第19話

 ミコトは大きく目を見開いた。


「何故、門を見つけたのに戻って来たのです」

「やらなければならないことを残している」

「やらなければならないこと、ですか?」

「あぁ」


呆れたように深いため息をつくミコトに、彼は目を伏せながら付け足す。


「俺がここに来た理由を考えたんだ。お前らと出会って、俺は考えを改めたよ。どんな理由があろうと死んではいけない。必死に生きている人たちに申し訳がない。タケルを見て、俺は、随分と恵まれていたのだと自覚した。それに、辛ければ逃げることも一つの手段だと。生きるための逃げなら許されるのだと。戦場を見て、そう思った」


目を瞑れば鮮明に思い出される光景。ドクン、と心臓が跳ね上がり、吐き気に襲われる。その様子を心配そうに見つめ、水を差し出すミコトだったが、武命は弱々しく手でそれを拒むと、必死に言葉を紡いだ。


「タケルが、俺にくれたのは、そんな、こと。生きたいと、そういう、人間としての本能を、思い出させた。俺も、あいつに、返さなければならない。あいつが失った、大切な、ものを」


呼吸が荒くなっていく。遂に吸うばかりで息を吐けなくなり、武命は椅子から転げ落ちた。


「落ち着いて。ゆっくりと呼吸をしましょう。大丈夫、貴方はやり方を知っています」


過呼吸になった者を見慣れているからだろう。ミコトは冷静に対応をした。肺の中で、空回りした空気たちがパニックを起こし、悲鳴にすらならずに、微かに口から漏れる。じわりと滲む汗が煩わしい。武命にも限界が来ていた。当然だろう。平和な世界で暮らしていた人間が、血生臭い争いの世界に突然来て、正常でいられるはずがない。四日間を耐えることができたのは珍しい方だった。


「大丈夫、死にません。死なせませんから」


ミコトは武命の背をそっと撫でると、一瞬だけ呼吸が止まったことを幸にして、そのまま自分の胸の中に彼を招いた。ミコトから聞こえる、心の臓の鼓動に耳を傾ける。心地よいリズムが胎児の記憶を呼び起こし、ついに武命は呼吸の仕方を思い出した。


(あたたかい)


自分より年下の、ましてや身内と同じ顔の女の胸の中で、彼は母の夢を見た。母が死んでから随分と経つような気さえする。武命は急に妹を恋しく思った。


 「お前の兄があんなに弱るのは初めてか」


武命は彼女の胸の中で問いかけた。


「いいえ。位が上がるたびに、精神を病みます。大抵は三日もあれば回復しますよ」


そうか、と武命は安堵の息を溢した。ミコトの胸から出ると、武命は椅子に座り直して話す。


「正直、『生きて帰りたい』と願えば、どこにでも門は現れるんだ。だが、門を開こうとしたところで、開かなかった。それは俺のここでの未練がそうさせているのかもしれない」

「未練ですか?」

「俺は、タケルのことが気がかりで仕方ない」


ミコトは口をつぐむ。長年、気にかけていた兄のことを想ってくれる人が現れたことは、とても嬉しかった。だが同時に、兄を諦めてしまった自分を情けなく思ってしまった。一度、彼を見捨ててしまった自分が、果たしてもう一度彼に関与しても良いものか。そんなくだらない思考が、彼女を苦しめていた。


「手遅れです、もう、手遅れなのです」


口に出すつもりはなかったが、なんとか武命を止めようと言葉が溢れてくる。ミコトは、ぽろぽろと涙を流しながら繰り返した。兄を救って欲しいというのは本心だ。だが、自分でさえもできなかったことを他人にやってみせられる、なんてことが怖かった。それくらい、武命なら兄を救えるのだと確信を持っていた。


「……心配は要らない。お前の心は、わかっているさ」


武命は、優しい瞳を彼女に向けて言う。


「どうして、わかるのです」

「わかるさ。家族みたいなものだ」

「貴方と血は繋がっていないのに」

「それでも、俺にとってはもう第二の妹だよ。タケルも同じだ。俺はあいつで、あいつは俺」

「兄の孤独は埋められませんよ。本当の家族である私でも無理でした」

「それはそうだろう。初めから孤独ではないのだから。ずっとお前らがいたじゃないか」


彼の顔は穏やかだった。ミコトは頬を赤らめると、大袈裟に首をぶんぶんと振り


「兄に、何を与えるというのです?」


思い切って聞いてみた。武命は穏やかな表情のまま、優しい声で言ってみせる。


「素直な気持ち、かな」


風が開いていた本のページをめくる。物語は、終盤へと誘われていった。

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