第2話
タケルは言葉を失った。目の前にいる人物は酷く絶望している。絶望した人間を闇から救うには時間がかかる。それだけではない。最悪、失言一つで自ら命を断つこともある。崖っぷちとは、まさにこのことだった。
「アンタには絶対にわからないさ。どうせ、『私の方がつらいんですよ』って言うんだろ。みんなそうだった。『俺だってつらい』って」
「……そんなことは言いません。人によって、許容できる範囲が違います。それなのに、私が、初対面の貴方の苦しみを、どうして完全に理解できるでしょうか」
「そうだよ。だから、アンタに俺を止める権利なんてない」
返す言葉がなかった。仮説が正しければ、武命とタケルは同一人物。別の世界線の自分。故に理解できた。何故、彼が苦しんでいるのかを。
「しかし、貴方の母親は、貴方が生きることを望んでいるはずです。察するに、貴方の母親も、つい最近、死んだのでしょう。亡き母の願いを
寄り添おうと努めるが、武命の心が揺らぐことはなかった。
「どうだろうな。案外、死者の国に誘っているかもしれない。何も持たない俺が、一人、この戦場へ導かれたんだ。早くこっちへ来い、ってことかもな」
それを完全に否定することはできない。タケル自身も、思うことがあった。起こってしまった以上、現実を受け入れようとしているものの、こんな非現実的な出来事が、まさか偶然であるはずがない。裏がないとは思えない。これは、自分の死を暗示するものだとすら思っていた。
『ドッペルゲンガー』
自己像幻視。小説の中の
黙り込む二人。武命と話すことで、タケルは『自分』の存在意義に自信がなくなっていく。実は、自分は偽物なのではないか。そんな不安ばかりが頭を支配していた。一方で、タケルと話すことで、武命は『責務』を放棄することに対する罪悪感が芽生え始めていた。微かに胸の奥に残っていた、武命の『真面目さ』が警鐘を鳴らす。「タケルに迷惑はかけるな」と。
悩んでいても、世界は止まらない。二人の間に静寂が訪れることはなく、無情にも、次第に爆発音が近づいてくる。ドン、ドォン、ドォォンと音は激しさを増し、既に八方塞がりである。タケルは「これ以上、ここに留まることはできない」と判断して
「敵が来ます。貴方は西を目指して走りなさい。私の故郷が見えてくるはずです。急いで」
あらゆる武器を手に、手早く身支度を整えた。
「お前はどうするんだ」
「戦いますよ。それが私の存在意義です」
「死ぬのか」
「……さて、どうでしょう。貴方が生きている限り、私もまだ生きている、ということになると思いますが」
「そうか」
再び、沈黙が訪れる。
「……私に、死んで欲しいと思いますか?」
タケルは背を向けたまま、武命に聞いた。声は少し明るい。
「俺は死にたい。けど。お前には死んで欲しくない、かも」
武命の言葉にそっと微笑むタケル。タケルは、背後を振り返ることなく、扉を開けた。そして力強い声で一言、残して去っていった。
「また、会いましょう」
自分と同じ姿形であるはずなのに、タケルの後ろ姿は、自分よりも、随分と大きく見えた。
武命はタケルの残した家族写真に目を向けると、妹のことが、より一層気がかりになった。器用な妹だから、案外、上手くやっていけるのかもしれない。ただ、残された唯一の家族、ということもあり、恋しさが胸を巣喰う。非常に身勝手な我儘だが、最後に一目見たい、と思う自分がいた。
戦いが激化しているのが近づいてくる音から伝わる。戦いの中で生きていない彼でも、本能から危険を察知した。
武命は指示通り、西に向かって走った。沈む夕陽を背に、夜を目指して走る。真横で爆発が起きても、銃声が聞こえても、人が死んでも足を止めない。武命は信じていた。彼と、生きて再会することを。
(生きて、再会したいのか……?)
自分の中に『生きる』という選択肢が生まれていることに、武命は驚いた。たった少しだけの会話の中で、こんなに人は変わるものなのか。固かったはずの意志が、いつの間にか砕かれていく。
しかし、不思議と不快感はなかった。武命はタケルと出会って、唯一の理解者を得たような気分だった。もう一人の自分だからだろうか、タケルとの時間は心地良くて、『もう一度』を望むようになっていた。だからこそ、今は死ぬことができない。完全に『生きよう』とは思えなかったが「また、会いましょう」を実現させない限りは死ねなかった。
西を目指して走り続ける。足が痛くなっても関係ない。追い風が武命を「止まるな」と叱責している。武命の瞳には、ただ、一つの道だけが映されていた。宛てはない。だが、ひたすら西を目指して走った。
友人との約束を果たすために。
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