五.同年 山茶始開(つばきはじめてひらく)

「仁乃殿。私はそろそろ、六州に戻ろうと思う」


 尚衡がそう切り出したのは、薫物を菊花から落葉へと変えた、その明くる日のことだった。


 主屋に呼ばれて告げられた茜は「左様でございますか」と返したものの、胸中は複雑だった。すっかり冬めいた陽射しがぬるく差し込み、火鉢よりも優しく室内を暖める。冴えた色の空には綿を薄く裂いたような雲が漂っていた。


 この屋敷を訪れる少し前に秋を迎えた。何も変化のなかった七年を経て、茜には怒涛の三月だった。


「新しい太守様に無事勅許も下り、前太守の葬儀も終えて、鷦鷯の城内も落ち着いてきた。一度戻ってきてほしいと義父上からも言われている」


 六槻国の国主はようやく十からふたつみっつ数えたばかり、前国主も有能とは言いがたく、瀬名氏を初めとする有力な国衆や重臣たちが国政を支えている。それに加えて自身の領地の経営もあるのだから、手はいくらあっても足りないことだろう。こういった屋敷の外のことを、尚衡は少しずつ茜にも話してくれるようになった。それほど遠出ではないけれど、約束どおり、綾無と共に出かけてもいる。


「少し淋しくなりますね」


 刺繍の施された枯野重の打掛の裾を扇のように広げて座す茜は睫毛を翳らせ、半分だけ正直に吐露する。


 珊瑚と君連は雪深くなる前に鷦鷯城を離れ、夏目領で祝言を挙げる手筈になっている。若夫婦の今後の住まいは君連の出仕先次第だが、茜に都合のいいように事が運ぶかは不透明だ。


 けれどもう半分、一緒に連れて行ってほしい、とは言えない。同じ屋敷に起居していながら、自分たちはそれぞれ寡婦と寡夫なのだ。瑠璃姫の喪は明けたが、亡き妻との思い出がまだ色濃く残るであろう館に、そう簡単に足を踏み込んではいけない。


「屋敷の隅に的場があるから、使っても構わない。それより馬でも買うか」

「いえ、馬は大丈夫です」


 からかうような笑い含みの提案を茜は丁重にお断りする。尚衡は気軽に言ってくれるものの、駿馬の値段の相場を聞けば、とても居候がねだれるものではない。弓術も、矢の長さは腕の長さで決まるため、本格的に行うつもりであれば道具を揃えるところから始めることになる。


「折を見て戻ってくるゆえ、その間の留守を頼む」


 六槻は五原を挟んだ更に西の国で、れっきとした留守居役の家人もいるだろうに、敢えてそう言ってくれる。


 更に、続く言葉があった。


「……そして、一年経ったら、仁乃殿を加賀見の館に迎え入れたい」


 一年経ったら。……即ち、夫を亡くした茜の喪が明けたら。


 本来は落飾すべき茜をこの屋敷に留めて、しがらみの解けるその日を待っていてほしいと。


 やや堅い面持ちで返答を待つ尚衡の眼差しを受け、茜は泣きそうなほどの喜びに胸を震わせた。


「はい。……どうぞよろしくお願いします」

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