二.同年 梅子黄(うめのみきばむ)
帰城から五日ばかり過ぎた頃、紫が少し部屋を空けていた間に、青鬼灯の茎に結んだ文が文机に届けられていた。横着な侍女だと立腹しながら結び目をほどき、短い文面に目を通して、紫はその考えを改める。
差出人は火影だった。今宵、報酬を受け取りに参上すると言う。ならばこれは侍女の手を介して届けられたものではなく、どういう手段でか、直接ここに置かれていたのだ。
「その文がどうかなさいました?」
「大したことではないわ、……西曲輪からの季節の挨拶よ」
若い侍女の問いに、紫は咄嗟にそう言い繕う。幸い、侍女は文そのものよりも青鬼灯のほうに関心を向けていた。
「旬には少し早いですが、風流ですね。でも折角なら、
「それじゃまるっきり恋文じゃないの。それより、鬼灯挿す花瓶、探してきて」
苦笑交じりの声で返しながら、紫は後ろ手で文をくしゃりと握り潰す。火桶を使用する季節ではないから、あとで竈にでもくべるほかないだろう。雨上がりの光弾く庭先を、バサバサと一羽の烏が翼を広げ去っていく。
その夜、それとなく人払いし、単衣に打掛を羽織った紫は月が昇るのを眺めつつ火影の訪いを待っていた。梅雨入りを迎えた夜には珍しく、中天には十六夜の月が冴え冴えと輝いている。
しかし何事もなく夜は深まるばかり、つい広縁でこっくりこっくりと舟を漕いだ紫の肩に、忍び笑いが降って来た。
「こんなところで寝てると風邪引くぞ」
「!」
聞き覚えのある低く耳朶をくすぐる声に、紫は一瞬で覚醒し頭をがばりと上げる。夜を背負い、山の民を束ねる男が濡縁に堂々と立っていた。濃蘇芳の小袖と二藍の袴の組み合わせは、夜に溶けてしまいそうな色合いだ。
「火影殿、……びっくりさせないでよ、もう」
「そうか?」
一瞬生首が浮いているように見え、程よくやわらかな胸を押さえた紫の苦情を、火影はあっさり受け流す。
「於秋様は無事九州に辿り着けたの?」
「莫迦め、俺を誰だと思っているんだ。依頼を違えたことはない」
自画自賛の響きの中に、紫が切望した答えがあった。安堵し、紫はほっと息をつく。
「ありがとう。それで、報酬はいくらお望み?」
「ああ、俺もそのつもりだったんだけどな」
言いながら、火影は紫の隣に腰掛ける。
「於秋を送り届けたときに、あいつの分とおまえの分、合わせて払ってもらった。だから於蜜から受け取る金子はない」
「え?」
此度の発案者は紫、だから勿論紫が全額支払うつもりでいた。しかし命を救われた礼としてか、秋継が安くはない報酬をすべて負担したのだ。
紫は膝上できゅっと拳を握り締める。せめて自分の分は支払うから返金してやって、と頼むのも野暮な話だろう。それに火影も仕事人らしく、欲を掻いて報酬を二重取りしようとしなかった。
「……でも、じゃあどうして城に来たの」
無傷でここにいるということは、それなりに配備された見張りの目を掻い潜ってきたということだろうが、何故わざわざ山を降り、危険を冒して城に姿を見せたのか。
紫の疑問に、火影は食えない笑みを浮かべる。
「だって、首尾を聞きたかっただろう?」
「それはそうだけど」
真っ先に秋継の安否を尋ねた紫に、火影は更に意味ありげに笑った。
「それにな」
夜目には黒と見紛う程に濃い蘇芳の袖が動き、火影の節張った指が紫の頬を撫でる。紫は一瞬身構えたが、あの小屋で山賊に触れられたときほどの嫌悪は感じなかった。
小さく肩を揺らしただけで逃げなかった紫に、山の王は嘯くように言った。
「俺はおまえの顔が気に入った。だから見に来た」
「……そう」
紫は間の抜けた相槌を打つ。これが一の姫ならば、許容にしても拒絶にしても故事などに絡めて機知に富んだ返しができたと思うが、あいにく許婚と遊ぶことしか眼中になかった紫には無理な芸当だった。
壊れものを扱うように指の背で撫でられた頬を、今度は厚い掌で包まれる。まるでくちづけの前段階だ。二の姫であれば、慎ましやかだからこそ扇情的に頬を朱に染めただろうか。
まるで動じない紫の反応に、火影は面白そうに目を細める。掌は名残惜しさもなく離れた。
「それでも、国主の城に忍び込んで手ぶらで帰るというのも沽券に関わるからな。それなりのものは頂いていく。代わりに、ひとつ教えてやろう」
「何」
「この城は負けるぞ」
一切の躊躇なく、火影は落城を宣言した。
紫はそれを、眉ひとつ動かさず受け止める。
「徳永のために青砥は兵を動かす気はないようだ。むしろ、徳永を制圧した川平を背後から衝いて、今度こそ同盟ではなく併合を狙っていた節もある」
時に兵や忍として戦に加わる山の民の下には、各地のあらゆる情報が流れ込んでくる。
紫の願いは飽くまで秋継を無事に逃がすことであり、徳永家の滅亡を望んだわけではなかった。けれど願いが叶った今、火影の言葉を思いのほか凪いだ心地で聞いている自分がいる。
「まあ、一州との戦いの後遺症と、川平が北の
「どうして?」
「京に拠点を置く久世家が既に西国を傘下に収めたからだ。そこまで来れば目指すは全国統一、官軍として、間もなく東国にも兵を差し向けてくるだろう」
紫の耳には入ってこない各国の情勢を、火影は具さに把握していた。
「そのとき、半端に大きな兵力で逆らっては完膚なきまでに叩き潰される。何しろ相手はこの洲の半分だ。だが攻められるより先に諸手を挙げて恭順すれば、七州一国であればそのまま統治を安堵されるかもしれない。生き残りのためのひとつの戦略だな」
そう締め括られ、紫がようやく思ったのが、その青砥家に嫁いだ二の姫のことだった。青砥家が久世家に滅ぼされることがなければ、彼女もまた無事でいられるだろうか。いつか会える日も来るだろうか。
「さてと。この戦、徳永からも川平からも、俺たち山の民に参戦の依頼が入ってる。もしかしたらまたこの城でまみえることになるかもな。取り敢えず、今の情報分の報酬は頂いていくぞ」
そう言って、火影は城内を物色すべく立ち上がった。紫もそれを咎めず、むしろ助力を申し出る。
「案内する?」
高価な茶道具や舶来の品々、金子銀子などを保管している場所は凡そ知っているが、中に入ったことはない。個人的な好奇心も手伝っての発言だったが、火影は手で制した。
「いや、大丈夫だ。俺たちにとっては屋敷に入ることがいちばん難しい。だが住人の手引きでそれが叶えば、あとは容易いものだ。おまけに夜だしな」
手引きというほどではないものの、紫は確かに報酬の支払いのため、心情の上で火影に対して門戸を開けていた。理屈はよく解らないが、彼にはそれで充分だったようだ。
そして去り際に、もう一度まじまじと紫の顔を見つめて笑う。
「本当に面白い。と言うより興味が湧く。いったいおまえの顔はどういう仕組みになっているんだ? 声にはちゃんと感情があるのに、表情が一切動かない」
「…………」
紫は答えない。答えようがない。
だが火影は答えを待たず、「ではな」と夜に閉ざされた城の奥へと消えていった。
その背を見送り、紫は素知らぬ顔で室内に戻って打掛を脱ぎ衾を引き被る。夜だというのに、鳥の羽ばたきが遠く聞こえた気がした。
皆原城の夜は、やがて朧月ののち細く降り始めた雨の中、静かに更けていった。
最後の戦いの火蓋が切って落とされたのは、その僅か二十日後のことだった。
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