四.同年 蟋蟀在戸③

 尚衡が東堂の馬を借りて雲雀寺に辿り着いたとき、門前では二人の僧兵と青毛を連れた市女笠の佳人が言い争っていた。


「ですから、寺には何人なんびとたりとも入れるなと、鷦鷯の城からも、それに当人からもきつく申し付けられているのです」

「どうしてですか。わたくしは前太守様の側室です、夫に会うことの何が駄目だと言うのです」

「前太守様の妻妾たちは、皆実家にお帰りになったそうですよ」

「わたくしに帰る実家なんて……」


 そこに栗毛に跨ったまま尚衡が近づくと、三人ははっとしたように振り返る。特に市女笠を被いた茜は、目に見えて顔面蒼白になった。


 なるほど改めて見ても、天姿国色、気の強い珊瑚が敗北を認める、どんな美辞麗句も霞むくわだ。そんな彼女の懇願に絆されないとは、さすがは煩悩を捨て修行に勤しむ雲水である。


 馬上から三人を一瞥し、尚衡は僧兵たちに短く詫びる。


「すまない。今日のところは引き上げる。また城の許しを得てから訪ねよう」


 僧たちは「承知いたしました」と頭を下げ、閉ざされた門の中へ戻った。門前払いを食らった茜は、俯いて尚衡から視線を逸らす。居たたまれなさそうなその様子に、尚衡は溜め息をついた。


「聞こえただろう。引き上げだ」

「はい……」


 蚊の鳴くような声で頷き、茜は後ろ向きに鐙に足をかけ、自力で綾無に跨る。その手馴れた一連の動作にも尚衡は密かに感嘆した。


 東堂が部屋を訪れたあと、すぐに彼の馬で西曲輪を飛び出し、目撃証言から茜の行き先を察した尚衡だったが、その道中も今も、いや、一月前の夜から、彼女には驚かされるばかりだ。


 綾無は賢い馬だから、尚衡が騎乗を許した茜を覚えていることは不思議ではない。しかし平均よりも大柄な綾無の手綱をとり、尚衡が容易く追いつけないほどの速度で乗りこなす茜のことは今でも信じがたかった。


 武家の女人が馬に乗ることはない話ではないが、大抵は従者に手綱を引かせて歩く程度だ。武士顔負けの手綱捌きで乗りこなすなど、それこそ女武者の芸当である。


 それを、この見るからに華奢で大人しげな女人が軽々とやってのけた。開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。


「少し走る。ついて来れるか」

「はい」


 打てば響くように返された是の言葉どおり、茜は綾無を完璧に制御し、疾走と呼ぶにはやや緩めの速度で走る尚衡の後方にぴたりと従う。鞍に座るというよりも鐙に踏ん張る立ち透かしの姿勢も見事だ。鷦鷯城とは異なる道に馬首を向け、程なく一宮下社の石段へと辿り着いた。


「あの、こちらは」

「遠駆けに出ると言って出てきたのだ、すぐに戻るのは不自然だろう」


 そういう名目で東堂の不注意を不問に処し、尚衡は茜を追って来た。


 平地の森に抱かれた上社と異なり、下社は崖に切り取られた急で細長い石段の上に鎮座している。こちらにも流鏑馬神事を奉納するとなったら馬を運ぶだけでも大変だろうと、尚衡は全く関係のないことを思った。


 豊作を祝う祭りを控え、人影のない静謐な神域で、手頃な木に青毛と栗毛の馬を繋ぎ、二人は石段に腰掛ける。


 何から言うべきかと尚衡は迷ったが、結局、口をついて出たのは正直な感想だった。


「……まさか仁乃殿がこれほど大胆な御方だったとは」

「申し訳ございません……」


 消え入りそうな声がただ謝る。その落差に、つい余計な揺さぶりをかけたくなる。


「珊瑚殿に、出奔を見逃した家人がどうなるとお思いか、と説教ぶった者の所業ではないな」

「! それは」


 騙して装束を用意させた侍女や綾無を準備させた東堂らへの処遇にようやく思い至ったか、茜は顔色を変える。それこそ覚悟も考えも足りない反応に、尚衡は小さく笑った。そもそも考えようによっては、彼女は単なる脱走ではなく立派な馬泥棒である。


「大丈夫だ。私が仁乃殿との約束をすっかり忘れていたということにしてある。罰を下す理由がない」


 ただ、慎み深い彼女がそうやって我を忘れ文字通り暴走するほど、己を手酷く捨てた夫君に情が残っているのかと思えば、尚衡の中に小さなしこりが残った。


「八鍬では、ああして馬を乗り回していたのか。女人も馬術や武芸を嗜む家風なのか?」


 非難ではなく単なる好奇心で訊くと、茜はぽつりと答えになっていない問いを返す。


「……灯里あけさと御前の名をご存知ですか」

「ああ。あまね御前の再来と名高い女傑だろう」


 王朝時代末期の伝説的な女武者に譬えられた八鍬国の烈女。ただ、謳われたというほど古い話ではなく、せいぜい二十数年前の逸話だ。


「母です」

「母?」


 明快な告白に、尚衡は驚きながらも納得した。


 茜が言うには、そういう武人気質の母と、やはり書物より武芸を好んだ兄の影響で、彼女も幼い頃から馬術や弓術を学んでいたそうだ。灯里御前も周御前同様、もとは夫の乳母子であり、同じく乳兄弟の兄と共に戦場にも同行し、やがて閨にも侍るようになった。二人の子を産んで前線からは退いたが、皆原城の近くで一揆が起こった際などには、兄弟たちが首実検前の死化粧を依頼するために打ち首を持ち込むことすらあったらしい。


 嫁入り道具に弓矢などは持ち込めなかったのですっかり腕が鈍ってしまいました、と少し淋しげに笑う横顔は飽くまでたおやかで、勇ましさとは無縁のものに見えた。だが確かに、彼女はその身の内に、門外不出の不滅の法灯の如く小さくも絶えない炎を宿している。


 生国でも彼女は「鷽姫」と渾名されていたというが、まさに「嘘姫」、小鳥のように容姿も声音も愛らしい清楚な見かけからは想像もつかない、嘘のような姫だ。


 茜が馬を自在に乗りこなすことのできる理由は知れた。だがまさに今日、火花のような激情で、小姓を言葉巧みに騙してまでそうしようとした動機は。


「……仁乃殿はまだ、前太守様をお慕いしているのか」

「……わかりません。ただ、弟姫様から今のあの方の状況を聞いた途端、どうしても会わなければと、ただその一心で」


 彰衡が国主の座を弟に奪われた顛末を、尚衡もよく知っている。と言うよりも立派な関係者だ。しかしその詳細を、茜には一切伝えていなかった。それゆえに彼女は不信感を抱き、一人で寺へと馳せ参じたのだろう。思い返せば茜は、夫君の国主就任や実家の滅亡も知らされていなかった。それと同じ轍を尚衡は踏んでしまったのだ。


 常時疎外感に晒されていた茜は、努めて平静を装った尚衡の問いを、肯定も否定もしなかった。ただ髪がひとすじはらりとかかる頬にうっすらと色が差す。瑠璃も指通りのいい黒髪、透き通るような柔肌の持ち主だった。線が細く、珊瑚よりも茜とどこか雰囲気が似ていたが、二人はまるで違う。比べること自体、どちらにも失礼な話である。


 尚衡はこう見えてあまり我が強くない。命じられるまま、瀬名家に婿入りし、側室を引き取った。どちらの弟につくかも決めかねて……否、踏ん切りがつかずいたところに、背景を知らない茜が下した判断は鮮やかで、それに背を押されたのだ。


 茜は常に物腰やわらかく控えて相手を立てるが、一度心を決めれば、放たれた矢のように止まらず初志を貫き通すだろう。何度拒まれても、すべて失った夫君を訪ね続けるに違いない。


 それをただ見送ることが、今の尚衡にはできなかった。


「城の重臣たちを説き、面会が叶うように取り計らおう。そのときは私も同行する。だからそれまで勝手なことはしてくれるな」

「……重ね重ね、ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

「では帰るか」


 茜が深々と頭を下げる様子を横目に、尚衡は石段から立ち上がった。既に空は茜色に染まりつつある。秋の陽は釣瓶落としとはよく言ったもので、少し翳ったと思ったらすぐに日暮れとなってしまう。


「……また日を改めて、綾無でどこかへ出かけようか」


 尚衡の誘いに、琴弾く花は、嬉しげに優美な微笑みを浮かべた。


「はい。楽しみにしています」

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