四.同年 蟋蟀在戸②
「ごきげんよう」
馬たちに餌遣りをしていた小姓の
「これは、御方様」
二月前、前国主から主人へと払い下げられた八鍬国出身の側室だ。尊顔を直視するのも申し訳ないと慌てて膝をつく東堂に、「大丈夫、顔を上げて」と、面差しと同じく窈窕たる声がかかる。
おそるおそる顔を上げると、彼女は笠を手に、括袴と
思わず瞬いた東堂に、彼女は要領を得たように、錦上花を添える微笑を浮かべる。
「わたくし、中曲輪でもこちらでもずっと室内に籠もりきりでしたから、瀬名様が気晴らしに遠駆けに連れて行ってくださると仰ったの。綾無の準備をしてもらえる?」
「畏まりました」
承知仕り、鞍や鐙の準備を始める。その様子を、彼女はとても楽しげに眺めていて、東堂はやや緊張しながら手を動かした。
程なく綾無の準備は整ったが、主人が厩を訪れる気配はない。
「遅いですね。申し訳ないけれど、瀬名様を呼んで来てもらえますか」
繊手で綾無の鼻面を撫でながら希う声が、鈴を転がしたようにか細く耳朶を撫でる。曲眉豊頬、紅口白牙。優しげな線を描く月の眉に肌目細かい雪の頬、蕾のように淡く色づいた朱唇、小づくりな鼻。小柄だが全体的に見れば均整の取れた立ち姿。一笑千金のこの女人を乱雑に扱ったかつての城主が信じられない。
あの流鏑馬の日、東堂もその場に居合わせた。主人はいずれ中曲輪にお返しする御身と言っていたが、その中曲輪の主は既に弟君に取って変わられた。となればやはり、妹姫も嫁した今、彼女こそが主人の継室の座に就くのだろう。前妻も穏やかで心優しい女人であったが、主人に従って瀬名家に仕える身となった東堂は高揚した。
その主人は、今日は溜まった仕事を片付けると言っていたはずだが、深く疑いもせず彼女の言葉に頷き、東堂は主屋へと向かった。
部屋を訪ねると、案の定、主人は書状や冊子が散らばった中、文机に向かって何かをしたためている真っ最中だった。
入室を許され、膝をついて襖を開けた東堂はその場で一礼する。
「失礼仕ります。御方様が厩でお待ちでございます」
「厩? なんの話だ」
首を向けた主人の反応に、東堂は思わずたじろいだ。
「いえ、御方様が、今日は殿と遠駆けに出かけられるのだと……」
「……どういうことだ」
まるで噛み合わない会話に、遠く蹄の音が重なる。その瞬間すべてを悟り、東堂のまだ少年と呼ぶべき顔から血の気が引いた。
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