第104話嫌なクラスメイト。そして夏休み。

 そんなある日、一応所属していた剣道部のクラスメイトから

「たまには部活に参加しろ」

と言われて、いやいや参加した私である。剣道の防具をつけて竹刀をふる練習をしたり、面や胴・小手などの練習をしたが、防具をつけると暑いし重たいし、体のどこかが痒くなってもかけないし。

「ろくなことがないな」

などと思っていた。それからも何度か練習に参加したが、やっていて楽しくないし、早く家に帰ってだらだらしたかった。

 はっきり言って、中学1年の1学期はいじめ加害者に対する恨みつらみに苛まれて、これと言った記憶が残っていない。

 ただ、私が今も覚えていることは、一見まじめで成績優秀な奴が実はとんでもない悪だったということがあった。成績は学年でも上位に来るような奴が、自分が勉強できるのをいいことに、周りを見下すような言動をする奴がいたのである。そいつは私にも接近してきて、表面上は仲のいい友達を装っていたが、私はそいつのそういった

「自分は勉強ができるんだ」

と言うオーラが大嫌いであった。意外にねちっこくて、他のクラスメイトの悪口を本人に聞こえるように言っているのを聞いてしまったのである。私は

「俺とは表面上は友達みたいに装っているけど、裏では俺のことも悪く言ってんだろうな」

そう思っていた。

 そうこうしているうちに期末試験があった。1学期の総決算ともいうべきテストであったが、中間試験同様、数学と英語はてんでダメで、5教科では国語と社会・理科で得点を稼いで、5教科以外では普通の得点を取っていた。ただ、小学校のころに比べると明らかに成績は下がっていた。中学校にいきなり躓いてしまったので、それが後々大きく響くことになってしまう。

 期末試験では国語・社会・理科は80点前後の得点を取っていたが、数学と英語は平均点かそれ以下と言う成績であった。母もテスト結果を見て

「やっぱり数学と英語がだめじゃね…」

とため息をつきながら言っていた。家庭教師の先生に教えてもらっても、やはりなかなか理解できないのである。数学の公式や英語の文法などは実に難解であった。そのため、学年の順位もちょうど真ん中あたりであった。


その期末試験が終わってしばらくすると夏休みに入る。期末試験を前に、大阪の星田から電話で、7月の終わりに山口に来るという連絡があったので、星田が来たらどこに行こうか、いろいろと考えていた。まずは山口県内の観光名所と言えば秋吉台と秋芳洞は外せないだろう。そして、大阪ではまず見ることのできないSLやまぐち号に乗って津和野に行くのもいいかなと思ったり、大内氏にゆかりの深い山口市内の観光名所を自転車でめぐるのもいいかなと思ったり。あれこれ考えて次第に予定は埋まっていった。予定では1週間の滞在となるそうである。

 そして1学期の修了式が終わって夏休みが始まった。夏休みの前には両親も運転免許を取得して、我が家に初めて車と言うものがやってきた。車はスバルレックスで、排気量は550CCで、この車は、かなりおんぼろでクーラーもついておらず、夏はサウナの中にいるような感じであった。クーラーがついていないため、いつも出発する前には窓を全開にしてこもった熱気を追い出さないと、暑くてやりきれない状態であった。それにエンジンを目いっぱいふかさないとなかなか加速がつかないし、まぁ、今の車から見れば快適装備などと言うものは皆無に等しかった。まぁ、勝った時点で10年近くたっていたので仕方がないのであるが、そのレックスに乗って母の実家に行くことがあった。4人乗りなので、当然一人は電車で行くことになるが、車を運転するのに交代要員が必要なので、父や母が電車で行くわけにもいかず、まだ幼い妹をひとりで電車に乗せることもできないので、必然的に私が電車で行くことになった。私としても両親のドライブテクニックを見てみたかったのであるが、4人しか乗れない車に5人乗るわけにもいかないので、そういうことになるわけである。私は電車に乗れればそれで満足なので、電車に乗るなり沿線の景色を楽しみながら母の実家の最寄り駅に到着。車より電車の方が早かったみたいである。駅から10分ほどで家に着くと、恒例のまるちゃんのお出迎え。いつも盛大に出迎えてくれるので、私の殺気立った心にも安らぎを与えてくれる。無邪気なまるちゃんの目を見ていたら、私が抱え込んでしまったものが少しは癒されるような気がした。そのまるちゃんを連れて散歩していると、ふと大阪に残してきたゴンのことが気になった。ゴンは元気にしているのか、可愛がってもらっているのか…。あの可愛かったゴンのことを思い出しながら散歩から帰ってくると両親が家に着いていた。そしてみんなが集まって昼食。母が料理を作ってふるまっていた。祖母は私に何も言わないが、慈愛に満ちた眼差しを私に向けてくれた。祖父は少し体調が思わしくなく、病院に入院していたので、そのお見舞いを兼ねての帰省であった。病院には我が家のレックスと叔父の車で向かった。私は叔父の車に乗せてもらったが、、叔父の車はクーラーが装備されていて、車内も広く快適であった。 祖父が入院している病院に着いて、祖父の病室を訪ねると、体調が思わしくない中、体を起こして

「よう来てくれたの。ありがとうの」

と、時折せき込みながら、かすれた声で出迎えてくれた。私は

「じいちゃん、体調はどんなかね?」

と聞くと、祖父は

「今薬を飲んだからだいしょうようなった」

と話していた。祖父は戦前から戦中・終戦直後の圧倒的に物資が不足する中、いろいろと工夫を凝らしながら田畑を耕し、祖母と一緒に子供を育て、働いてきたのである。私はきっと

「今までたくさん働いてきたから、少しは休めっていうことなのかな?」

と思っていた。その祖父が私によく言っていたのが

「美味しいものを食べたいと思うんじゃったら、苦労を惜しんじゃいけん」

と言う言葉であった。終戦直後は物資が足りない中、自分の家の畑で収穫された野菜や、飼っていた鶏が産んだ卵などを使って、育ち盛りを迎えていた子供たちが、食べるものに困らないように懸命に働いてきたのである。戦争を体験した祖父の言葉だからこそ、わたしには非常に重みのある言葉に感じられた。祖父の見舞が終わって、夕方帰宅した。帰りも私は電車で帰ったのであるが、途中海が見える区間で見た夕陽がとてもきれいであった。殺気だった私にもまだ、自然現象を見て、きれいだなと思う心が残っていたのであろう。そんなものはとっくの昔にどこかに忘れ去ったものと思っていたが、帰ってから久しぶりに望遠鏡を出して、星空を眺めたくなった私である。

 私たちが見舞いに行った後すぐに、祖父は退院した。レントゲン写真を見ると、肺に少し影みたいなものがあるという結果であった。この後も祖父は入退院を繰り返すようになるのであるが、体調悪化の原因は肺がんであった。祖父はタバコを吸っていたので、それが影響したのかもしれない。祖父の意向により手術はせずに、歩けるうちは家で過ごしたいと思っていたので、家に帰ることになった。まずは少し元気になったということで安心した私である。

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