四.同年 蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)①
翌日から、「既成事実」のために珊瑚は君連が留守居を任された屋敷に移り、秋の深まりも相まって由利屋敷は少し寂しくなった。
また、西曲輪では六槻国から持ち込んだ書類仕事を主に行っていた尚衡だったが、このところは屋敷を空けることも増えた。しかしこの頃には茜も侍女たちと打ち解け、居心地の悪さを感じることもなかった。
そして一月ほど経った頃、珊瑚が昼過ぎの屋敷を訪ねてきた。
この日は近頃には珍しく尚衡が在宅で、珊瑚は義兄に挨拶したあと、無聊の慰めに筝を奏でていた離れの茜にも顔を見せに来てくれた。居候ではなく身内に対するような待遇だが、侍女や家人、珊瑚までもそれが当然という顔をしている。
少ない調度ながら小奇麗に整えられた離れの一間で、他人同士の女二人向かい合う。
「お久しぶりです仁乃様。先日はその、見苦しいところをお見せしました」
「こちらこそ、偉そうな口を利いてしまって申し訳ございません」
そう頭を下げる珊瑚の目に、もう刺々しさはなかった。代わりに、もっとあたたかなものが満ちている。
「あのあと、兄上様も父を説得してくださって、泉太郎様との婚姻が無事決まりました。まあ、父には『順序が違う』と怒られましたけど。姉様の喪も明けましたし、再来月には祝言を挙げる予定です」
そうはにかむ珊瑚の腹はまだ薄いままだが、遠からず、日々膨らむ愛しい曲線を描くことだろう。
「姉様は亡くなられましたけど、兄上様は瀬名家の次期当主ですから、そのまま兄上様とお呼びするつもりです。仁乃様とも、今後は義理の姉妹としてお付き合いできればと思います」
尚衡への淡い思慕を払拭して君連を生涯の伴侶と定めた珊瑚は、おそらく今の笑顔が素の、元来人懐こい性格なのだ。茜もまた、珊瑚を姉のようにも妹のようにも思っていたから、親しくなれることは嬉しいけれど、その台詞には苦笑いするしかなかった。
「わたくしも、これを機に弟姫様と仲良くなれればと思いますが、わたくしは太守様の側室です。今はこちらにお世話になっていますけれど、太守様のご勘気が解ければ、いずれ奥殿に戻りますから」
笑顔で躱そうとする茜に、珊瑚は怪訝に首を傾げる。
「奥殿に戻ってどうされるんですか? 前太守様はもう城にいらっしゃらないのに」
「……どういうことです」
思いがけない言葉に、知らず、返す声が曇る。茜の反応をさして重視していないのか、珊瑚はするすると説明した。
「つい先頃、前太守様が重臣たちによって廃されて、同腹の弟君、泉太郎様の御館様が七州国主の座に就いたんです。と言ってもまだ、これから朝廷に勅許をお願い申し上げる段階ですけれども」
珊瑚も、君連との結婚を許されて初めて知ったことだと言うが、二人の結びつきは、四年前はともかく今は、長兄の尚衡を末弟の陣営へ引き込む意図が強いものであったらしい。それもあって、瀬名氏は妹姫の縁談を解消しようとしたのだ。だが跡継ぎの尚衡に説得され、七尾以外の国を軽んじる宗主を見限ることを決めた。
その結果、中立だった家臣たちも弟君に傾き、大きな戦もなく、彰衡は鷦鷯城を追い払われたという。
茜も、君連の台詞等から、彰衡の施政を快く思わない者がいることは理解していた。けれどもまさか、あの傲慢な彰衡がこれほど呆気なく陥落してしまうとは。しかしそう考えると、一月前の夜の君連や尚衡の反応に合点がいく。
珊瑚がいなければ思いきり声をあげていたところだ。茜が珊瑚と君連を、延いては尚衡と夏目氏、彼が擁する末弟を結び付けなければ、少なくともこれほど早く彰衡の失脚はなかった。
何も知らず、父に夫に言われるがまま唯々諾々と、異母姉の代わりに輿入れして側室の座を追われればよかったのだ。何も知らないくせに珍しく我を通そうとしたから、こんな取り返しのつかないことになってしまった。
「……では、今はどちらにいらっしゃるの。まさかもう」
「いえ、今はまだ、国内の
「まさか」の先を正確に読み取り、珊瑚は彰衡の無事を保障する。だがそれもいつまで続くか判らない。
「その寺はどこにあるのですか」
「確か、一宮下社近くの山裾と聞きましたけど」
「ではその下社は」
珊瑚が怪しむほど詳細に寺の所在を問い詰め、その後は他愛ない会話を交わし、茜は珊瑚の退去を見送る。
そして、すっと立ち上がった。
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