三.同年 鷹乃学習②

 皆原上城の天守から、虹三郎柾翼こうさぶろうまさすけは下城と城下町を嘗め尽くす炎を憎々しげに見下ろしていた。


 最早徳永家の命運は風前の灯火、まもなくあの大火に呑み込まれてしまうだろう。


 城下町よりも更に西、広瀬川を挟んで対峙した戦に大敗を喫して、徳永軍は城に逃げ帰った。だが相手は追撃の手を緩めず城下町に火を放ち、追い詰められた徳永軍は夜陰に乗じて下城を棄て上城に籠城する道を選んだ。これより後方は山神と山人の領域、もう逃げ場はない。


 ぎり、と兜の下で歯噛みする。こうなるくらいであれば、一層上の最上階にいる同じ歳の異母兄が家督を継ぐことを素直に容認していればよかったのだろうか。だが嫡兄が亡くなってから何かと周囲に比べられ競わされていた二人にとって、互いに譲ることは随分と難しい選択であった。


 せめて父が、生前にきちんと惣領を明言していれば。自分と異母兄、どちらかは滅んだかもしれない。しかし徳永家が滅ぶことはなかったはずだ。……だがそれすらも甘い見通しに過ぎないのではと、圧倒的な兵力差に思い知らされる。


 助力を仰いだ青砥家からは無しの礫、それをして家臣の中には、やはり約定どおり一の姫を嫁がせることができなかったからだ、と嘆く声もあった。だが身代わりの二の姫は送り込んだし、もし偽装が白日の下に晒されたとして、東林道の覇者が女如きに左右されるはずがないだろう。単に一橋国との戦いで疲弊し、亥規国を警戒して動けないだけのこと。同盟国よりも自国の守りを優先するのは当然だ。


 主君の静かな焦燥に、側仕えの小姓たちも黙って隅に控えている。


 そこに、階を昇ってくる軽やかな足音が響いた。


 柾翼が振り返ると、歳の離れた同母妹がひょこりと顔を出す。


「……紫か」


 黒い髪、白い肌、赤い唇。手足はしなやかに伸び、卵型の輪郭に絶妙に配置された目鼻立ちの中、密な睫毛が扇の如く閃く。蝶よ花よと慈しまれ、身内の贔屓目を差し引いても、とびきりの美姫に育ち上がった。


 ……もし半年前、父の死後、思惑どおりに彼女を亥規国に輿入れさせていれば、何かが違っただろうか。


 当時、見え透いた下心を持って接近してきた川平家を利用しつつも牽制するため、柾翼は挟撃の可能な亥規国主の高遠たかとお家と結ぶことを考えた。


 しかし紫は無表情に言ったのだ。「わたしの許婚は於秋様でしょう、何故ほかの人に嫁ぐの」と。


 城内の誰もが疾うに縁の切れたと思っていた話を持ち出した紫に、侍女たちは感嘆の思いを抱いたようだが、男たちは胸中穏やかではなかった。しかし頑なな紫を説得する言葉もなく、父の喪中ということもあって話が停滞しているうちに川平家に先を越されたのだ。


 その同盟に九重国の久凪家までも加わり、逆に徳永が挟み撃ちされることとなってしまった。


「まだ城内にいたのか。母上も葵子あおいこもとうに城を出たぞ。寛次郎かんじろう、川平の兵に於蜜を送り届けてやれ。当主の姪と知れば丁重に扱うだろう」


 京より嫁いできた正室は、広瀬川での対決の直後、いっそ清々しいほどいの一番に城を出た。その他侍女も下女も投降し、既に城内に残る女人は、この妹と、異母兄の妻……本来であれば義母になるはずだった義姉くらいではないだろうか。


 小姓の一人を供につけようと声をかけたが、紫は「いいえ」とそれを拒んだ。


「わたしはまだ残ります。待っている人がいるので」

「誰を」

「勿論、です」


 頼翼の誰何の声に、紫はどこか遠い目をして答える。その澄み切った眼差しに、柾翼は不吉なものを感じずにはいられなかった。


「何を戯言を」

「あの日、わたしたちは隠れ鬼の途中だったの。だから、おときさまが見つけてくれるまで、わたしは隠れていないと」


 苦言を遮って謡うように紡がれた声に、柾翼は慄然とした。妹はここにいない。七年前のあの日に立ち返っている。


「こんな状況で、何をふざけたことを」

「ふざけてなどいません。わたしは本気です」


 苛立つ柾翼に、紫は動じない。なまじ垢抜けた容貌であるがゆえに、そのさまは精巧な能面か傀儡人形のようだ。


 平時であれば柾翼も、少なくとも表向きは、その細面の印象に違わないやわらかな物腰で周囲に接しているのだが、今ばかりは猛り狂う感情を制御できなかった。



「――――いい加減に目を覚ませ、虎太郎時嗣ときつぐはもう、とうの昔に死んでいるのだぞ!」



 この七年、城の誰もが知りながら決して紫に明かせなかった真実を、遂に柾翼は口にしてしまった。


「――――」


 紫が短く息を呑む。けれども表情には、目を瞠る、眉を吊り上げるといったような変化は見受けられない。


 七年前。預けられていた叔父の屋敷から一の姫が失踪し、その咎めとして父は実の弟の斬首を命じたのだ。処罰の手は当然のようにその嫡男にも伸ばされた。そう、確かこの上城で紫や小者たちと遊んでいたとき、紫の目が離れた隙をついて捕らえ、森の中でその首を刎ねたのである。


 だが、まだ幼い紫に誰もその残酷な事実を伝えられず、叔父は国外追放、従弟は鄙寺に隔離と偽り、彼らの不在を取り繕った。誰の目にも愛らしく無邪気だった紫は、疑いもせずそれを信じ、父の勘気が解けて再び許婚に会える日を夢見て心待ちにしていた。


 思えば、かつての紫は、明るいひとみしろい歯を輝かせ、ころころと表情を変える感情豊かな少女だった。いったいいつから、「人形姫にんぎょうひめ」の綽名に相応しい、美しくも動かない顔になってしまったのか。


 造形物の如く繊細な美貌の妹姫は、兄の絶叫に薄く唇をめくった。


「……ようやく白状しましたね、兄様」

「!」


 本来であれば、皮肉げに嫣然とした微笑を浮かべていたことだろう。しかしやはり、紫は「人形姫」のままであった。


 その熱さも冷たさもない眼差しに射抜かれ、柾翼は半歩身を離す。


「……いつから気づいていた、まさか最初から」

「いいえ? 初めは十歳の童でしたもの。ですが、兄様にも思い当たる節があるのではなくて?」


 ――――四年前の冬の終わりだ。その年を境に、薄氷うすらいが融け雪果ての季節を迎えても、紫の顔は六つの花の如く凍てついたままとなった。しかし声だけを聞けばよく笑いよく怒り、斯くしてちぐはぐな「人形姫」は出来上がった。


 おそらく、紫は長じるにつれて真実を知り、けれどそれを受け入れられず、認めながら拒むという矛盾が彼女を壊れかけの「人形姫」たらしめたのだ。だからこそ、許婚を理由に縁談を拒んだ紫を誰も諭せなかった。真実を突きつければ、危うい均衡を保っていた彼女は完全に崩壊してしまう。無表情に笑い転げたり仰天したりする姿を見た者であれば、誰もがそう危惧しただろう。


「ではやはり、城下からあの者を逃がしたのもおまえか」

「あら。さすがに兄様も気づいていらしたの」


 その紅が似合う唇の動きすら、何かの細工のように映る。


「たわけが、侮るな」


 不忠者め、と殴りつけるのは簡単だった。しかし今柾翼は双籠手を嵌めている。それでなくても今更、拳を振り上げる気にはなれなかった。先に妹を裏切ったのは徳永の家のほうだ。家の都合で許婚を与え、そして奪った。


「ですからわたしは、この城で、おときさまの迎えを待ちます」

「……それは、この城と命運を共にするということか」


 死者の迎えを待つということは、つまりはそういうことだろう。しかし紫は声だけでふふっとあでやかに笑ってみせる。


「それはどうかしら?」


 謎めいた言葉を残し、紫は優雅に一礼した。


「それでは兄様、さようなら」


 浮線綾の腰巻の裾を捌き、階を下っていく。小姓たちがもの言いたげに兄妹を見比べたが、柾翼はただその細い背を見送った。そして頭を切り替え、彼らに向き直る。


「間もなくこの上城も戦場となるだろう。命を惜しむ者は離脱して構わない。だが城と共に果てる覚悟のある者はその時に備えよ」


 おう、と数少ないながらも力強い鬨の声が上がる。それに頷き、柾翼はもう一度だけ城外、その更に先に思いを馳せる。


 自分も異母兄もこの城を枕と定めた。妹も、あの様子ではどうなるか判らない。愛情よりも義務感で共に過ごした正室は無事に逃げ延びただろうか――――願わくば、自分が確かに生きて死んだ証を、後の世に繋いでくれるように、と。

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