第133話修学旅行
社会見学が終わって6月に入って、、修学旅行が間近に迫ってきた。修学旅行は長崎平和公園・島原半島小浜温泉・口之津港・天草諸島・阿蘇・由布院・学校というルートで、宿泊地は小浜温泉と阿蘇であった。誰と一緒の部屋で宿泊するかということであるが、非常に運の悪いことに、初日の小浜温泉の旅館での宿泊で、私は田伏と一緒の部屋になってしまった。自分のくじ運のなさを恨んだが、決まってしまったものは仕方がないので、諦めるしかなかった。2日目は柳本や、3年生で一緒のクラスになった野田といった面々と一緒の部屋ということになった。そしてバスの座席の割り振りであるが、これもくじ引きで私は窓側の席をゲット。そして修学旅行担当の係を決める段階になった。私はすでに、社会見学で下関に行ったときに担当を受け持ったので、一度役職を担当したものはそれ以降のもろもろの諸活動の担当からは除外されるという決まりの下、私が修学旅行担当からの係からは除外された。
やがて修学旅行当日がやってきた。この日は朝7時ごろに学校を出発するため、5時30分ごろに起きて、いつもよりはるかに早い朝食を済ませた後、2泊3日分のい持つを詰め込んだかばんを自転車の荷台に括り付けて学校へ。6時30分ごろには着いて、点呼をとってバスに乗り込んで学校を後にした。いよいよ私にとって九州初上陸の瞬間が迫ってきていた。中国自動車道を通って、壇ノ浦パーキングエリアで小休止。眼下には関門海峡のダイナミックな景観を眺めることが出来る。ここでトイレを済ませて、バスは関門橋を渡る。海の上をバスで渡るというのもなかなか経験したことがなかったので、新鮮であった。そして関門橋を渡り切って九州初上陸。九州道を南下して、鳥栖で降りて長崎方面に向かう。このころはまだ長崎道が全線で開通しておらず、一般道を経由しての行程であった。やがて進行方向左手には有明海が見えてくる。遠浅の海は潮が引いて、独特の景観を見せていた。時折並行して走る長崎本線の特急かもめが追い抜いて行ったり、すれ違ったりする。このころのかもめは485系特急型車両が使われており、運転本数も多く設定されていた。この後かもめは783系・787系・885系などの車両が使われ、485系電車も真っ赤な塗装を纏った赤いかもめと言うニックネームがつけられたが、老朽化に伴い、2011年3月ダイヤ改正で全車両が引退した。現在は西九州新幹線のN770刑にその愛称が受け継がれている。
やがて、有明海に別れを告げ島原半島の付け根部分を横切って、長崎市内へと入っていく。そして長崎平和公園へ到着。ここでは、原爆の惨禍を生き抜いてこられた被爆者の方たちの話を聞くことになっていた。私が小学校3年生の時に広島で見聞きしたようなことをここでも聞くことが出来た。ケロイドのやけどを負って命からがら助かった人、家族を失った苦しみ、そして被爆者の方々に対して向けられた心無い偏見に満ちた言葉。そういった話を聞くことが出来た。私が被爆者の方々のお話を聞いたのは、小学3年生以来であるが、3年生当時の私には、ただ
「恐ろしい」
「恐い」
そう言った思いの方が強かったが、あれから6年が過ぎて、あらためて被爆者の方々の話を聞いてみると、
「なぜ日本は、もう勝ち目のない戦争を続けたのか」
「日本がもっと早く降伏していれば、広島・長崎の悲劇は起こらなかったのではないか」
「太平洋戦争は、一体誰のための、そして何のための戦争だったのか」
そう言った思いを強くした。被爆者の方々が話をされているとき、私は田伏の2・3人前にいたのであるが田伏が
「まだ終わんねぇのかよ。話がなげーんだよ。このクソババァ」
と、毒ついているのが聞こえた。
「あぁ、こいつにはきっとなにも心に響かないんだろうな」
私はそう思った。所詮田伏にとっては、どうでもいい話でしかなかったのだろうと思う。こういった生き証人の方たちの話を聞くということは、大切なことだと思うのであるが。
被爆者の方々の話を聞いた後は、平和記念公園に行って、祈りをささげた。この地で起きた原爆の投下という悲劇を思うとき、この当時の私と同じ年代のころに戦争に巻き込まれ、原爆投下によって大切な人を失い、一生消えることのない傷を負った語り部の方隊のことを思い出す。あれから35年以上の年月が経過して、語り部の方たちの多くが90歳以上を迎えられ、今も元気に暮らしておられるかどうか気になるところである。
長崎での平和学習の時間を終えて、小浜温泉に向かう。島原半島の付け根部分に位置する諫早から、島原半島の西海岸に沿って南下していくと、やがて活火山である雲仙普賢岳が見えてくる。この普賢岳は1991年に大火砕流を伴う噴火が発生し、多くの死傷者が出た。その普賢岳と有明海を眺めながらやがて温泉街に入って、小浜温泉に到着。各自荷物を降ろして、各部屋へ。私と田伏は部屋割りの関係で隣のクラスの男子と一緒に泊まることになっていたのであるが、隣のクラスの男子が
「ゲッ。田伏が一緒なのかよ」
と口走っていた。それを聞いた田伏が
「なんだと?俺が一緒だと嫌だっていうのかよ?」
と言って、その口走った男子を思いっきり殴りつけていた。旅館に着いた早々に引き起こした暴力事件であった。殴られた相手は、K中学校に転校してから親しく付き合いをさせてもらった友人で、止めに入るよりも先に田伏が殴りかかっていた。そして
「ぜってー誰にもチクるなよ。チクったらこんなんじゃ済まんからな。よう覚えとけ」
などと捨て台詞を吐いていた。そして不穏な空気が流れる中、私たちはそれぞれ荷物を片付けて、夕食の時間を迎えた。私たちは先に出て、田伏が一番最後に部屋を出てきた。このとき実は田伏は私たちの財布からそれぞれ1000円を盗み取っていたのである。この事実は夕食が終わって、お土産を買いに行こうと財布を取りだして、支払いをするときに判明した。小遣いは6000円と決められており、私は6000円持ってきたのであるが、どう数えても1000円足りないのである。そして同様の被害は一緒の部屋に泊まった田伏以外のメンバー全員にも出ていて、帰ってきた田伏を問い詰めると
「俺は知らねぇーよ」
などとシラを切っていたが、田伏はこうも言っていた
「金がなくなったってセンコウにちくったら、どうなるか解ってんな。どこからともなくパンチが飛んでくるぜ」
こういうことを言うということは、自分が金を盗み取ったって言ってるようなもので、このことについてメンバー全員で話し合った。
「もう殴られるのは嫌」
「1000円くらいであいつの気が済むんであれば、ほっといた方がいいんじゃないか」
などと言う意見が大勢を占めて、結局先生に報告するということは諦めるということになった。そしてみんなでテレビの音楽番組を観ていると、田伏が
「お前歌え」
などと脅してきた。私は
「なんでお前に命令されてまで歌わにゃならんのか?歌いたければテメェーが歌ってればいいじゃろうが」
「なんだと?テメェーは俺の言うことが聞けんようじゃな?殴っちゃろか?」
「あぁ、殴れるものなら殴ってみろ。お前が金を盗んだっていうことを言いふらしてやるよ。泥棒と言うレッテル張られてもいいんじゃな?」
そう言うとおとなしく引き下がっていった。初日から田伏のせいで面白くない修学旅行になってしまった。やがて消灯時間がやってきた。しかし田伏にはそんなの関係ないみたいで、盗み取った金でゲームセンターで遊んでいたみたいで、私たちが眠りかけたところに学年主任の先生に首根っこをつかまれながら部屋に連れてこられた。そしてこっぴどく先生に叱られていた。そのせいで眠気もすっかり冷めてしまって、寝付けない夜を迎えた。
翌日、朝食を食べに行くとき、私は
「また金がなくなったらいけんから、財布は持っていこう」
と、田伏の前で言うと、田伏は
「なんだと?俺が金を盗ったっていうのか?」
と言うので、私は
「はぁ?誰もテメェーが金を盗ったって言ってねぇじゃろうが。俺は昨日1000円なくなったから、財布を持っていこうって言ってるだけじゃねぇか」
そう言うと、田伏のことをほったらかしにして、他のメンバと一緒に朝食を食べに行った。朝食を済ませて部屋に戻って荷物を取り出して、点呼を取ったら田伏と離れられる。
小浜温泉を出発して、島原半島を南下して、口之津港へと向かう。ここから天草諸島を経由して、三角を経由して熊本市内で熊本城を見学して、阿蘇に向かうのである。
天草では江戸時代にキリスト教が禁止されて以来、キリスト教徒が歩んだ苦難の歴史や、実際に使われた踏み絵などの史跡を見ることが出来た。この地域はキリスト教関連の歴史手的遺産が数多く点在し、休日などにはミサも行われるという。添い言った史跡を見た後、三角からは国鉄三角線と並行しながら熊本市内に入って熊本城へ。銀杏城とも呼ばれる熊本城は、熊本市のシンボルで、大勢の観光客が訪れていた。私たちが修学旅行で訪れてから30年後、熊本地震によって大きな被害を受けた時は、正直胸が痛んだ。
その熊本から白川に沿って阿蘇方面へ。豊肥本線と並走する形で急こう配を上っていく。熊本方面に向かう場合、急な下り坂が続くので、車の運転には注意が必要である。その阿蘇の入り口となるのが立野。ここが阿蘇外輪山唯一の切れ目で、国道も鉄道もすべてここを通っている。その阿蘇のホテルに到着して、荷物を運び込んで、各自の部屋へ。この日は田伏とは一緒ではなく、私と仲のいいクラスメイトと一緒になった。
早速荷物を部屋において、貴重品をもってお土産を買いに行ってみた。お饅頭や和菓子などのほか、キーホルダーなどが売られていた。家族向けにはお饅頭を買って、買い物が済んだら夕食。夕食には阿蘇名物の馬刺しが出された。馬刺しは柔らかくておいしかった。その他阿蘇名ぶtるの高原野菜や肉料理が提供されていた。
夕食後、少し外に出てみた。天気も良かったので、満天の夜空を楽しむことが出来た。西の空には春の名残のおとめ座などが見えていたし、東の空からはさそり座が昇ってくるところであった。ここは私が住んでいるところよりも標高が高く、空気も澄んでいるため、星空がきれいであった。
ただ標高が高いため、6月と言えども、夜は結構冷える。肌寒くなってきたので部屋に戻って温泉へ。中のいいクラスメイトと一緒に入る温泉は楽しいものであった。バスでの移動で疲れた体が癒されるような感じであった。
温泉から上がった後は、家から持ってきたトランプで遊んだ。51や7ならべ。ポーカーやセブンブリッジなどをして遊んでいたら、時間と言うのはあっという間に過ぎ去るもので、就寝時間がやってきた。この夜は田伏がいないため実に平和な夜が過ぎていった。こういうところではなぜか怪談話に花が咲くもので、皆が怖い話をして盛り上がっていた。本当なのかどうなのかは別にして、皆心霊体験を話していた。そうして夜は更けていき、いつの間にかみんな心地よい寝息を立てていた。
翌日、朝食を済ませて山並みハイウェイを通って湯布院~別府に抜けるルートを通る。このルートは景色がいい区間であるが、急カーブが断続的に続くので、車の運転は注意が必要である。また、乗り物酔いをする可能性もあるため、酔いやすい人は気をつけた方がいい。山並みハイウェイは阿蘇外輪山と湯布院方面をつなぐ主要観光道路であり、交通量は結構多い。私はゆっくり景色を眺めながら、いつの間にか眠ってしまっていた。気が付いたらバスは由布院に着いていた。このころはまだ、あまり観光地化されておらず、別府と阿蘇を結ぶルートの中継点と言う感じであったが、今ではJR九州の観光列車などで多くの観光客が押し寄せている。この由布院で休憩をはさんで、別府への道をたどる。車窓を彩るのが由布岳。きれいな山体を見せていたここから城島高原を通って別府に入る。街のあちこちから温泉の意煙が上がっておるい、一台温泉地と言う印象が強いところである。ここから国道10号線を北上し、福岡県に入って、北九州市内から高速道路へと入って、関門橋を通って学校に帰ってきた。この修学旅行、田伏と一緒だった初日は散々であったが、2日目・3日目は天気にも恵まれ、楽しかった。学校に帰って、最後の点呼を取って各自解散。自転車で家に帰って洗濯ものなどを出して、カバンの中を整理して、お土産を家屋に渡して、疲れていたのか、横になっていたらいつの間にか眠ってしまっていた。目が覚めたら夕食の時間で、翌日が学校が休みになっていて、そのまま日曜日を迎えた。日曜日も疲れていたのか、あまり外に出る気にはなれず、家の中でおとなしくしていたように思う。
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