二.同年 寒蝉鳴(ひぐらしなく)

 それから更に、無為の日々を何度重ねた頃か、変化は思いがけずやって来た。


 障子を開け放った部屋の中、侍女が朝餉の膳を整える様子をぼんやりと見ていた茜の耳が、近づいてくる足音を拾う。


 最初は、別の侍女が棚に活ける花を持ってきたのかと思ったが、足運びが常とは違う。歩幅が広く、堂々とした足取りだ。


 ……これと似た音を、ずっと昔、聞いたことはなかったか。


 侍女が給仕の手を止め、部屋の隅に控えてひれ伏す。間髪入れず、足音の主は濡縁に現れ、断りもなく入ってきた。


 予想だにしていなかった訪いに、茜は礼をとることも忘れ、ぽかんとその者の顔を見上げる。


「若君様……?」


 語尾が不安げに揺れたのは、確信が持てなかったからだ。


 男子三日会わざれば刮目して見よ、とは誰の言葉で、本来はどういう意味の故事だったか。その一分の隙もない立ち姿は、今までの何より強く、茜に七年の歳月を実感させた。


 茜の呼びかけに蔑みを隠そうともしない眼差しを向ける顔は、少年の名残であった頬のやわらかさが削げ、顎の線がくっきりと浮かび上がっている。過不足なく鍛えられた均整のとれた体躯、その全身に漲る力強さ。何しろ七年前に一夜を共にしたきり、残る面影すら茜にはひどく曖昧で、それが声の震えに現れてしまう。


 七年越しに側室を訪ねた彰衡は、「久方ぶりだな」などと前口上を述べることもなく、単刀直入に切り出す。


「明日、一宮上社に流鏑馬神事を奉納する。共について参れ」


 声にも深みが増した。低いけれどもよく通る、揺るぎない声だ。


 茜の返答を待たず、彰衡は濡縁を戻っていく。茜の代わりに、侍女が委細承知したと言うようにいっそう深く平伏した。


 去る足音が届かなくなる頃合いを計り、侍女が朝餉の仕度を再開する。その慣れた手つきは何事もなかったかのようで、「では」と一礼して立ち去った。


 茜一人が残された室内に、庭先から風が入る。濡縁から差し込む陽光、盛夏の頃よりも風情のある蝉時雨、主屋の屋根の向こう、綿を丸めたようにはっきりと形を持つ雲。すべてがいつもどおりで、あの僅かな訪いこそがまるで夢幻、嘘のようだ。


 季節の菜や魚の載る膳を前に、茜は箸もとらずに呆然とする。結局、一事が万事上の空のまま、日常にささやかな綻びを生じさせた一日は終わった。


 そして明くる日、木漏れ日の落ちる庭に小さな輿が迎えに来て、花菱小紋の小袖に千鳥の舞う腰巻を巻いた茜を曲輪から、城から運び出した。


 もとより華奢な体格ため、窮屈さは感じない。前後を馬の闊歩する音に挟まれながら大人しく揺られ、初秋の城下を離れる。物詣では女人の娯楽のひとつだが、城どころか、別棟から外出するのもこれが初めてだと、今更のように思った。


 物見窓を開け、茜は七年ぶりの外界に目を向ける。が、馴染みのないせいか、まだ青く繁る田畑やぽつぽつと建つ小屋の長閑な眺めにも、感慨を得られるものはなかった。愁いが白皙の頬に淑やかに影を差す。それを僅かに慰めるように、路傍にささやかな茜蔓アカネの花が揺れていた。


 やがて辿り着いた七尾国一宮上社は、小川に架かる橋を渡った先の巨大な一の鳥居からでは全容が窺えないほど、深い森の中に厳かに佇んでいた。


 各国の一宮は、原則として上社下社に別れており、それぞれに日宮月宮の分霊を勧請している。祭祀の際には、上社には流鏑馬を、下社には巫女舞を奉納するのが慣わしだと、これも異母姉からの受け売りだった。


 ただ、今の時期、疫病を退けるには遅く、豊穣を祝うには早い。祭祀というよりも、青砥家の個人的な参詣なのだろう。


 輿に乗ったまま一の鳥居をくぐり、砂利を踏み締める音がしばし続いて、二の鳥居から垣を巡らせた拝殿に辿り着く。茜は腰巻を解いて被き、同行していた侍女の手を借りて輿から降りた。被衣から覗いた横顔の優美さに、息を呑む密やかなざわめきが起こり、気後れしてしまう。


 はしたなく周囲を見渡すことはできないが、参列者は若君と茜を含めて二十名余りといったところか。


 寄せの太鼓が打ち鳴らされた。一の鳥居で馬を預けた者たちと共に茜も拝殿に上がり、神事の前の祈祷を片隅で受ける。後列から改めて見ると、居並ぶ武者たちは皆歳若く、三十路にも届いていないだろうと思われた。祭壇には、鏑矢だけでなく大きな酒樽や色鮮やかな反物なども奉献されている。


 祝詞奏上を終えると、若君と側室は一行と離れ、参道の隣、木々の並びを挟んで整えられた馬場の四阿あずまやに案内された。馬溜の脇に設えられた席からは、一の的から三の的まで走路が一望できる。


 奉行や射手、諸役が式次第を執り行い、馬場本へ行進し、素馳すはせをする間も、隣に座す彰衡は一度も茜に声をかけなかった。視線すら向けず、木々や野鳥と相席しているかのような無関心だ。勿論、茜のほうから話しかけられるはずもない。


 だからこそ、茜は努めて目の前の神事に意識を傾ける。


 流鏑馬は早駆けの馬上から矢を放つ騎射で、かつては実戦訓練を兼ねた神事でもあったが、一騎打ちから集団戦への変遷、足軽兵や鉄砲の登場に伴い、儀礼としての性格のみが残った。


 一見、馬上の弓道だが、両者を混同していると痛い目を見る。まず的との距離がまるで違うし、一の的に矢を放ったあと、ゆったりと残心をしていては二の的の矢番えが間に合わない。


 それ以前に、馬を速歩はやあし駈歩かけあしで走らせながら両手を手綱から離すこと自体、難易度が高いのだ。的を射抜いても馬が速すぎて次の的は素通りしてしまったり、離れの反動で体勢を崩しかけたりすることも多々ある。


 だから。


 疾走する黒馬を完全に御し、完璧な体幹を保って三つの的すべてを命中させた射手の一連の動作は、鮮やかに茜の目に焼きついた。恵まれた体格、精悍な顔つき。息を乱した様子もない。


 射手は各々三回、九本の矢を放つが、その者は三度すべて、非の打ち所のない理想的な騎射を披露してみせた。


 止めの太鼓が蒼天に鳴り響く。参加者たちは凱旋の儀を終え、改めて若君の前に拝謁した。


「大儀であった。御子柴みこしば


 彰衡は奉行の射手を一人ひとり呼び、通り一遍ではなく、それぞれの働きをよく見た上での労いの言葉をかける。茜が一度も見たことのないその笑顔は、屈託なく、気さくそうに見えた。そして、いつの間にか祭壇から下ろされた神酒や反物を褒賞として授ける。


瀬名せな殿」


 最後にそう呼ばれて進み出たのが、あの、茜の目を釘づけにした射手だった。歳の頃は二十代後半か、騎乗していたときより背が高く感じられる。


 膝をつき一礼した瀬名に、彰衡はいっそう楽しげに破顔した。


「さすがは兄上、腕は衰えておりませぬな」

「勿体ないお言葉にございます」


 その遣り取りに、座したまま無言で控えていた茜は、背中を不意に押されたような驚愕を覚えた。


(兄上?)


 面差しは、それほど似てはいない。勇ましい若武者に成長したと思えた彰衡が、彼と比べると細身に思えてしまう。けれどもやはり国主の一族のためか、荒削りの中にも確かな品格を漂わせていた。


 瀬名氏を名乗る兄と、若君である弟。つまり、彼は庶兄で他家に養子に入り、正室を母に持つ弟が嫡男となったのだろう。思えば、青砥家の家族構成など、気にかけたことも紹介されたこともなかった。ほかにも弟妹はいるのだろうか。


 などと明後日の方向のことを考えていたから、反応が遅れた。


「やはり思ったとおり、兄上が一番だ。お受け取り下さい」


 突如彰衡に腕を掴まれ、茜は強制的に立たされた。かと思ったら雑に放られ、蹈鞴を踏んで四阿の外によろめき出る。辛くも踏みとどまり、瀬名の腕に縋りつくような無様は晒さずに済んだ。


「太守様、いったい何を」


 動揺の声を頭上に浴び、図らずも茜も、声の主と共に彰衡を振り返る。二対の視線を受けた彰衡は、切り捨てるように言い放った。


「その者は兄上に差し上げます。如何様にもなさってください」

「な……」


 茜は絶句する。背を押されたどころではない、脳天を揺さぶられたような衝撃だった。まさか自分自身が撤下品となるとは。


 瀬名も驚きのあまり、瞠目するばかりで言葉が出てこない。その二人の様子に、彰衡は低く笑った。


「確か先だって細君が身罷られたとか。丁度よいではありませぬか」


 配慮をどこに置き忘れてきた、と言いたくなるような不躾な物言いだった。さすがに瀬名の顔が強張る。


 しかしそれを気に留める様子もなく、彰衡は「神事は終わりだ。帰って宴とするぞ」と四阿を後にしようとする。慌てて茜は追い縋るように口を開いた。


「お待ちください、若君様! わたくしは徳永家から青砥家に嫁いだのです、それを、」


 庶兄とは言え、青砥家を出た者に下されては輿入れした意義がなくなる。しかし茜がすべて言い終えるのを待たず、軽く振り返った彰衡は冷淡に吐き捨てた。


「徳永家などもうない。だからおまえも、必要ない」

「……は?」


 本当に、心の臓が止まるかと思った。気を失わなかったのが不思議なほどだ。


(……もう、ない?)


 その意味を必死に求め、同時に理解することを頭が拒む。そのせめぎ合いで硬直した茜に、彰衡は不快げに鼻を鳴らした。


「それと、誰が若君だ、無礼者が」


 茜には謎の一言を残し、彰衡は小姓たちを連れて本当に去って行ってしまう。ほかの参列者たちも主君を追うように引き上げ、馬場には瀬名と茜と、諸役の一人、おそらくは瀬名の小姓だけが取り残された。


 気まずい沈黙が場に満ちる。視線を交わすことすらためらわれるような心地だ。


 ややあって、口火を切ったのは瀬名だった。


「……嘘姫うそひめ殿。申し訳ないが、この上は一度、我が屋敷に来てはいただけまいか」

「え……?」


 城の侍女たちにはただ「御方様」と呼ばれていた。直接呼びかけられたことはないものの今となっては懐かしい生国での綽名に、家臣たちにはそう呼ばれているのか、と茜は的外れなことを思いつつ、続く言葉を受け止めるために瀬名の顔を振り仰ぐ。彼と並ぶと、女人としては中背の茜が殊更小柄に見える。


「太守様は一度決められたことは曲げられぬ御方。今、中曲輪に送り届けたところで門前払いされかねません。折を見て帰参を願い出るゆえ、今は何卒」

「……わかりました」


 真摯に言い募る声に、茜は是と頷いた。頷くほかなかった。それほど、瀬名の語る弟君の性格には説得力があった。


 流鏑馬で人馬一体となって駆けた黒馬の鞍に茜が横乗りに座り、その後ろに乗った瀬名が手綱を取り、小姓が自身の馬でその後に続く。往路で乗せられた輿も供をした侍女も既に引き払われており、彰衡は初めから家臣に下げ渡すつもりで茜を連れて来たのだと思い知った。


 馬は間近で見ると、褐色の混じった青鹿毛ではなく正真正銘の青毛、星や斑もない。確か東の七州は黒駒の産地であったか。「綾無あやなし」という名も納得だった。


 一宮の森から田園、城下町へと道を遡り、辿り着いたのは鷦鷯南城の西曲輪。堀を渡って虎口を抜けると、大小の屋敷が左右に町並みを形成している。


 その南東に、瀬名氏の屋敷はあった。門を潜ると下男下女が呼ばれ、それぞれ瀬名と茜と綾無の世話に取り掛かる。


 鷦鷯城は山中に築かれた要害の北城きたじょうと平地に建てられた御殿の南城に分かれていて、皆原城の構造と似ている。但し皆原城と違い盆地に建つ城だから、冬はより寒く夏はより暑い。湯を借りて身を清めると、晴天の下で着ていた花菱の小袖に再度腕を通すことがためらわれるが、替えの衣もないので仕方がない。


 それでも質素な離れの間でようやく一息つくと、先触れがあり、ややあって狩装束から小袖袴へと装いを改めた瀬名が現れた。上座に腰を下ろし、まずは一礼する。


「名乗りが遅れて申し訳ない。六州加賀見かがみ、瀬名由利太郎尚衡ゆりたろうなおひらと申す」

「徳永家二の娘、茜にございます」


 互いに名乗り合い、通う言葉が絶える。その沈黙を、何を質問しても構わないという許しと受け取り、茜は問うた。


「あの、先程、若君に『兄上』と呼ばれていらっしゃいましたが」


 尚衡は怪訝に眉をひそめ、鷹揚に頷いた。


「私も前国主を父に持つのだ。だが母の身分が低いゆえ、男児に恵まれなかった瀬名家に婿養子という形で入った。だからここは、瀬名家の屋敷ではなく青砥家の者としての私の屋敷だ」


 ではその瀬名家の嫡女が、先日儚くなった細君ということだろう。しかしそれより。


「その、前国主と仰るのは」

「我が父は四年前に亡くなられた。今の七州太守、鷦鷯城の主は、私の弟でありあなたの夫だ」

「……え?」


 突然の宣告に、茜は言葉を失う。その動揺を見透かし、尚衡は確認のように問い返してきた。


「……何も聞かされてはいないのか。前国主の逝去も、代替わりも。……八州の情勢も」

「はい……」


 頷く声は力なく潰える。兄弟の不可解な反応の理由が、ようやく理解できた。


 七年間。別棟に閉じ込められた茜は何の変化もない日々を送っていた。しかしその実、茜だけを置き去りに、周囲はめまぐるしい変容を遂げていたのだ。七年というのは、それほどの歳月であった。


 それは嫁いだ七尾国だけではなく、故郷の八鍬国においても。


「……徳永家はもうない、というのは」


 ようよう絞り出した問いに応じる声もまた、苦しげであった。告げる事実のあまりの惨さゆえに。


「……昨年、徳永家当主が亡くなり、跡継ぎが定まらずにいた隙を衝かれたのだ。夏、九州と結んだ川平家に攻められ、皆原城は落城、徳永家は滅亡した」

(父様が……)


 父が亡くなった。茜の与り知らないうちに。


 正室の産んだ嫡男、腹違いの兄は、茜が産まれた頃に夭折し、別々の側室が産んだ同じ歳の庶子だけが残された。しかし争いを危ぶんでか、或いは正室が今一度男児をあげることを期待してか、父はなかなか惣領を定めなかった。


 そうこうしているうちに、正室は京の実家に戻ってしまい、彼女を送り返す代わりに妾腹の若い娘を継室として寄越してきた。……のだが、父より先に茜の同腹の兄が、彼女を妻としてしまったのである。


 その暴挙に、異母兄の周囲は色めきたった。しかし父は同母兄を咎めず、どころか異母兄も手頃な公家の姫君と娶わせ、共に下城の西曲輪に屋敷を与えた。


 だから、茜が城を出たときには、国主正室の座は空白、跡継ぎの件も宙に浮いたままだったのだ。


 そしてそれらが正されないまま、父も城も、おそらくは兄たちも、永遠に喪われてしまった。


「……辛うじて、あなたの御母堂、照曜院しょうよういん殿は無事と聞いている」


 唯一の救いのようにもたらされた報せに安堵する一方で、川平の縁者でもある異母妹の安否にまで気が回らないほど、茜の心は千々に乱れていた。


 徳永は国の西、川平は国の東に本拠を置いているから、川平家が九重国と結べば、徳永家は挟み撃ちされる形になる。


 かつて川平家を追い落とし、国主に成り上がった徳永家。だからこれは、ある意味因果応報なのだろう。


 それでも。


「青砥家は、徳永のために兵を出してはくださらなかったということでしょうか」

「…………」


 川平家が九重国と組んだとしても、青砥家の支援が得られれば、徳永家とてそう容易く陥落しなかったはずだ。しかし返って来た沈黙が無情な事実を物語っていた。


 そう、たとえば川平家と九重国が揃って七尾国に同盟を持ちかければ、所望した一の姫を献上できなかった徳永家など用なしになってしまうのである。


「……わたくしはこの七年、南城中曲輪の片隅の別棟と庭先しか知りません。もし徳永家の凶事がなければ、この先もずっと、そこに捨て置かれていたことでしょう」


 だが実家の後ろ盾を失ったことでそこからも捨てられた。主屋の静けさも当然のこと、あの一角には既に茜しか暮らしていなかったのだ。


 茜の住まいの見当がつくのか、尚衡は慰めのように言った。


「ああ、まあ、そこは、若君の屋敷ではあるが、奥殿の範疇でもあるから。今の若様が元服されるまでは、城主の側室が暮らしていても問題はない。……むしろ、」


 僅かに言い澱み、それでも尚衡は一息に言葉を続ける。


「若君の元服までは、あそこは奥殿を通らず常座所つねのざしょから出向ける立地ゆえ、格別寵の篤い側室を住まわせておくことの多い場所だったと聞いている」

「……取り決めどおり、姉様が輿入れなされば、或いはそうなったかもしれませんね」


 茜は自虐する。尚衡の言は、彰衡にとって茜は徹頭徹尾「徳永家の姫」という価値しかなかったということを知らしめただけだった。


 茜は口を噤んで俯いた。質問の幕引きという意図を正確に汲み取り、尚衡は過去語りではなく今後の話を持ち出す。


「……先程申し上げたとおり、太守様のご機嫌麗しいときにお考え直しいただけるよう話を持ち出すまでは、嘘姫殿にはこちらに逗留していただきたい」


 中曲輪は、垣を隔てて西曲輪のすぐ隣、まさに目と鼻の先だ。だが今の茜にとっては、海の向こうの大陸より遥かに遠い。


「だが私も、神事を終えたらすぐ六州に戻る予定だったゆえ、今この屋敷には最低限の者しかいない。家人や侍女たちを幾人か呼び寄せるが、数日は不便を堪えてくれまいか」

「いえ、そこまでお気遣いいただかなくても大丈夫です」

「私にとっても、あなたは未だ太守様の側室だ。無礼があっては申し訳が立たない」


 慌てて辞退を申し出る茜に、尚衡も譲らない。そして押しの弱い茜は、こういう場面でだいたい押し負ける。


 しばらくは尚衡も七州に留まると言った。幸い義父が健在で、しばし六州を離れても、領内も城内も問題ないとのことだった。


「それと、……あなたのことは、なんとお呼びすればよいだろうか」


 彼らの言う「うそひめ」が、小鳥の鷽ではなく偽りの嘘であろうことは、この短時間に茜にも察しがついていた。一の姫の偽者、嘘つきの姫。先程はほかに呼びようがなかったのだろうが、さすがに当人に陰口のような綽名で呼びかけるのは気が引けるらしい。


 その気遣いが嬉しく、だが今更「御方様」と呼ばれるのも居心地が悪い気がして、茜はかつての通称を口にした。


「……では、仁乃、とお呼びください」

「それは……二の姫だから、か?」

「はい……」


 耳慣れた呼び名なのに、改めて由来を尋ねられると、短絡的に思えてしまう。折れそうに細い首に羞恥の朱が差す様子に、慌てて尚衡は言い繕った。


「いや、判りやすく、女人らしいやわらかさのある佳い名だ」


 快活に笑うと、馬上で矢を放った瞬間の覇気は鳴りを潜め、代わりに親しみやすさが滲む。


「私のことも、瀬名でも由利でも、好きに呼んでくれればいい。……では、私も一応、中曲輪に顔を出して、太守様の様子を窺ってくる」


 言いながら尚衡は立ち上がり、退室しようとする。だがその前に、もう二言三言残していった。


「必要があれば、屋敷の者を好きに呼びつけてくれて構わない。逆にそれまでは、離れを訪ねないよう言いつけておく。気を張らずに過ごされよ」


 襖が閉まり、再び一人になると、胸の奥からせり上げてくるものがあった。


 堪えきれずに眦から溢れ、これを気遣って人払いしてくれたのだと思い至る。


 七年間過ごした別棟よりも小さな部屋で、茜は父を、城を国を思い、静かに泣いた。

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