に割って出現する、第三眼を開く。

 これで全力を出せるようになった。即、めいっぱい加速する。


 古い古い時代、自分よりも古く強い神々との戦いのさなか、必要に迫られてごくまれに、短時間だけ使ったことがある最高速に、久しぶりに達した。

 維持する。


 音速の十倍近い速度で大気を貫いていく夜叉神のまわりに、衝撃波は発生しなかった。

 摩擦熱も発生しない。

 ただ、神気にくくられ低高度からついてきた水蒸気が凍り、きらきらとはがれ落ちていく。


 十二数えるほどの時間で、成層圏上部、地上およそ五十キロに達した。

 速度をゆるめ、見おろす。


 人間の灯す明かりが、夜の陸地を山火事や火山よりもまぶしく、煌々といろどっていた。

 はるか遠くの雲の下で、雷光が音もなくまたたく。そして──


「ふうん」


 知らないわけではなかったが、この高さまで昇ると、大地が丸いのがよくわかる。

 ここは夜だが、大地の黒く丸い輪郭を、淡い青のもやがうっすらとやわらかく包んでいた。

 おもしろい。

 理由はわからないが、なぜか心を動かされるものがある。


 一方、頭上の月はなおも無限の彼方にあるごとく、少しも近づいたようには見えなかった。

 いまだに遠すぎて、距離さえ正確に認識することができない。その時、


「!」


 三つ目の破壊神は、驚くべき高速で接近してくる存在を感知した。

(速い!)

 脅威と感じるには遠すぎるが、それにしても速い。

 スサノオがさっきまで出していた速さの、軽く倍以上の速さに達している。


 いったいどんな未知の怪物かとわくわくしながら三つの瞳をこらす。

 夜叉神の視力は、はるか彼方から接近しつつある、高速のなにかが放つ光をとらえた。

 同時に認識する。

 あれは人間の建造物だ。しかも──


 血肉を備えた、もろい、生きた人間が乗っている……!


 あぜんと見あげる三つ目の破壊神のはるか頭上、地上四〇〇キロの超高空を、国際宇宙ステーションが音もなく、すべるようになめらかに通過した。


 妖怪でも、霊的遺物でもない。

 生身の人間が中に乗る物理実体なのに、鳥にも飛行機にも似ていなかった。

 はばたく翼も、推力を生む炎の仕掛けもなしに、あの速度で飛ぶとはなんの魔法か?


 超高速を難なくたもって、優雅に遠ざかる人間の乗り物を見送って、

「こいつは、驚いた」

 つぶやく破壊神の三つの瞳には、手放しの賞賛の光が宿っていた。


 奇妙な乗り物が通過したのは、今、自分が滞空している高度の十倍以上の高空だと、正確に見積もっている。しかも小面憎いほど楽々と、ほとんどエネルギーを費やさずに、だ。


 闘争心に火がついた。

 あの速さを超えてやる、と決める。

 なんといっても、この夜のうちに月に到達し、月のかけらを削り取って──

(夜明けまでには戻りたいからな)


 それが現実的な願望かどうかなど、破壊神にとってはどうでも良かった。

 まず望む。

 それからやり方を考える。


 余力を測った。

 久しぶりに第三眼まで解放したが、今のところ疲労も負担も感じられない。

 ということは、今まで最高速とみなしていた速さはあくまで日常、無理なく使いこなせる範囲の最高速であって、真の〈限界〉ではない、と判断する。


 心臓の霊玉は失ったまま再生していないし、存在のひび割れは今や数えきれないほどだ。

 なのに、過去もっとも力があふれていた時と同等か、それ以上の充実感があった。


(できる)


 やったことがないから、やり方を知らないだけだ。

 既知のイメージを超え、たった今目撃した人間の乗り物のように飛ぶことをイメージする。


 これは戦闘ではない。攻撃や反撃のための力を残しておく必要はない。

 すべてを「飛ぶ」ことにのみ集中すればいい──。

 未知の、燃えるような高揚感がこみあげてきた。


 夜叉神は本来、必要以上のことはしない。

 必要なだけの獲物を狩り、存在をおびやかす敵を撃退できるなら、それ以上の力が自分にあるかどうかなど、試す必要はないからだ。

 獣と同じ。

 チーターは自分の限界に挑んだりしない。ただ駆け、狩り、届かなければあきらめる。

 それだけだ。


 人間だけが必要を超え、あまたの限界を乗り越え、未知の可能性に挑む。

 挑み続ける。


 行く手の超高空に、先ほどの大きな乗り物以外にも、小さな機械がたくさん飛び交っているのを感知して、破壊神は口もとをゆるめた。


「くくっ、あなどれないチビどもめ」


 ほとんど親愛の情をこめてつぶやき、瞬時にそのすべての軌道を把握。

 動く物の速さと軌道を読むのは、戦神のもっとも得意とするところだ。


 たちどころに、どの物体とも衝突はもちろん、かすめて壊す心配もない進路をはじき出す。

 小さな機械に生命体が乗っている気配はなかったが、どのひとつをとっても、もろく短命な人間たちが工夫と熱意をこらして作った「大事な物」だと認識していた。壊したくない。


 拳に力をこめる。

 成層圏の、薄い大気が震えた。

 発進の瞬間、極大の霊気のあおりで雲が生じ、円形に吹き飛ばされて巨大な輪を形作った。


 地上からこの不自然な雲を観測、写真に撮った天文マニアは、どの国のミサイルか、人工衛星の打ち上げかとネットでうわさをしたが──

 三つ目の破壊神は、一秒の十分の一以下で、既知の最高速を三割超えた。


 だがまだ足りない。

 人の手になる多数の飛行体にぶつからないよう設定した進路は、最高速の倍の速度を想定していた。正確なタイミングでくぐり抜けるのに、これではまだ遅すぎる。


 もっと速く。


 もっと速く。


 流星を見た。


 星空から落ちてくる石が熱を持ち、つかのま爆発的に輝いて消えるのだった。


 もっと速く。


 無意識に歯を食いしばる。

 三十数えるほどの間に、めざす速さの、ようやく七割に達した。

 進路をわずかに修正。でないと列をなして飛ぶ、小さな物体のひとつをかすめてしまう。


 目標の速さに達した。

 わずかに、超えた。

 さらにもう少し。


 初めて、身体に抵抗、もしくは違和感を感じた。

 押されるような、引き戻されるような。

 あとにしてきた大地が未知の力で、月への飛翔を制止しようとしているかのようだ。


(じゃまするな)


 ふりはらった。

 急に身体が軽くなり、とてつもない解放感が全身を満たす。


 今や三つ目の破壊神は、未経験の速さと飛行、そのものを純粋に楽しんでいた。

 全力をふりしぼって飛び続けること、およそ二分。


 ようやく、人間の機械が飛び交うめんどうな高度を抜けた。

 心地よい高揚感とともにいったん停まり、あらためて月を見る。

 今度こそ少しは近づいたかと思ったのに、


「…………」


 月は、地上から見た時と一分の差もなく、あいかわらず無限の彼方で輝いていた。

 思わず、足もとの大地をふり返る。


 大地は、さっきよりも目に見えて遠ざかり、明らかな球体の様相を呈していた。

 丸い。

 流れの底で長い年月磨かれた、つるりと丸い石ころのようだ。


 なるほど、と破壊神は思う。人間たちが大地を「地球」と呼ぶのはこのせいか。

 確かに球だ。

 どっとわき起こる未知の感情に圧倒されかけたが、気を取り直し、また月を見た。


 大地……地球の濃密な気配が、この高度でようやく、薄れたおかげかもしれない。

 あるいは全速を超える速さを体験して、無意識のリミッターがはずれたのか。

 突如、月までの距離の認識に成功する。


 瞠目どうもくした。


 とほうもない距離。

 想像をはるかに超える距離だった。


 ここまで昇ってきた距離を一とするならその十倍の、十倍の、さらに十倍ほど。

 たった今勝ち取った全速力でまっすぐ向かっても、片道だけで、半日あまりかかるだろう。

 往復すれば丸一日を超えてしまう。


 さしもの怖いもの知らずの破壊神も、うなった。

 夜明けまであと数時間。

 その間に往復したいなら少なくとも、さっきの五倍の速度が必要だ。

 しかもその速さを行きも帰りも数時間にわたって、休みなく維持しなくてはならない──。


 大地の気配が遠ざかり、薄れた今、なにか荒々しい、地上の生命であればたちまち死滅してしまうような苛烈なエネルギーが打ちつけてくるのも感じていた。


 夜叉神の護身を貫くほどではない。

 しかしちりちりと、灼けるような感覚。


 地上の尺度が通用しない、ありえないほど大きな空間、未知の脅威に静まりかえる圧倒的距離を前に、破壊神は生まれて初めて、自分を小さい、と感じた。


 あっけないほど小さい。


 砂粒も同然だ。


 今までどれほどの強敵、巨大な相手と対峙しても、こんな感覚をおぼえたことはなかった。

 おとなしく地上に戻れ──と無限の夜空に言われたような気さえした。

 自分の属する世界へ帰れ、と。


 夜叉神の生存本能も、ここでひき返すべきだと主張する。

 じゅうぶん楽しんだではないか。

 これ以上の危険を冒す必要がどこにある?


 なんとか月にたどりつけたとしてもその時には、帰る力など残っていないかもしれない。

 行き着くことすらかなわないかもしれない。

 うまくいかない可能性の方が高い──。


「やってみもしないで、なぜわかる」


 つぶやいた自分の声さえ地上と聞こえ方がちがうことに、破壊神は驚く。

 物理的な「音」は、空気とともに消えたらしい。

 愉悦の笑みが、口もとににじんだ。


 死ぬかもしれない?


 なら死ねばいい。


 もはやこれは、メイに月のかけらをやるためではない。

 ささいなことですぐ死ぬくせに月に到達したという人間たちに、張り合うためでもない。


 ただ、この恐るべき未知の虚空、ありえないほどの距離を、この手でねじ伏せてやりたい。

 自分がどこまでやれるのか、見てみたい。

 それだけだ。


 破壊神は三つの銀の目を細め、数秒、どう挑むか考える。

 すぐ、結論は出た。遠く離れた場所へ瞬時に移動する術や技は、人間にも妖怪にもいくつかあるが、どれも自分には使えない。自分にできるのは単純にただ、飛ぶことだけ。


 では、飛ぼう。


 考えるより早く、飛び立った。

 たちどころに、さっき覚えたばかりの最高速に達する。

 だが、これでは足りないのだ。


 少なくとも五倍の速さが必要──と考えかけて、ふと気づく。

 五倍と言わず、いっそ十倍の速さを出したらどうだ?

 もしそんな速さで飛べれば、月だろうともまたたく間に到達し、軽々と戻れるではないか!

 あまりに愉快な思いつきに、破壊神は奮い立った。


 もはや、気を遣う必要のある人工物が行く手を横切ることもない。

 速く飛ぶこと。

 その一事に、全身全霊を集中する。


 加速した。


 さらに加速した。


 今、どのぐらいの速さか、見積もることをやめた。


 月の存在を忘れた。


 地上のことも忘れた。


 自分が何者かさえ意識の外にかすみ、その時初めて古い神は、おのれの強靱な身体が「速さ」、もしくは「飛行」そのものの負荷できしみ出すのを感じた。


 ふうん、このあたりが〈限界〉か? という思考が意識をかすめる。

 しかし速度はゆるめなかった。

 こんな楽しいことを途中でやめられるわけがない……!


 人の形の輪郭がひび割れはじめた。


 はがれ落ちた皮膚の破片が飛び散った。彗星の尾のように、後方にまき散らされ塵になる。

 かまわずさらに加速し、加速し、加速する。


 かたちが溶け始めた。


 まばゆく光り輝き始めた。


 今や、三つの目を持つ光の槍と化した破壊神は、虚空に爆発的な哄笑を放った。


 歓喜。


 混じりけのない歓喜の波動が時空すら震わせる。

 瞬間的に、光速の八十パーセントを超え、


(おっと)


 月に激突する寸前、数キロ手前であやうく、停止した。


 霊的存在は停止しようと思えば即、停まれる。しかし一瞬の万分の一でも判断が遅れていれば月をぶち抜くか、月面に特大クレーターをうがつところだった。


 とろけた光の柱のようだった身体が、ゆっくりともとの人型を再構成するのを待って、破壊神は五体の状態を確認する。


 少し、身が軽くなった気がした。

 硬く分厚い古い殻を脱ぎ捨てたようで、むしろ気分がいい。

 特に問題は見当たらない。不思議と、疲れてさえいなかった。

 さっそく、月の探索にとりかかる。

「ふうん。これが月か」


 慣れ親しんだ大地=地球にくらべれば小ぶりだが、思っていたよりかなり大きかった。

 地球と同じく、丸い岩のかたまりだ。ひとつの世界と呼べる。


 しかしメイが言っていたとおり、空気はなかった。

 水の気配はかすかににおうが、地下にしかない。

 漆黒の空のもと、どこまで行っても乾ききった砂と岩ばかり。草も木もなく、虫もいない。


 確かにこんな場所で、地上のウサギは生きられそうにないが、


(他に、なにかいるかもしれないからな)


 覚えたばかりのスピードを使って、丸い月のまわりを数回、周回してみた。

 人間が立てたとおぼしき旗を見つけた。

 もろい砂に刻まれた、人間の靴跡もたくさん見つけた。

 転がったままの機械も見つけた。


 途中で、月のまわりを回っているまだ稼働中の人間の機械を見つけ、到着時にぶつからなくて良かった、とほっとする。それから、


「?」


 地球から見て裏の部分で、うねうねとうごめく奇妙なものを見つけた。

 妖物だ。

 メイの家より大きく、長い複数の触手を持ち、地上のタコに似ていた。


 目も口も見当たらないが侵入者に気づいてふくれあがり、獰猛な威嚇の殺気を放つ。

 久しぶりに浴びる殺気の甘さに、破壊神はうっとりと三個の目を細めた。

 見たこともない妖怪だが、試しに狩って食ってみようかと近づきかける。

 その時、それが目に入った。


 月面の化けダコは触手の下に、多数の小さな同類を守っていた。

 おそらく子ども。だが実は大事に育てたエサか、つがいという可能性もある。

 なんであれ、それを見たとたん狩る気が失せ、破壊神は言った。


「おまえのなわばりを荒らす気はない。じゃましたな」

 音の響かない世界で、言葉も通じなくても、化けダコは意図を理解したらしい。

 威嚇をやめ、またうねうねと、よくわからない営みに戻る。


「さて、月のかけら、か」

 メイにやるみやげを求めて、破壊神は月をもう一周した。


 地上からながめる月の輝かしさにくらべ、手の届く距離で見る月面はあまりに地味だった。

 朝夕、陽光の反射に黄金にきらめく崖が、近づいて見ると、何の変哲もないただの白っぽい岩肌なのと似ていた。


 太陽に灼かれ、無数の流星に砕かれたと思われる、小さめの白っぽい岩くずをひとつ拾い、てのひらの上で転がしてみる。


 ぶかっこうで、もろい。

 人が宝石に期待する美しさなど、みじんもなかった。

 これが「月のかけら」だと言われても、自分なら信じないだろう。


「まあ、いいか」


 メイがどう思おうと、自分はこれが本物の「月のかけら」だと知っている。

 それだけで十分だ。

 さて戻ろう、ときびすを返して初めて、地球が──驚くほど遠くに、地上からながめる月のように漆黒の空に浮かんでいるのが目に入った。


 破壊神はふたたび、その茫漠たる距離の巨大さに圧倒された。

 ふたたび、痛みを感じるほどありありと自分の小ささを実感し、まばたきを忘れる。

 地球は、地上から見る月よりいくぶん、大きく見えた。


 だが、それでもむきだしの宇宙、無情なまでに果てしなく広がる虚空のただ中にぽつんと浮かぶ地球は、雨のひとしずくより小さく、たよりなかった。

 あまりにもちっぽけだ。


 同時にその、はるか彼方のちっぽけな地球が、ゆったりと息づいているのを感じた。

 無数の生物の気配が集まり、共振しているのだろうか。まるでひとつの生命体のようだ。


 あれが自分を生み出した世界。

 あれが自分の属する世界。


 三つ目の破壊神はしばし、果てしない虚空に浮かぶ、青い惑星を見つめた。

 かなりの時間、そうしていた。

 それから、もろい月のかけらを加速から守るため握りこみ、故郷へ向かって飛び立つ。


 月の砂に足跡を残した人間たちに敬意を表し──

 月面には一度も、足をつけなかった。




もちつきウサギと月の石⑤へ続く

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