三.同年 玄鳥至⑤
同じ頃、女主人に見限られてなお彼女を追ってきた朝景は、彼女が入っていった置屋に程近い宿にいた。
長身が目立つ自分が視界に入ると、意地を張った桜は逃げようとする。だから仕方なくかえでを斥候にして彼女を追わせて宿泊先を突き止め、その出入り口を見張れる立地の宿に泊まることにしたのだ。十歳そこそこの童子から目を離すのも不安ではあったが、今までの道中で双子が案外はしっこいことは判っていたし、今回も巧くやってくれた。
……勿体ない、と感じたことは事実だ。美しき「羽衣姫」は、世間よりも書物に傾倒するきらいはあるものの、教養深いことは確かだし、行動力もある。頭の回転も悪くない。側室として、城主のためにのみ存在する奥殿でその訪れをただ待つだけの身に甘んじるのは惜しいと思う。
かと言って今のままでは、いずれかの当主の正室として、また次の当主の母御として、家を臣を、民を治め率いる助けができるとも思えない。「羽衣姫」とは、天女の如き美貌を称賛するだけでなく、憂世離れした世間知らずを嘲る渾名でもあった。今や出奔まで果たし、才女を通り越して悪女と言っても過言ではない。
いったい、いつからああなってしまったのか。昔は、部屋で書物を読む朝景を桜が外に引っ張り出したものだが、父と共に諸国を巡った経験もあり、次第に朝景の関心は書物から外界へと移っていった。おかげで、逆に本の虫と化した桜の話にはついていけなくなったが、巷間の動向には敏感になったと思う。
やや逸れたが、此度のことひとつ採ってもそうだ。彼女は「徳永の姫」が嫁すれば問題ないと思っているようだが、求められているのは他国まで鳴り響くその美貌と、何より正室を母に持つ京の血筋だ。「徳永家一の姫」の進貢を厳命した以上、腹違いの二の姫三の姫では納得されるはずがない。
加えて、京のある三枝国主である久世家の勢力は、今や朝廷をも取り込んで中陸道全域に及び、更には南瀬道四国を混乱に乗じて押さえ、西浪道七国にも触手を伸ばしつつある。西国を手中に収めれば、次は間違いなく東国の掌握に乗り出してくるだろう。その際、八鍬国主の正室の娘である「徳永家一の姫」は格好の足がかりになる。
徳永家は正室出生の嫡男亡きあと、未だ跡継ぎが定まっていない。一族の者と娶わせた一の姫を掲げた久世家に、延いては西国に攻められれば、確実に徳永家は滅亡する。
そう考えると確かに、好戦的で広大な支配域を誇る青砥家に与しているのはあまり得策ではないのかもしれない。領土の安堵と引き換えに久世の傘下に下る。但しあまりに安売りすれば侮られ、不利な条件を突きつけられかねない。となると、久世家と相対する前に一度誼を通じておくべきは――――。
つらつら考えていた朝景の思考を遮ったのは、音高く開け放たれた襖戸だった。
「さく……じゃない、かえで? どこ行って」
「おにーさん、来なよ」
宿を決めたときには確かに周りをうろちょろしていたはずのかえでだったが、部屋に通され一息つく頃にはまたいなくなっていた。訊ねかけた言葉も遮り、何故か薄紅の小袖に着替え袴も脱いだ幼い連れは朝景を表に引きずり出す。
しかしそれでようやく、外で騒ぎが広まり、既に落ち着きつつあることに朝景も気づいた。どうやら、火事かと思って火元近辺の家屋ごと打ち壊したが、竈におかしなものを投げ入れて黒煙が異様に上がっただけのことだったらしい。
だがよく見れば、倒壊した家々の中心、未だ煙が薄く棚引いているのは、まさに女主人が泊まるはずだった宿ではないのか。その宿の関係者らしき男女が、迷惑を被った人だかりから顰蹙を買い、しかし負けじと喚き返している様子が窺える。
目の色を変えてそちらに駆け寄ろうとする朝景を、なおもかえでは別の場所に連れて行こうと袖を引っ張る。無論、振り払えない力ではなかったが、無言に妙な圧力を感じ、朝景は引かれるままに従った。
一言の説明もなく連れられた先は、熟れた果実のように濃密な色の夕陽が眩しく染め上げる街道。そこに、逆光を背に佇んでいたのは。
「…………於市様」
呼ぶ声から呆然と力が抜ける。一日の最後の陽光に照らされた、常になく淑やかな風情の立ち姿は、古びた小袖を纏い、頬に掠れた跡が残っていても、たとえようもないほど美しかった。
「……透次」
呼び返す桜の声にも、いつもの覇気はなく、夕映えに溶け込みそうなあえかな響きだった。彼女に縋りつく童女の無事にも安堵し、朝景は恐る恐る歩み寄る。棚引く雲が寸の間彩雲の輝きを放つ中、いつになく幽けき雰囲気を纏う玉女は、今度は逃げようとはしなかった。
「……その顔はどうしたんです」
何を言うべきか迷い、結局口をついて出たのはその一言だった。近づいて改めて見ると、やや腫れた様子が窺える。
「これは、」
言い澱んだ桜とは対照的に、かえでの小袖袴を着たさくらが自慢げに言う。
「おねーさん格好よかったんだよ。人攫い殴りつけて啖呵切って、女の人助けて」
「殴……人攫い? どういうことです!」
物騒なことこの上ない単語に、朝景はますます女主人に詰め寄る。桜はその勢いに押され、一部始終を語った。騙されて人買い宿の土蔵に閉じ込められたこと、しかしさくらとかえでの機転で逃げ出す算段を思いついたこと、そして全員ではないが無事逃げおおせたこと。
「……最初は、煙ではなく本当に火を放とうと考えた。だけど一旦火が出たらどうなるか予想がつかないし、万一宿駅全体に広がったり死者が出たりしては取り返しがつかないことになる」
そう迷っていた頭の片隅に、双子がやたらと拾い集めていた松笠のことが思い出されたらしい。火のないところに煙は立たないと言うが、裏を返せば、煙を見ただけで人々は火を連想し、火災を危ぶんで慄く。
「よくもまあ……」
感嘆しつつ、同時に朝景は目の覚める思いだった。この女主人を侮っていた。
囮を用いたりおびき寄せた隙に本拠を叩いたり、大陸の兵法書の応用とは言うものの、もとが童女の思いつきだけあって薄氷を踏むような危うい策略である。けれども我が身の不幸を嘆くばかりであった少女たちを奮起させまとめあげた手腕は、さすがに只者ではない。
書物に耽り巷間に疎い「羽衣姫」であろうと、彼女は確かに、人の上に立つ者なのだ。
「それに、かえでも。よくやったな」
日華の輝きを背負う女主人を直視し続けられず目を逸らし、朝景は影の功労者に視線を移す。だがこの童子なら不思議とこなせてしまう気もした。囮を果たしたあとは土蔵の陰に息を潜め、騒動の渦中とは言え誰にも気取られず竈から狼煙を上げ、やはり一切気付かれず逃走を果たした。
しかし当のかえでは、片割れが「おねーさん」をしきりに褒めるのに対抗意識を燃やしてか、「おにーさん」を殊更持ち上げようとする。
「それを言うならおにーさんだって、おねーさんにあれだけきついこと言われても見限らなかったんだから、
かえでの暴言に朝景は狼狽したが、遅かった。無言無表情では怒っているのか悲しんでいるのか判別がつかないが、女主人の性格的にはまず前者だろう。
「……申し訳ありません」
「いや、……ありがとう」
ひとまず詫びたが、返って来たのは感謝の微笑だった。朝景はしばし言葉を失い、そこにさくらの喚き声が被さる。
「かえで! あたしを見捨てる気? あたしだけ置いていくの……?」
最初は食ってかかる勢いだった語気が、次第に弱々しい洟声交じりになる。かえではさくらと手をつなぎ、幼いなりに真摯な眼差しでその目を覗き込んだ。
「大丈夫だ。色々考えても、結局おれはおまえを見捨てられないから」
「……本当に?」
「多分な」
「そこは嘘でも頷くところじゃないの」
「いや、むしろここは嘘をついたら駄目なところだろ」
言葉を交わすうちにいつもの調子に戻った双子を微笑ましく見遣り、桜はしなやかな首を朝景へと巡らせる。
「さて。……透次、宿はもう決めたのか? そこにまだ空きはあるか?」
尋ねる双眸には、いつも通りの毅然とした光が宿っていた。そのことをどこか嬉しく思いながら、朝景は是と頷く。
「あるでしょうが、何故」
「一晩、預からなければならない者たちがいる」
いつの間にか太陽は山の彼方に落ち、残照だけが薄く漂う。その眠りを護るべく宵の帳が世界を覆う前に、桜は共に逃げ出してきた少女たちを迎えに行った。
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