五.同年 霜止苗出②

 星が出ている。


 それを蟄居中の屋敷から眺め、朝景は目を細める。


 国東家の拝領屋敷での滞在は許されたものの、外出は制限されている。そして遠からず此度の一件に対する処罰が決まるだろう。――――女主人とまみえることもないままに。


 自分は間違っていない。一の姫の乳兄弟としても、徳永家の家臣としても、あれが正しい選択だったはずだ。なのに。


 ――――裏切ったのか……?


 愕然と呟いた女主人の顔と声が忘れられない。


 確かに、彼女から見ればそうかもしれない。諌めきれず半端に付き合ってしまった自分の愚行も自覚しているし、後悔もしている。


 けれどやはり間違っていたのは彼女のほうなのだ。それが正され、家名を背負って輿入れする。それこそがあるべき姿なのだから。


 そうと理解しているのに、こんなにも胸の締め付けられる思いがするのは、……きっと、脳裏に焼きついた、今にも泣き出しそうなその顔と声のせい。


 女主人は裏切りを責めなかった。それどころか自分を庇おうとさえした。それが、ひどく痛い。


 だが、罪悪感とはまた微妙に異なるその痛みひとつですべてが正されるのであれば、なんということはない。


 それに、どんな処分が下されようと、この国を出ることを朝景は密かに決めていた。有り金すべてを抱えて山の民を訪ね、九重国で失った双子たちの行方を追ってもらう。なんなら自分もそのまま山の民になってもいい。彼らの多くは、元は敗残兵だったり逃散した農民だったりと、憂世からこぼれ落ちた者たちの集まりだ。


 瞼を伏せ、緩く息を吐く。そして呟く。


「……だから、これでいい」

「――――本当に?」

「!」


 いきなり縁の下から投げつけられた声に、思わず呼吸の仕方を間違える。噎せる朝景の承諾も得ず、飄々とした声の主は濡縁に上がり込んできた。


「っ、おまえ、かえで?」


 その正体に更に噎せそうになるがどうにか堪える。今まさに捜索を決心した双子の片割れが、思いがけず目の前に現れた。


 童たちの神出鬼没ぶりは重々承知しているものの、どうやってここに、と問いかけようとして、寸前で飲み込む。家人は数人いるが門に番兵は立てていないし、道中の数々を思い起こせば、この童子なら造作もない気もした。


「ばかだなおにーさん。どうして戻ってきたんだ? 小賢しいおねーさんと抜け目ないおにーさんなら、あのまま逃げられただろうに」

「ばか……」


 前触れもなく訪れ、褒めているとも貶しているとも知れない評価をずけずけ下すかえでに絶句しながらも、朝景は姿勢を正す。


「……そういうわけにもいかないだろう。市姫様は隣国へ嫁ぐ御方。そんなことをしでかせば城が滅びかねない」

「案外つまんない男だな」

「つま……」


 幼子相手とは言え飽くまで生真面目に応じた朝景は、切り捨てるようなかえでの感想にまたも言葉を失った。その隙に童子は濡縁を飛び下り、振り返り、捨て台詞にしては長い言葉を残す。


「本当なら絶対に手に入らないものが手の届くところにあったのに、あんた、自分でそれを捨てたんだな」


 外見にそぐわない冷めた眼差しを最後に、その姿は再び縁の下に消えた。


「…………」


 腰を浮かせかけた朝景は再び座り込み、しばし黙する。突きつけられた一言が、鎮めたはずの心を激しく乱した。


 遠い存在であったはずの「羽衣姫」は、裏切りが露呈するあの瞬間まで、確かに自分の隣にいた。それを手放したのは自分だ。


 それは誤りではない。自分は間違っていない。正しい。けれど――――……。


 再びの煩悶を、またも濡縁の軋む音が断ち切る。角を曲がって現れた姿に、朝景は今度こそ度肝を抜かれた。


「……市姫様!」


 叔父君の屋敷から走ってきたのか息の乱れた女主人に、朝景は言わずもがなのことを訊く。


「どうしてここに……」


 彼女も同じく謹慎中の身、丁重にお帰りいただかなければ。咄嗟にそう判断した朝景が家人を呼ぼうとするより早く、桜は膝を折って視線の高さを合わせ口を開く。


「――――透次。やはり私は、この国を出ようと思う」


 あの日と同じ宣言、強い眼差し。けれどもあの日とは目が違う。もっと揺るぎない光を宿している。


「何をまた、」

「確かにあのとき私は、側室となりたくないから京を目指すと言っていた。……だけど今は、京を目指したいから、側室にはなりたくない」


 反射的に言いかけた朝景の言葉を封じ、桜は一息に言い募る。彼女の台詞は、一見同じことのようでいて全く異なるものだった。


「私は京へ行きたい。朝廷に、後宮に仕えて、私が今まで培った教養が、この洲で最も華やかな場所でどこまで通用するのか、試してみたい」


 彼女は京に縁故があり、国内外に名高い美貌があり、何より膨大な知識に加え、胆力も行動力もある。一言で無謀と切り捨てられる挑戦ではない、のかもしれない。


「……それは結局、『徳永家の一の姫』という重責から逃げるということですか?」

「違う。逃げるのではない、捨てるのだ」


 乾いた問いかけに、やはり似ているようで違う言葉を返し、桜は小さく笑う。


「旅の途中に会った娘が言っていた。この世には『仕方がない』と諦めなければいけないものが溢れていると。……国を失った者の末路や身売りせざるを得ない女たちを見て、一回は私も諦めようと思った」


 諦めて、「一の姫」としての生涯を全うしようとした、その考えを覆したのもまた、同じ者の言葉。


「だけどこうも言っていた。自分には、それを撥ね除ける力も、背負ったもの全部捨ててしまえる強さもないから、と。――――だから私は捨てる。捨てた結果、この国がどんな悲劇を迎えようと、その罪業を背負って、私は私の行きたい道を選ぶ」


 逃げるのではなく、選ぶ。捨てて挑む。己が己らしくあるために、押しつぶされそうな後悔と罪悪感と共に生きる覚悟を決めた。


「ですが、側室になればむしろ、家や世の中のことなど考えず、好きなだけ書物に没頭できるのでは?」


 朝景の絞り出した言に、本の虫であった桜はふるふると首を振る。


「私とて、誰かを対等に愛し、愛されたい」


 それに、と続く。


「書物は翼だ。先人の叡智を伝え、自分ではない誰かの人生を追体験して、いっとき、辛い憂世を忘れられる。……だけどそれは、憂世から逃避するのではなく、憂世を生き抜く強さを得るためにあるべき力だと思う」

「……今の朝廷は往年の王朝時代とは違いますよ。市姫様が望むほどのきらびやかさは、疾うに失われている」

「それでも、だ。いや、むしろそれなら、私がかつての輝きを取り戻してみせる」


 傲慢に言ってのけ、桜は清かな星明かりの下、夜をもたらす女神の如く笑ってみせた。


「…………」


 もう駄目だ。朝景の中にはこれ以上、彼女を留められる言葉は残っていない。彼女には翼がある。飛び立つ力があることを知ってしまった「羽衣姫」を、一家臣がこの地につなぎ止められるはずもなかった。


 しかし、長い睫毛の下の双眸が不意に曇る。


「…………だが、実際に旅をしてみて解った。今の私は、あまりにも非力だ。一人では京に辿り着けるかさえも怪しい」

「……そんなこともないと思いますよ」


 朝景は苦笑混じりに桜の自虐を否定する。


 世事に疎いことは確かだ。だが彼女には人を惹きつけ、動かす才がある。始まりは一人でも、すぐに味方をつくることができるだろう。……裏切り者の乳兄弟などいなくても。


「――――私と一緒に来てはくれないか?」


 微かな衣擦れと共に、桜はそれ自体が装飾品のような爪を備えた指先を、朝景のこめかみの傷痕へと伸ばす。触れるか触れないかの接触に、朝景は声を干上がらせた。鼓動が大きく跳ねる。


「無理を言っているのは解っている。それでも私は、おまえがいい。透次」


 かつては問答無用で供を命じた声が、今は震えて懇願している。――――「本当なら絶対に手に入らないもの」が、今、再び手の届くところにある。


 僅かな沈黙ののち、朝景は頬を緩めた。


「……お立ちください、市姫様」


 桜は素直にその言葉に従う。胡坐で座した朝景を、彼女が見下ろす形になる。


 今にも砕けてしまいそうな脆い表情を晒す女主人に、朝景は片膝をつきこうべを垂れ、恭順の意を示す。


「――――どこまでもお供仕ります」


 外に秀で中に恵ある高嶺の花を見上げ、朝景は眩しげに笑う。


「あなたの美しさとさかしさには、国を捨てる価値がある」

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