第105話星田がやってきた

 それからしばらくして、7月最後の土曜日の昼過ぎ、星田が山口に遊びに来た。星田とのおよそ4か月ぶりの再会。駅に迎えに行って、電車に揺られて最寄り駅で降りて、家まで歩いて帰ったのであるが、この日はものすごく暑い日で、家に着くなり星田の言葉は

「山口はめっちゃ暑いなぁ~」

であった。この日はカンカン照りの強い日差しがジリジリと肌を刺すような感じであった。この日はまだ山口に着いたばかりで疲れているだろうということで、家でゆっくりと過ごすことにして、大阪のK中学校の様子や、卒業後の皆に様子や、GWに皆が集まったときの様子などを話してくれた。皆私が参加を拒否したことにショックを受けていたということであった。まさかそこまで私の精神状態が追い詰められているとは思ってもみなかったのだろう。

 K中学校は、上級生にはガラの悪い奴らが結構いるそうであるが、

「1年生は皆まだおとなしいもんや」

と言っていた。姉が通っていた時と比べて少しはましになったのかもしれない。星田は陸上部に入って、今度記録会に参加するという。星田なら短距離はかなり早いので、いい成績が残せるのではないかと思った。そして、私たちが暮らしていた家の跡地には家が2棟建設されているようである。なんでも2階建ての家だそうで、お互いに隣近所は密接しているとか。私たちの住んでいた家の跡地に2棟の家を建てるんであるから、隣との距離はものすごく狭いものになるだろうなと思った。ほかに大きく変わったところはないらしく、私が引っ越ししたときと同じ風景が残っているそうである。

「いつか俺も帰ってみたいな…」

そう思う私がいた。たとえどんなに辛い思い出や苦しい思い出があったとしても、私にとっては大事な故郷。私が帰ってT駅に着いて電車を降りたら懐かしいと思うのであろうか。

 やがて、両親も仕事を終えて帰ってきた。この日は星田が遊びに来てくれたということで、母の手料理で精いっぱいのおもてなしをした。唐揚げやサラダなど、星田の好みに合わせた料理が並んでいた。大阪談議に花が咲いて、父も

「俺もいつか帰ってみたいなぁ」

と話をした。その日の夜は疲れを落とすために早めに風呂に入って就寝した私たちである。

 翌日は電車に乗って山口市内に向かって、レンタルサイクルで山口市内の名所を見て回った。瑠璃光寺五重塔や湯田の温泉街、深緑のまぶしい一の坂の桜並木などをい1日かけてゆっくりと見て回った。山口は明治維新の舞台となったところであり、数多くの歴史に登場するところで、特にサビエル記念聖堂や瑠璃光寺五重塔など、歴史を感じさせる町並みが残っている。山口銘菓として名高い外郎も売られており、温泉街は多くの観光客で通年賑わいを見せている。

 一通り山口市内中心市街地の観光スポットを見て回って、夕方帰宅。家に帰ってからは私が住んでいたころの思い出話に花が咲いた。

「俺が大阪に住んでいたころは、よう望遠鏡を担ぎ出して星見とったなぁ」

ということで、望遠鏡を担ぎ出して夏の夜空を観察することになった。赤く輝くさそり座のアンタレスや、青白く光り輝く白鳥座のデネブ・こと座のベガ・わし座のあるタイルなどのほか、私が住んでいたころでは、まず肉眼で見ることのできない天の川もくっきりと見える。その中でも夏の夜空で一押しで勧めたのが白鳥座のアルビレオ。金色に輝く主星と、青く光る伴星の色の対比が美しくて、夜空に光り輝く宝石みたいな星である。星田も望遠鏡を覗き込みながら

「めっちゃ綺麗やなぁ」

と言っていた。私たちが星空を眺めていると姉もやってきて、一緒に夜空を眺めていた。山口に引っ越ししてよかった点の一つに夜空が綺麗だというのは間違いなくあげられると思う。

 星田がやってきて二日目の夜も更けていき、眠りについた。

 翌日は母が車を運転して秋吉台と秋芳洞へ。母も車を運転しだして数か月たったので、少しは慣れてきたようで、かなり遠くへ出かけるのも苦にならなくなってきたころである。クーラーが装備されていないので、」あまり暑くならないうちに出発しようということで、朝8時ごろ出発。山間部の曲がりくねった道を走って、まずは秋芳洞へ。秋芳洞の中は天然のクーラーで、年間を通して洞窟内は17度前後で、外の世界のうだるような暑さとは無縁の広がっている。洞窟内には千枚皿やクラゲの滝のぼり、黄金柱などの名名所を見て歩いたが、この時でも、まだ発見されていない洞窟がある可能性が取りざたされていて、調査が行われていた。

 さて、1キロ余りの道のりを歩いてきたわけであるが、車を停めた場所に戻るには、くそ暑い中を歩くか、洞窟内を引き返すかのどちらかであるが、うだるような暑い中を歩いていく気はさらさらなかったので、洞窟内を引き返して車を停めた場所へ。エンジンをかけてまずは車内にこもった熱気を吐き出して、窓を全開にして秋吉台へ。秋吉台は秋芳洞の上に形造られたカルスト台地で、ここに来るのは、私が小学5年生だった時に続いて2回目である。あの頃は悩みや恨むことなど全く知らなかった私であるが、あの時と比べて、私も、居住環境も、なにもかも大きく変わってしまった。でも、今私の前に広がっている風景は、2年前と何も変わっていなかった。できればあの頃に戻りたい…。心の中から切にそう思った。

 秋吉台の駐車場に車を停めて、カルスト台地を散策。駐車場のすぐ近くには、人の手が全く加えられていない原生林が広がっているところがあり、中に入ってみると、聞こえてくるのは小鳥のさえずりと、森の中を吹き抜ける風の音と、風に揺れる木の葉の音だけ。どことなく神聖な感じのする場所である。この駐車場で家から持ってきた弁当を食べて、一服した後に大正洞入口から国道435号線に出て、かなりな急カーブを繰り返しながら峠を下って、家に帰ってきた。

 翌日はSLやまぐち号に乗って、津和野に向かった。自宅近くの駅から電車に乗って、山口線のローカル列車に乗って、まずは津和野に向かう。この山口線に乗るのは小学3年生以来4年ぶりであった。このころの山口線を走る列車には、クーラーが搭載されておらず、扇風機が取り付けられていたが、窓を開けておかないと暑くて仕方がなかった。この当時の国鉄がローカル列車にクーラーを取り付けなかった理由と言うと、まずはひっ迫した国鉄の財政事情があった。ローカル列車の冷房化を推進すれば、それだけ多額な費用が必要になるわけで、この当時の国鉄にそれだけ余力がなかったということである。また、この当時のディーゼルカーのエンジンは、車体が重たい割には非力で、クーラーを取り付けるとなると、エンジンのパワーアップが必要になてくるわけで、それも多額の費用が必要だということで、取り付けられなかった。停車中は暑い車内も、動き始めると全開にした窓から風が吹き込んでくるので涼しいものであった。山口線は、新幹線の停車する小郡駅(現在の新山口駅)と山口駅の間は比較的利用者も多く、かなり混雑するのであるが、山口を過ぎて宮野を出て山間部に入ると、沿線の利用も少なくなる。仁保駅~篠目駅で峠を越えると田園風景が広がる。のどかな風景の中を走り抜けて津和野駅に到着する手前で徳佐盆地から津和野盆地へと入っていく。その山越えを終えると山陰の小京都として知られる津和野駅に到着。津和野駅に着いてからまず向かったのが森鴎外旧宅。その後太鼓谷稲荷神社へ。この神社は正月三が日の初詣の際はかなりの人出でにぎわう。このほか津和野の街並みを散策して、SLの出発時刻が迫ってきたので、駅に向かう。青い12系客車に黒いC 57‐1が連結されていて、出発準備が行われていた。私たちはいつでも乗れるということで、星田が窓際の席へ。そして威勢のいい汽笛とともに津和野駅を出発して、小郡までのおよそ63キロを2時間以上かけて走り抜ける。最初は上り勾配が続くため、なかなかスピードが上がらない。喘ぎながら急こう配を上っているという感じがする。ゆっくり流れる景色を楽しみながら、車内でわいわい楽しく過ごした。峠のサミットを越えて、スピードが速くなると、車窓の後方には、山口線を代表する青野山が見えるその青野山を背にして徳佐駅に到着。ここから鍋倉駅にかけては、西日本最大級のリンゴ園が広がり、お盆休みのころから11月の終わりごろまでリンゴ狩りが楽しめる。車窓からもリンゴのたわわに実った果樹園が見える。徳佐駅から篠目駅にかけては平たんな道を走るので、足取りも軽い。篠目駅からは山口線最大の難所である田代峠を越えるため、上り勾配が続く。この急勾配に備えるため、かつては給水塔が設置されていて、今も大切に保存されている。急勾配が続くため20キロほどしかスピードが出ておらず、非常にゆっくりと景色が流れる。急こう配を上り詰めて下りに差し掛かるとスピードが上がって仁保駅を通過。軽快に坂道を下って山口市街へと入っていく。そして山口で観光するのか、観光客と思しき人たちが山口駅でたくさんおりていった。そして次の湯田温泉駅でもまとまった下車があったが、温泉街に向かうのだろうか。そして、17時過ぎに小郡駅に到着、ここから最寄り駅へと乗り換えて家に帰る。駅に着いてから家まで汗だくになりながら

「あっついなぁ~」

と星田と二人で言いながら家に帰った。大阪近辺では梅小路に行かないとみることが出来ないSL。梅小路では今日のような力走する姿を見ることはできなので、星田も喜んでいた。

 星田と二人、家に帰って寝る前、この前のゴールデンウィークに皆が集まったときの話をしてくれた。渡部や増井たちは自分がやったことを悔いていたという。私が言った

「お前らが俺の人生を滅茶苦茶にした」

と言う言葉が忘れられないという。中井は卒業式が終わった後に母親が謝ったときに見せた、私の怒りと憎しみがこもった鬼のような形相が忘れられないと言っていた。自分たちは取り返しのつかないことをしてしまったんだと、私の参加拒否の通知を受け取って思い知ったという。どうやったら私の憎しみや恨みを和らげることが出来るのか、そればかりが気になって楽しめなかったそうである。私としては正直

「それだから許せっていうのか?」 

と言うくらいにしか思えなかった。私は星田の話を聞きながら

「多分あいつらは本気で反省してないんちゃうか?いくら口でそう言っていても、それを信用して裏切ってきたのがあいつらやからな」

「まぁ、お前が信用できひんと言うのもようわかるわ。あれだけのことをされたんやからな…。でもいつかお前が大阪に帰ってきたら、真っ先におれんとこ来いよ」

「もちろん。今度大阪に行くときは連絡するからな」

そんなことを話しながら夜は更けていった。それから数日して星田が大阪に帰る日がやってきた。新幹線に乗せるため、一緒に家を出て、新幹線の駅に到着して星田を見送った。電車の中でも他愛のない話をしていたが、いざ親友が変えるとなるとやはり寂しい。私が山口に引っ越すまではお互いの家を行ったり来たりして、交流できていたのが当たり前のように思っていたが、こうやってお互いに遠くに引っ越ししてしまうと、なかなか会いたくても会えなくなり、それまで仲良くできていたのが、実は大変貴重な時間だったんだなって思った私である。

 やがて東京行ひかり号が到着して、ドアが開く。そして星田が新幹線の車内に入ると発車のベルが鳴る。

「また遊びに来いよ」

「おう。お前も大阪に帰って来いよ。また一緒に遊ぼうな」

そんな言葉を交わして、新幹線は静かに発車していった。楽しくて、夢のような1週間が過ぎていった。星田が山口を離れてから5時間ほどして、無事に家に帰ったという連絡があった。無事に家に着いてほっとしたのと同時に、しばらく会えないのかという寂しさも感じていた。

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