第10話

 しばらくして、武命は机の上に完成した料理を置いた。その微かな音で目を覚ましたタケルは、目の前の品を見て驚いた。


「……器用、ですね」


うどん、と一言で言ってしまえば、特別どうということはないのだが、具材に『器用』と言うわけが詰められていた。花の形にカットされたかまぼこに、ハートの形の人参。わかめと鶏肉がふちを彩り、中心には卵の黄身が堂々と座っている。そして、そこに添えられたネギ。具材は多く、情報量もあるというのに、邪魔なものはない。美しいという一言が似合うものだった。


「母さんが病気になってからは全部俺が家事をやっていたからな。父さんも物心ついた時には死んでいたし、やらざるを得なかったんだよ」


武命は昔を思い出しながら、空虚な瞳で窓の方を見つめた。そして、ふと笑顔を浮かべると、こう付け加える。


「それに、妹が喜ぶんだ、こういうアレンジ」


それを聞くと、タケルは優しく微笑んだ。


「良き兄、ですね」


まるで母のようだ。そんなことを言えば、武命は少し恥ずかしそうに「そんなことは良いから早く食え」とうながした。タケルは手を合わせると、ゆっくりと噛み締めるようにして、食事を始めた。


「とても美味しいです。料理人を目指していたのですか?」


タケルの問いに、武命は少し間を開けると


「……あー、いや、違う。俺、本当は、画家になりたかったんだ。絵を描くことが好きだったから。それに、なにより……俺の絵が母さんや美琴を笑顔にできたのが嬉しくて、それで」


初めて、自分の夢を語った。しかし、最後には


「もう、諦めたけどな」


と、付け加えた。「何故です?」と問えば、「無理だろう、大学にもいけない」と答える。今の武命の目には、何も映っていなかった。


「なんとなくわかっていたんだ。『芸術大学に行きたい』なんて思った時期もあったけど……母さんが病気で死にかけていて、大学に行けるはずもない。俺は働いて、趣味で絵を描いて、あわよくば、仕事先でデザインを担当して……なんて考えていた。けれども、母さんが死んでは仕方ない。俺は美琴のために働いて、美琴のために時間を使わなければならない。保護者になるとはそういうことだ。絵を描く暇はない。だから、諦めたよ」


それを聞くとタケルは箸を置き、真剣な眼差しで彼を見据えた。そして、静かに立ち上がり、どこからか紙とペンを持ってきた。


「ならば、今、ここで描いてみてくださいよ。何でも良いのです。完成したらきっと私に見せてください。今なら時間があるでしょう」


武命は久しぶりに与えられた自由に、きらきらと目を輝かせた。タケルはそれを見ると、確信した。「彼は、完全に夢を諦めきれていない」と。それが生きる力になることを。


 タケルは残りのうどんを腹に入れると、少し心悲うらがなしそうな顔をして容器を片付けた。少し、想像してしまったのだ。いつか来る、彼がここを去る日のことを。それほどまでに、武命には惹かれていた。


 夢中で絵を描いている武命の背中に、タケルは何を思ったのか、そっと寄りかかった。急に訪れた重みに、一瞬だけ驚いた武命だったが、すぐに手を止めて彼の手を握る。何も言わない武命にタケルは泣きそうになった。久しぶりの確かな温もりだった。


「……少し、聞いてくれますか」


タケルは弱々しく聞いた。武命は黙って頷く。


「実は、私、穢れていて」


どのように、と聞くことはない。


「こんな自分が、本当に嫌で」


共感も否定もしない。


「なんのために生きているんだろう、って……たまに、思ってしまって……」


武命は何も言わずに彼を抱きしめた。優しく、しかし少しきつめに、離さないように。ついにタケルは涙を流した。たった一粒の涙が、一つ二つ、また一つと涙を誘う。もう、涙の堤防が決壊してからはどうしようもなかった。嗚咽を漏らしながら、タケルは必死に武命に縋った。武命は自分の肩が濡れても気にせず、たまに背を軽く叩きながら、子を寝かしつける母のように彼を励ました。


「気持ち悪い……気持ち悪い……」


ため息にもよく似た、虫の死に際のような声で繰り返す。時々、何かから逃げるかのように手足をジタバタとさせながら、タケルは武命の胸の中で酸素を探していた。不規則な呼吸はタケルを苦しめていた。しかし、彼の胸の中だというだけで、随分と気持ちは楽になり、救われた気になっていた。


「……すみません」


消え入りそうな声で呟かれた謝罪に、武命は、ふと息を漏らした。そして


「謝罪より、感謝の言葉の方が嬉しい」


「謝らなくて良い」と言う代わりに、こんな文を使った。あまりに不器用な気遣いに、タケルの顔もほんの少しだけほころぶ。


「ありがとうございます」


ぎこちない笑顔ではあったが、言葉はすんなりと出た。紛れもなく、心からの感謝だった。

 時刻は既に、深夜三時を回っている。静寂と闇に包まれた部屋に、孤独を分け合うように、二人の青年は身を寄せ合っていた。言葉の一つ交わすことなく互いを包み合う。いつのまにか眠りについた二人を照らすのは、ようやく黒い雲から顔を出した月明かりだった。


 偶然、彼らを目撃した少女は「聖母の腹から生まれた赤子のような姿だった」と後に語る。

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