弐.華燭の茜

一.乙亥年 蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)

(……私は桜。徳永家一の姫。正室腹の一人娘。羽衣姫)


 閉ざされた寝所には闇が色濃く、燭台の小さな灯りはいかにも心許ない。訪い人を待つ間、彼女は闇と共に白単衣の肩に圧し掛かる重責に耐えるべく、長い睫毛を伏せ、一心にその名を胸中で唱え続けていた。


(私は桜。市姫。於市の方。――――あかねでは、ない)


 灯火よりも頼りない心地で繰り返し己に言い聞かせ、それを幾度重ねた頃か。襖の向こうに人の気配を感じ、間髪入れずに襖戸が大きく開かれた。と同時に、桜――――を名乗る茜は手をついて平伏する。そのため、訪い人の顔は見えなかった。


 襖戸が閉められ、床が軋み、訪い人の気配が褥の脇に額づく茜に近づいてくる。近づいて、素通りし、褥の上に腰を下ろす音を、下を向いたままの耳で捉えた。


(え……?)


 丁寧に梳られた黒髪を括り腹を括った茜の存在をまるっきり無視した訪い人は、そこから微動だにせず、一言も発しない。だが視線だけは後頭部に痛いほどに感じる。虫の音も遠い静寂の中に二人きり、許しが出るまで顔を上げられない茜は、動揺しながらも平伏し続けるほかなかった。


 だが幸い、茜が重責だけでなく動揺にも押し潰されてしまう前に、喉の奥で低く笑う声が聞こえた。衣擦れの音と共に再び気配が近づき、耳に冷笑混じりの声が吹き込まれる。


「――――顔を上げよ」

「……っ」


 思いがけない近さに、茜は身を引きながら頭を上げる。闇も隔てられないほどすぐ傍らに、立膝をついた訪い人の若々しい顔があった。


 訪い人、即ちこの寝所、殿舎の主であり、いずれこの城と国の主となる彼は、数えで齢十六だったか。桜にはひとつ歳下だが、茜にはひとつ歳上だ。いずれにせよ、少年と青年の狭間、瑞々しさと凛々しさを矛盾なく兼ね備えた顔つき身体つきをしていた。


 そして茜、いや桜は、彼の側室となるべく、国境を越えて嫁いできたのだ。


「あ……」


 何もかもが生国で乳母や年嵩の侍女から聞かされていた流れと異なり、気が動転した茜は意味を成さない呟きを漏らす。が、すぐに無礼と思い直し、再び手をつき頭を垂れて、清純な面立ちを損なわないようごく薄く紅を刷いた唇を開いた。


「お待ち申しておりました。徳永家当主が一の娘、桜」

「桜、と名乗るよう吹き込まれてやってきた二の姫、だろう?」


 二人の「桜」の一言は、完璧に重なって寝所に響き、そして消えた。


「!」


 今宵一番の驚愕に、茜は言葉を失い頭を跳ね上げる。礼儀も慣習も忘れ、これより夫となる、青砥家若君、那岐次郎彰衡なぎじろうあきひらの顔をまじまじと凝視した。


 この城で、彼と顔を合わせたのはこれが初めてではない。二日前、ここ鷦鷯南城さざきみなみじょうに輿入れをしたその日のうちに、彼の父親である七尾国主に挨拶を述べ、そこに彰衡も同席していた。本殿でも茜は桜として振る舞い、誰にも疑いの目を向けられることはなかった。むしろ、「さすがは八鍬国に名高い一の姫」「噂に違わぬ、炎燿かがやくばかりの美しさ」「眼差しひとつで心を攫う」などと称賛の言葉しか聞こえず、面映い思いをしたくらいだ。


 しかし思い返せば、顔合わせの席で彰衡の声を聞いた記憶はなかった。今の今まで気にも留めていなかったが、無言の下で、彼は茜の、延いては徳永家の欺瞞を看破していたのか。


 本当に、一切合切が思い描いていたように運ばない。正体を暴かれた際の対処など考えてもいなかったし、誰も教えてくれなかった。


 茜の素性を見破った彰衡は無表情に、睫毛に縁取られた双眸を見返す。一切の感情を削ぎ落とした声が簡潔に詰問した。


「一の姫はどうした」

「わたくしは、」

「つまらぬ嘘を重ねるな。一の姫はどうした、と訊いている」


 当惑する頭で、それでも茜は自らこそが一の姫だと取り繕おうとした。が、その浅ましい足掻きをも見抜き、彰衡は声も顔も荒げないまま、しかし厳しく問い詰めてくる。見据える眼差しは、二度目の偽りは許されないと痛感するほどに鋭い。


「……姉様は、――――亡くなりました」


 観念し、茜は喘ぐように事の真相を白状する。向かい合う彰衡の眉根が微かに動いた。


「亡くなった?」

「はい。……あまりにも、急に」

「……そうか」


 この時代、いや、平穏な世であっても、意外と死は身近なもの。いつ、何故、と重ねて問われないことに、腿の上に手を揃えながら、茜は密かに安堵していた。


 異母姉の死の詳細を問われても、茜には答えられない。同じ二の曲輪に暮らし、交流はあったものの、母が違うから殿舎は違った。ある日突然、一の姫が川に流され亡くなったと聞いたと思ったら、実は生きていて城下に戻ってきていると言われ、混乱を整理する間もなくやはり亡くなった、いや出奔した、と次々に情報が錯綜し、もはやどれが真実なのか、奥殿に暮らす茜には判別のしようがなかった。


 ただ、八鍬国主である父は、一の姫は亡くなった、但しそのことは城外には伏せ、間近に迫っていた七尾国への輿入れは二の姫を一の姫として向かわせる、と結論づけた。


 その日から、茜は茜ではなくなったのだ。


 ……だから、まさかこれほどすぐに、茜に戻る日が来るとは夢にも思わなかった。


 京の血を引き、教養深く誇り高い臈長けた異母姉。茜も、「姿形だけでなく声までも愛らしい」と、「鷽姫うそひめ」などと称されてもいたが、所詮空を羽ばたく小さな鷽では、天にまで届く輝かしい羽衣に成り代わることなど無理だったのだ。


 一国衆に過ぎなかった徳永家が八鍬国の国主となったのは先々代の頃。当時の国主・川平かわひら家の後継者争いを利用し、強国の青砥家と誼を通じることでその地位を簒奪したのだ。この時代、珍しい謀略ではない。


 しかし国主とは名ばかり、結局のところは主君が川平家から青砥家に変わっただけのこと。内陸国の七尾にとって重要なのは、海運に加え豊かな耕地を持つ沿岸国と、青砥家に従順な国主だ。逆らえば容易くその首は挿げ替えられるだろう。良くて失脚、悪ければ侵攻もあり得る。


「一の姫は亡くなった。だが体裁や血筋を考慮して、二の姫を二の姫としてではなく、一の姫の身代わりに仕立て上げ嫁がせようと目論んだということか」

「……仰せのとおりにございます」


 か細い声で、茜は彰衡の推論に頷く。小鳥の囀りのよう、と讃えられた声は、闇の中で無様なほどに掠れていた。


 それでも、徳永家の安寧のため、これだけは言っておかなければならない。


「偽りの浅慮と非礼は重々お詫び申し上げます。ですが、側室を母に持つ身なれど、わたくしもれっきとした徳永家の娘。わたくしの身を以って、青砥家への変わらぬ忠心の証と認めてはいただけませぬか」

「…………」


 茜は再び深く平伏した。その薄い肩を、彰衡は無言で見下ろす。


 先程よりも緊張した沈黙が流れ、浅い溜め息がそれを破る。


「……一の姫が亡くなった以上、詮なきことだ。おまえを追い返したり徳永を攻めたりはしない、但し二の姫として遇し、それを城内外にも明らかとする。それでよいか」

「はい……」

「ならば顔を上げよ」


 徳永家の処遇さえ保障されれば、茜に否を言う権限は存在しなかった。


 胸を撫で下ろして命令どおりに顔を起こし、改めて、目の前の夫……男の目に射抜かれる。


 肩に衝撃を覚え、ぐらりと世界が傾ぐ。


 ……違う。押され、傾ぎ、倒れたのは茜自身だ。


 整えられた褥に転がされ、反応する間もなく、灯火がほのかに照らす闇よりなお濃い影が覆いかぶさってきた。



 ――――そのあとのことは、あまり思い出したくない。

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