四.同年 霜始降(しもはじめてふる)①

 彰衡との面会は、案外早く許可が下りた。


 追い返された日から十日と経たずに、茜は尚衡と共に再び、夕刻前の雲雀寺の門を叩いた。応対した僧侶は、今度は一礼して二人を境内に通す。


 立派な本堂よりも奥、木々に紛れるように佇む古びた御堂が、かつては鷦鷯城より東林道を睥睨した七尾国前国主の今の侘び住まいだった。


 仏間ではなく奥の間の戸を開けると、中は僅か六畳ではあるものの畳敷きで、隣にも襖で仕切られた部屋がある。まだ日暮れ前だというのに障子戸の外の舞良戸まで閉ざされており、室内は薄暗い。


 その上座に腰を据えたまま、かつての宗主は男女の来訪者を迎える。その態度も、直垂を着こなした姿も、まるで虜囚とは思えない。


 茜はまたも叫びたい衝動に駆られる。ここは精気漲る彼のいるべき場所ではない。彼に似合うのは、抜かりなく手入れされた築山の庭を望む大広間の上段や、家紋を染め抜いた白幕を張った陣屋の厳めしい軍議だ。断じて、こんな隠遁者がひっそりと余生を過ごすような小部屋ではない。


 けれど、彼をここに追い遣った遠因である茜に、そのようなことが言えるはずもなかった。


「兄上。俺が城を追われて以来ですね」


 異母弟の相変わらずの不遜な言葉に、尚衡はただ黙礼した。含み笑いの声すらかけられなかった茜も、一礼して無言で彰衡の真正面に直に腰を下ろす。


 少し痩せただろうか。けれども双眸に宿る抜き身の刃の如き光は変わっていない。


 その目を怯まず見返す茜に根負けしたか、彰衡はつまらなそうに口を開く。


「……何をしに来た」

「わかりません。ただ、あなた様がこちらにいるうちにお会いせねばと、そう思ったのです」

「わからないのにか」


 彰衡が鼻白んだ。淡白に遣り取りするかつての夫婦を、尚衡は開いた戸口に立ったまま控えて見守っている。


「ですが、わたくしは今もあなた様の側室ですから。その道理に従えば、わたくしも城を出て共に蟄居するなり離縁されて実家に戻るなりすべきなのでしょう」

「話の通じない女だな。おまえは兄上にくれてやったのだ、もう側室でもなんでもない」


 強情な茜の言に、彰衡は呆れたように話を終わらせようとする。


「言いたいことはそれだけか。ならばさっさと帰れ。もう俺とおまえは無関係だ、せいぜい兄上に可愛がってもらえ」

「お待ちください! ……どうしてそんなにあっさり、国主の座を退かれたのですか」


 去らないなら己が引き上げると言わんばかりに腰を浮かせかけた彰衡に、茜は堪らず声をあげた。彰衡は動きを止め、座り直して仄暗い欄間に視線を彷徨わせる。


「どうして、か。……どうしてだろうな。まあ、田植えの季節にまで戦を長引かせた上に軍は大打撃、一州どころか八州も失ったも同然とあっては、宗主としての器量を疑われて当然だろう。俺はそもそも古参連中との折り合いが悪かった。父上にはそれを強引にねじ伏せるだけの手腕があったが、俺はそこまでの境地には至れなかったということだ。その点、甲斐三郎かいさぶろうは要領がいい。父も母も同じでありながら、ここまで違うものとはな」


 では、青砥家は川平家や久凪家と誼を通じた訳ではないのだ。それなのに徳永家を見限ったのは、単なる兵力不足か、やはり茜の嘘のためか。


 流鏑馬神事での振る舞いを見れば、彼とて敵ばかりではなかったはずなのに。だが、茜が彰衡とこれほど長い言葉を交わすのは、七年前の初夜以来である。


 もっと言葉を重ね合えば、互いの胸の内を伝え、解り合い、寄り添い合えるのかもしれない。けれども彰衡はそのいとまを与えようとはしなかった。


「これで気が済んだか」

「待って、――――彰衡様!」


 国主ではなくなった彼をなんと呼べばいいか判らず、咄嗟に茜は輩行名を飛び越し本名で呼んでしまう。そして気づいた。この七年、彰衡は一度も茜のことを如何なる名でも呼んだことがなかった。


 不意に彰衡が動いた。前のめりになった茜の許に歩み寄り、膝をついて目線を合わせ、左耳ごと掴む勢いで濡れ羽色の髪を鷲掴みにする。


 睦言を囁き合うほどに距離を詰め、束の間見つめ合ったのち、彰衡は茜の耳許にそっと零した。


「……やはり似ておらぬな」

「!」


 自嘲を含むその響きに、茜はこれ以上ないほど目を瞠る。


 彰衡は異母姉を、本来輿入れするはずであった一の姫を知っているのか。知っていても不自然ではない。皆原城での宴席に、彼が父親と共に招かれていた様子は茜の記憶にもうっすら残っている。


(……だからなの?)


 先々代の国主はうろ覚えだったようだが、彰衡の脳裏には鮮烈に、京の血に連なる高貴な美貌が焼きついていた。憧れていた。だから一目で、輿入れした茜が一の姫ではないと気づいた。


 望んだものがあと一息で手に入らなかったから、八つ当たりのように茜を捨て置き、人心も離れるほど苛烈で独善的になった挙句、遂には国主の座への執着さえ失ってしまったのか。


 確かに、茜は知らず、彰衡を追い詰める一手を打った。けれどもきっかけを生んだ、宿命の女とも呼ぶべきは、間違いなく異母姉だ。


 正直、この七年で、今ほど彼女に会いたいと思ったことはない。会って、言葉の限りに痛罵してやりたい。一の姫の行動ひとつが、どれだけの者の命運を狂わせたか。


 茜の唇がわななく。その様子に薄く笑い、彰衡は髪を掴む手を離し、身を離した。


「俺とのことは忘れろ。すべて忘れて、兄上と幸せになるがいい」


 そして、片膝をついたまま尚衡を見上げる。


「兄上。この者のこと、どうぞよろしく頼みます」

「……承知いたしました」


 異母弟でありかつての主君の命令ではなく願いに、尚衡は一拍置いて重々しく頷いた。その返答に満足げに笑い、彰衡は今度こそ退去を命じる。


「ではもう行け。二度と来るな」

「仁乃殿」


 動けずにいる茜の肩にそっと、尚衡の武芸に馴染んだ指が触れる。それでも茜は、その場に縫い止められたように立ち上がれなかった。彰衡は無言で背を向け上座に戻る。茜の視線を解っているだろうに、決して振り向こうとしない。


 ようやく茜も、唇を引き結んで立ち上がる。尚衡に促されて部屋を出て、「お邪魔いたしました」と頭を下げ、扉を閉ざす。最後まで彰衡は振り返らなかった。


 そしてこれが、夫婦の永遠の別れとなった。

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