第12話

 手ぶらで山から帰ると、タケルの通信機から着信があった。「また召集か?」と武命は聞くが、タケルは答えない。不思議に思い、連絡の内容を覗いてみれば『死亡者リスト』と大きく表示され、多くの名前が連ねられていた。


「……大丈夫か、タケル」


声をかけると、ようやくタケルは正気に戻り、


「死にました、上司が」


と力なく笑った。


「この、『ハジメ』という人です。私の上司で、尊敬していました。すごく、優しい人だったんですよ。とても戦場に生きる人とは思えない、素敵な人でした」


悲しみを押し殺すためなのだろうか、タケルは饒舌じょうぜつに話す。『ハジメ』という人を褒める言葉が耐えることはなく、よほど好きだったのだとうかがえる。

 しばらく忙しなく口を動かしていたタケルであったが、ふと、口を止める。文末ではなく、中途半端に口を閉ざしたものだから、武命は、どうしたんだろう、と彼の顔を覗く。すると、タケルは唇を微かに震わせて「行かなくては」と小さく繰り返した。


「おい、どこに行くんだ」


引き止める武命を振り払い、前を向く。


「戦場ですよ。それ以外に何処があるのです」


彼の瞳には、もはや武命は映っていなかった。武命は戦場のことなど知らないが、それでも、彼の目を見て「人殺しの目だ」と思うほどに、タケルは酷い顔をしていた。


「あの人は立派に死んでいきました。己の役目を果たし、誇り高く……。私も、早く死なねばなりません。あの人のように、早く!」


何かに取り憑かれているかのように言うタケルに、武命は問う。


「それは本当にお前の意思か?」


タケルは答えなかった。


「俺には人のことをごちゃごちゃと言う資格はないが、それが一時的な感情によるものなら、やめておくべきだと思う。お前はさっきまで『死にたくない』と言っていただろう。自分の心を偽ることは、やめた方が良い。それには、慣れてはいけない」


武命の言葉が引っかかり、玄関扉の前で佇む。タケルは拳をきゅっと握ると、静かにため息をついた。そして、静かに肩を震わせて


「貴方といると、自分がわからなくなります」


弱々しく、呟いた。


「何も知らずに、指定されたことだけが正しいと思い込み、それに従って生きて死ねたのならどれだけ幸せだったでしょう」


武命を見つめる瞳は悲しく黒を滲ませている。


「貴方が来てから私は世界を知りすぎた。人を想う心も、心の奥底に眠る感情も、人の弱さも全て。今までは目を逸らせていたのに、その影を知ってから、私は正体不明の怪物に呑まれてしまった。争いのない世界が羨ましい。こんな世界が憎たらしい。私はもう、私の世界を愛せない」


頬を伝う一雫に目を奪われる。武命はこの時、自分がこの世界に来た理由がわかったような気がした。


「それでも、俺たちは生きるしかないんだ」


はっと顔を上げれば、武命は申し訳なさそうに笑っていた。


「悪かった。お前の気も知らずに、死にたい、なんて言って。怖かったよな。人が死ぬのも、自分が死に向かうことも。俺は戦争なんて知らなかったから簡単に『死』を口にした。平和な世界で生きていられること自体が、幸福であると知らずに」


武命は彼の手を両手で包み込むと、静かに目を伏せて、微かに口角を柔らかく上げる。


「お前が俺を認めてくれたように、俺もお前を認めている。お前が隣人を愛しているように、隣人もお前を愛している。今度はお前がお前を認め、愛してやれよ。何も恐れることはない」


そして、しっかりとタケルの目を見据えて断言した。


「人間は完璧じゃない。だから神や悪魔を作り上げたんだ。穢れた自分を取り除く必要はないし、強く在り続ける必要もないさ。お前は完璧じゃない。だから人間だ」


母にも父にも似ている武命の目から視線を外すことはできなかった。タケルはグッと息を飲み込むと、少し脱力して笑った。


「随分と、言うようになりましたね」


「まあな」と武命は苦笑を返すと、タケルの手を引いて部屋に連れ戻した。


 机の上に置かれていた、描き途中の絵が風に打たれて音を立てている。


「そういえば、完成はいつ頃に?」


タケルは紙にそっと触れながら問う。


「帰る前には完成させるさ。今、完成させても良い」


絵を楽しみにしていたタケルにとって、武命の一言は胸を満たした。ペンを取る武命の正面に座り、少し離れたところから作業を覗く。


「好きなんだな、絵」

「えぇ、もちろん。芸術は心を代弁してくれる優れものです。作品に触れている間は、夢を見ることができますから」

「なるほど、だから本もたくさん読むのか」

「はい」

「どんな絵が見たい?」

「貴方の魂が込められていれば、どんな絵でも美しいでしょうね」


武命は軽く口をぽかんを開けると、何かを思いついたのか、ペンを走らせた。


「……明日、戦場に行きます」


突然、タケルは言う。しかし武命は手を止めることなく、「そうか」と返した。


「止めないのですね」

「死ぬために行くわけじゃなさそうだからな」

「何故、そんなことがわかるのです」

「見ていればわかる。お前は俺なんだろう?」

「……えぇ。えぇ、そうでした」


サラサラとペンが走る音だけが、部屋に響く。武命は穏やかな顔で線を形にし、タケルはそれをじっと眺めていた。


 日差しが眩しい、ある秋の日のことだった。

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