二.壬午年 涼風至(すずかぜいたる)

 その日衣桁に架けられていた打掛は、表地が白、裏地が標色の辻が花染めだった。花薄と呼ばれる重ね色目の組み合わせだと、博識だった異母姉がかつて教えてくれた。


(……では)

 茜ははっと思い至り、小袖に覆われた伏籠の下の香炉からくゆる香を聞く。扇面文様の小袖には、さわやかな夏の香ではなく、ゆかしい秋の香が焚き染められていた。


「もう秋なのね……」


 思わずこぼれた呟きを聞く者は、いない。


 まだまだ陽射しは眩しく、青く突き抜けるような空には入道雲が浮かび、庭の緑も蝉の声も盛んではあるけれど、暦の上では秋を迎えたのだ。


 不意に、笑ってしまいそうな、或いは泣きたいような気持ちが込み上げてくる。


 三月前、春から夏に切り替わったときも同じようなことを思った。もう夏なのか、もう嫁いでから七年も経ったのか、と。……そのときから何ひとつ為さないまま、また季節が移り変わってしまうとは。


 いや、それも今に始まったことではない。国主の嫡男、若君の側室となり、中曲輪の北西、若君が住まう殿舎の後方の別棟に部屋を宛がわれた。七年前のそのときから、季節が幾度巡ろうと、茜の時間は止まっているようなものだ。


 初夜以降、茜が夫の寝所に呼ばれることはなかった。若君が別棟を訪ねて来ることもない。正室やその子女は別棟ではなく主屋に部屋を与えられているのか、彼女らに目通りすることはおろか、姿を見かけたこと、声を聞いたことすらない。


 別棟に住まう側室は茜一人。八鍬国からついてきた三人の侍女は、国衆や家臣たちへの嫁入りという名目で、茜の輿入れから間もなく城を出されてしまった。勿論、代わりの侍女たちが遣わされたが、少なくとも茜の前では粛々と業務をこなすのみで、打ち解けた会話をした記憶はついぞない。


 食事は朝夕きちんと運ばれ、衣装や調度も四季折々のものを揃えてくれて、ささやかな坪庭も見栄えを損なわないよう手入れされている。……けれども、それだけだ。誰かと食事を共にしたり、歌合わせや貝合わせに興じたり、笑いさざめく華やぎは、この別棟には無縁のものだった。手すさびに筝の琴を爪弾いてみても、聴くのは庭の虫ばかり。主屋の賑わいさえ届くことはない。


 実家や嫁いだ侍女たちとの文の遣り取りもそれとなく咎められ、今や夫だけが茜と外界を結ぶ微かな糸。だが、それもとうに先方から断ち切られてしまったか。


 辛うじて、調度の入れ替わりや庭の眺めで季節の移ろいは感じられる。だが毎年同じことの繰り返しで、ともすると己の歳すら判らなくなりそうだ。


 何も変わらない。ただ季節のひと巡りごとに齢だけが降り積もってゆく。


 そうして今日も、明日も、一年後も十年後も、茜が力尽きるその日まで、昨日と同じ日が続いていくのだろう。

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