第99話学業不振
中学校生活が始まって、いろいろな面でこれまでとは大きく変わったところがあったが、それでも何とか慣れてきて生活は落ち着いてきた。私は毎日
「通学カバンが重たい」
などと言いながら、家から歩いて30分以上かかる中学校までの道のりを通学していた。肩に背負うランドセルのようなカバンならそうしんどくも思わないのかもしれないが、手提げかばんはずっと手に持っていなくてはならないため、やはりかなり肩が凝る。そして4月も終わりになると、クラスの中でも仲のいい奴とそうでない奴、まじめな奴と突っ張ったやつなどに分かれ始めていた。私は誰も信用しないという信条のもと、誰ともあまり深くは付き合うようなことはせず、すぐ隣の生徒と時折じゃれあう程度であった。そして勉強についてであるが、はっきり言って、やる気全然わいてこず、小学校のころに比べると成績は下降気味であった。特に数学と英語は最初で躓いてしまい、苦手意識が根付いてしまった。数学も英語も平均点以下で、この2教科が私の成績(クラスでの順位・学年での順位)を落とす大きな要因となってしまっていた。私のやる気のなさに焦りを覚えたのか、私の両親は家庭教師をつけてくれたが、まるっきりダメであった。はじめは私の両親も
「慣れない環境が影響しているのだろう」
と静観する構えであったが、次第に
「勉強しろ」
と言うようになってきていた。
「勉強しろ」
と言われると余計にやる気がなくなるもので、私の中学校の最初は、部活はしない・勉強はしないで、思いっきりだらけていた。そんな中、ゴールデンウィークが始まった。ゴールデンウィークは特にこれと言って何かしたような記憶はないが、私の両親は山口に引越ししてから車の免許が必要だということで、自動車学校に通っており、慣れない車の運転に必死だったようである。ゴールデンウィークのころには仮免で路上教習が始まっていて、当時は教習車でオートマと言うのはなく、MT車での教習であった。クラッチの踏み方や変速の仕方などのタイミングが難しかったらしく、相当苦労したようである。まだこのころは家に車がなくて、移動はすべて公共の交通機関を使っていた。大阪にいたころは電車でも数分待てば次の電車がやってきていたが、山口県内では主要幹線である山陽本線でさえ30分に1本しか走らず、支線ともなれば、30分に1本走ればいい方で、大体は2~3時間に1本と言う運転本数であった。まだ私たちが引っ越したところは駅から比較的近く、電車も30分に1本くらいで走っていたので、まだましであったが。この後、両親は免許を無事に取得して、おんぼろの昭和53年生製スバルレックスのクーラーなしのMT車がやってきた。このスバルレックス、昔の軽自動車規格であるため、めっちゃ狭いうえに、エンジン音がすごく、またロードノイズも拾うので、かなり乗り心地はよくなかったが、まぁ、それでも両親が用事で使うには使い勝手がよかったようである。クーラーが搭載されていないので、真夏の炎天下で走るのはかなり灼熱地獄であったが…。
その自動車学校での教習で神経をすり減らし、私は勉強を真剣に取り組まないなど、両親としては、心配の種が尽きなかったと思うが、この時の私は、おそらくいじめとの戦いに明け暮れた毎日から逃れることが出来た一方で、いわゆる燃え尽き症候群のようになっていたのかもしれないと、今改めて振り返ってみると思う。
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