三.同年 鷹乃学習③
兄に最後の別れを告げて天守を後にし、紫は城内の某所、七年前にも隠れ鬼で虎太郎から隠れていた場所に解いた腰巻を被いて身を潜める。間口よりも少し広い空間で、入口からの死角に屈み込めば充分隠れられた。自分の身はあの頃より随分縦に伸びたが、問題はない。
膝を抱え、更に顎を埋めてじっとしていると、様々な思いが脳裏をよぎる。
今にして思えば、すべては父の思惑どおりだったのではないか。
父柾嗣は叔父
だから父は一度遁走した長姉を叔父に預けた。腐っても父親、彼女が再度逃げ出すことも充分有り得ると承知の上で、狙いどおりに事が運び、叔父を処分する口実としたのである。
そして叛乱の芽を摘むため、甥でもあり娘婿でもある嫡男も道連れとした。
あの日、いつまで経っても虎太郎が探しに来ないから、夕焼けの中紫は仕方なく侍女たちと下城に戻った。翌日、いつものように叔父の屋敷を訪ねようとした紫に、母は沈痛な面差しで、虎太郎殿は屋敷にいない、叔父上と共に処罰され遠方の寺へと送られた、と告げたのだ。
幼い紫はそれを素直に信じた。更に翌日、一抱えほどの木桶がふたつ、父の座所に持ち込まれるのを目撃したときも、その中身のことを考えはしなかった。
その正体に気づいたのは三年後の冬の終わり、二の姫の母・灯里御前が暮らす殿舎でのことだった。裏口に目立たないよう置かれたみっつほどの木桶、それに見覚えのあった紫はこっそり近づこうとして、蓋をした桶に収まりきらない悪臭にぴたりと足を止めた。
開けないほうがいい、という本能と、中身を知りたい、という欲求がせめぎ合い、紫はおそるおそる蓋を開けた。
果たして中には、死化粧を施された男の生首があった。
悲鳴よりも先に胃の腑の中身が喉まで込み上げ、必死に紫は口を押さえながら自分たちの暮らす殿舎に戻った。後から思えば、冬なのは不幸中の幸いだった。夏であれば、いかに細工を弄しても傷みも臭いももっと激しかっただろう。
罰を受け、三年も音沙汰のない叔父と従弟。彼らが姿を消した直後に父の下に運び込まれたふたつの首桶。それらが紫の中で一本の線につながった瞬間だった。
嘆くにも怒るにも時が経ち過ぎていた。その日から、紫は美しくも空ろな「人形姫」となったのだ。
真相を悟り、しかし悟ったことを明言しないまま、更に四年の歳月が流れた。母が、皆が望んだとおり、許婚の帰郷を待つ夢の世界に生き続けることを決めた。その間に別の者との縁談が持ち上がったが、既に許婚がいるのに何故別の誰かに嫁ぐのかと素知らぬ顔で言えば、誰もが口を噤み、話はあっさり流れた。
或いは、そのとき誰かが真実を打ち明けて、紫を優しい夢から憂いの現に引き戻してくれていたら、今日この日は来なかったのかもしれない。
けれどそうはならなかった。だから、国内の川平家や隣国の久凪家との関係に暗雲垂れ込めたとき、皆原城下に人質として暮らしている久凪家の跡継ぎが偶然にも同じ歳、同じ「ときつぐ」という名であることを知った紫は、なんとしてでも彼を逃がそうと思ったのだ。
勿論それが、久凪家の憂い、延いては徳永家に弓引くことへの躊躇を取り除くことだと理解していた。それでも、許婚と同じ名前、似た境遇の彼を救うことが、自分の心の救いにもなると信じた。僅か十歳で殺された従弟の魂の救済ではない、完全なる自己満足に過ぎないことは百も承知である。
城下町から下城、更には上城へと迫る炎。これは、小さな「おみつ」の幼く残酷な復讐だ。かけがえのない人を理不尽に奪われ、欺かれたことに対する報復。全部、全部消えてしまえばいい。
その報いとして、自分も共に滅びることに恐怖はなかった。やっと同じ彼岸に辿り着けると思えば本望ですらある。
けれど、あの三つ足烏の屋敷の夜、久凪家の秋継に紫は言った。
――――わたしを探しに来て
――――隠れ鬼の続き。わたしはあのときと同じところに隠れて待ってる
――――きっと、あなたが見たこともないところ。わたしはそこにいる
これは賭けだ。どちらの「おときさま」が迎えに来るか。十七歳の生身の彼が見つけてくれたら、紫はその手にすべてを委ねる。ほかの誰かに見つかったら、その背後に十歳の幻の彼を見て、懐に忍ばせた短刀を首に一息に突き立てよう。
決意を胸に、紫は睫毛を伏せる。
遂に上城の虎口も突破され、日も沈み始める頃、待ち焦がれた瞬間がやって来た。
崖上にせり出した空間に続く板張りの廊の軋む音が近づいてくる。膝を抱えた拳に力が入り、紫は一度開いた瞼をきつく閉じた。
訪れたのは、果たしてどちらの「彼」か。
「――――見つけた」
呆れたような、安堵したような声。
紫は膝から顔を上げる。
すべてを溶かすような西日が川面を染め上げていた。
その光を遮って、紫を見下ろす中背の者の顔がある。
紫を見つけたのは、額当てに胴丸姿の十七歳の秋継だった。
「……於秋様」
「なんなんだ、ここ」
秋継の興味はまずそちらのようだった。その顔に、山中で受けた暴行の痕は既になかったが、激戦を物語る土や煤に薄汚れている。立ち上がって紫は簡潔に説明した。
「井戸櫓。ここで、川から直接水を汲み上げるの」
広瀬川に面した水の手曲輪、その先端から川に突き出した、屋根と骨組みだけの簡素な施設だ。山城でも、基本は井戸を掘り、難しければ溜め池をつくるが、地形によってはこういう仕組みもある。
「どうしてここがわかったの」
「下城から、このあたりに妙なものが突き出てるのが見えたから」
秋継は、僅かな手がかりから紫に辿り着いた。それを喜ぶべきか否かは、まだ紫には判らない。
それより、と秋継は籠手をつけた手で紫のそれを迷いなく握る。
「上城ももう戦場だ。早く逃げるぞ」
「うん」
手を繋ぎ、広瀬川に突き出た水の手曲輪から西曲輪を経て天守の聳える本曲輪へと戻ると、具足姿の兵が入り乱れ、天守の上部、いやそこかしこから火の手が上がっている。
その混乱を掻い潜り、二人揃って北曲輪の搦手から脱出したところで、紫は一瞬立ち止まった。終焉を迎えようとしている城を一度だけ振り返り、あとは秋継の手をただ強く握る。
城山の麓、川の水音が聞こえる辺りまで降り、今一度足を止めると、夕闇の中、天守が炎上している様子がはっきりと見えた。
天を焦がす勢いの炎を言葉もなく眺めているうちに、紫の目の奥、胸の底から込み上げてくる波があった。それは瞬く間に眦から滴り、喉から迸る。
「……っ、うわああああああああああっ」
前触れなしの号泣に、驚いた秋継の手が緩んだ。紫は膝から崩れ落ちて天を仰のき、身も世もなく泣き叫んで慕わしい名を呼ぶ。
「おときさま、おときさまあああっ、うわあああああああああんっ」
本当であれば、七年前に流すはずだった涙だ。時を逸したそれが今更、雪解けの奔流のように溢れて止まらない。
被衣が滑り落ちたことにも気づかず、あられもなく慟哭する紫に、秋継が声をかけてくることはなかった。けれども離れていくこともなく、背が触れるか触れないかの位置に腰を下ろす気配がする。
「わあああああっ、ああ、っううう、う、ぅあああああああっ」
だから紫は、安心して思う存分、気の済むまで泣き続けた。女人らしいさめざめとした啜り泣きではない、火のついた赤子のような大泣きだ。喉も嗄れんばかりに泣き喚き、しゃくり上げ、それでも涙はあとからあとから止めどなく流れ出てくる。
やがて昇った月が、七年前、千年前と変わらない顔で、戦火に揺れる夜を見下ろしていた。
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