三.同年 玄鳥至④

 扉の陰から飛び出した桜が振り下ろした色の剥げた灯台は、過たず下男の頭を強打した。ほかにも鏡台や銚子、鏡などが同時に急襲し、元々ひびの入っていた琵琶に至っては勢い余って大破してしまう。


 堪らず膝をついた下男に立ち上がる隙を与えず、桜が捩った小袖を縄代わりにしてその首に巻きつけた。もう一人の少女とそれぞれ端を掴み、渾身の力で引っ張る。


 下男は首の縛めを外そうともがいたが、指先が小袖に届く前に腕の力が抜けた。気絶したのを見て取り、桜は少女に目配せして手を離す。昏倒した下男を、各々得物を手にした少女たちは肩で息をしながら見下ろした。


 襲撃は、見事成功した。


 桜をここへ閉じ込めた下男をかえでに一人おびき出させれば、彼が人を呼ぶ可能性は動揺からも責任の所在からも低かったし、扉は一枚の内開きだったから、全員がその死角に隠れることができた。


 倒れ伏した下男の節くれ立った指が小さく痙攣する。死んではいない。元より殺めるつもりはなかった。


「今のうちだ、早く外へ」


 それでも青ざめた顔をしている少女たちに、桜は素早く叱咤する。全員で転がるように蔵を出ると、素早く閂をかけ下男を閉じ込めた。奥庭の板塀には付きものの木戸から裏道へ少女たちを送り出す。あとは最後尾の桜が木戸を閉じれば元通り、蔵の中身が入れ替わっただけになるはずだった。


 しかし。


 既に日輪は彼方の稜線に触れ、昼と夜の入れ代わりが近づく頃。小用にでも出てきたか、りんが桜の後ろ姿を見咎める。


「――――姐さん、蔵の女たちが逃げる!」


 桜を言葉巧みに騙した張本人が声を張り上げて女将を呼ぶ。その怒声が耳に届いたか、少女たちは身を竦ませる。気が挫けて足の止まりかけた彼女たちを追い抜き、先頭に躍り出た桜は振り返りながら負けじと声を張り上げた。


「足を止めるな! ついて来い!」


 自身で判断するよりも父親や里長の庇護下にいることに慣れている少女たちは、明らかに命じ慣れた清涼なその声に有無もなく従った。日暮れ間近に辿り着いた旅人や客を引く立君たちぎみ、少し気の早いほろ酔いの千鳥足、人影もまだまだ減らない、宵を迎える準備を始めた表通りに飛び出して全速力で駆け抜ける。


 そう、彼女たちを導くことにばかり気を向けていた桜は、幼い連れのことを一瞬失念していた。


「わあぁっ」

「捕まえたぞ、コラァ!」

「! さくら!」


 少女たちより歩幅が小さくいつの間にか最後尾となっていたさくらを、女将の指示で追ってきた男衆の一人が乱暴に担ぎ上げる。桜は足を止め、肩で息をして射殺すような眼差しで男衆を見据えながら、それでも少女たちに命じた。


「早く行け、適当な店に紛れ込め!」


 反駁の余地もない一喝に、萎縮しかけた少女たちがぱっと散る。もう一人の男衆が咄嗟に追う姿勢を見せたが、まず誰を捕らえるか迷った僅かな間で、彼女たちは三々五々姿を隠してしまった。それでも的を絞れば一人くらいすぐ見つけられただろうに、結局男衆はその場に踏みとどまる。


「その子を離せ!」

「ふざけるな、小賢しい真似しやがって」


 諸人が行き交う街道沿いでは、酔客同士の諍いや痴話喧嘩など珍しくもないのだろう。剣呑に言い合う桜たちに一瞬目線を向ける者はいても、関わろうとする者はいなかった。


 凄む男衆二人の後方から、悠然と女将が現れる。


「……どこへ行こうっていうんだい」


 問いかける紅唇は愉快そうな曲線を描いていたが、双眸に宿る光は酷薄だった。


「京へ行きたいんじゃなかったのかい? 大人しくしていればすぐに連れていってやれたのに」

「言葉は正確に言え。『連れていく』ではなく『売り飛ばす』の間違いだろう」

「まあ、そうとも言うねえ」


 口の減らない桜の反応を揶揄するように袖をかざして笑う。人質を捕らえ、逞しい男衆二人を従え、己の勝ちを確信した自信が漲っていたし、その構図がよく似合う妖婦でもあった。


 鮮やかな逃亡から一転、絶望的な状況に追い込まれた桜は、負けじと彼女たちを睨み据え、……鮮やかな朱金に染まった西空に漂うものを見て不敵に笑う。


 場違いに浮かんだ笑みに怪訝な目をする女将に構わず、桜はすっと空に右腕を伸ばし、高らかに叫んだ。


「――――火事だ! この女将の宿から!」

「!」


 火事、の一言に、女将と男衆だけでなく、他人事だった道行く人々が桜の指先が指し示す先を見上げる。


 目抜き通りより奥、桜たちが今しがた逃げ出してきた宿のあたりから、尋常でない量の黒煙が立ち上っていた。それを上回る勢いで、口々に焦りと怒りの悲鳴が上がる。


 木造の建物が密集する宿駅や城下町にとって、火は大敵だ。京ですら、過去に幾度も焦土と化した。


「……総兵衛そうべえ辰巳たつみ! 何ぼさっと見上げてるんだい、早く火を消しに行くんだよ!」


 瞬時に我に返った女将が男衆たちを怒鳴りつける。二人は邪魔なさくらを放り捨て、慌てて置屋へと駆け戻っていった。同じく消火のために火元へと向かう者と、逆に火難を避けようと逃げる者、真逆の動きをする人々で、通りは尋常でない喧騒に包まれる。


「おねーさんっ」

「さくら!」


 解放されたさくらが転がるように桜の裾に縋りつく。震える頭を掻き抱き、騒乱の中、桜と女将は切り結ぶように睨み合う。


「……やってくれたね、こんなところで火事を起こしたらどうなるか解ってるのかい」


 延焼を食いとどめるため、火元の置屋だけでなく周り四方の建物まで打ち壊す音が表通りも届いてくる。唸る女将からは、先程までの余裕が消し飛んでいた。人殺しも厭わないだろう物騒な眼差しに、桜は綽々と笑う。


「安心しろ。あれは火事というより狼煙、竈に大量の松笠をくべただけだ」


 松明、の文字通り、松は灯火に使われる松脂を多く含んでいるから、乾いた松笠も勿論火種となり易く、しかも多量の煙を出す。それを一気に大量に燃やせば、傍目には火事のような黒煙が上がってしまう。夕焼け空も、遠目には建物の向こうに火の手が上がったように見える錯覚に一役買っていた。消火に奔走する人々も、やがて上がっているのは煙ばかりであることに気づき呆然とすることだろう。念のためかえでに仕掛けを頼んでいたのだが、思った以上に首尾よく遣り遂げてくれたようだ。


「けれども火の不始末は不始末、この宿駅に留まることは難しいのではないか? 拐かした女たちを追うより、今後の己の身の振りかたを案じたらどうだ」

「……っ」


 傲岸な物言いに、女将の妖艶な顔がいっそう憎悪と憤怒で歪む。その反応を見て、桜は確かな手応えを感じた。あと一息だ。あと一言、心を折る言葉を投げれば、彼女は退くだろう。致命傷を与える言葉を己の語彙の内に探し求める。


 煙を巡る喧騒を背景に、束の間の沈黙ののち、女将の迸るような殺気が緩みかけた、まさにそのとき。


「――――もう諦めなよ、女将の負けだよ」


 傍らの店に逃げ込んですべて聞いていたのか、才気煥発な少女が二人の間に割って入った。思わぬ闖入者に虚をつかれた女将の傍に向かい、少女は思いがけないことを言う。


「あたしは残るから。だから、ほかの子たちは見逃してあげて」

「! 何を言うんだ」


 桜も思わず上擦った声を上げる。誰か一人を生贄にしようとしたわけではない、全員で逃げおおせてこその成功なのだ。


「……言ったでしょ、ほかの子たちは騙されたり攫われたりした子だったけど、あたしは正真正銘、売られてここに来たんだ。もう、あたしはあたしのものじゃない。するべきことをしないといけない」


 既に意を決した様子で桜に応じる少女を、女将は信じられないと言わんばかりの目でまじまじと見つめ、やがて零すように小さく笑う。


「……莫迦正直な子だね。あたしですら一瞬、折り返しを過ぎた残りの人生、しがらみを捨てて気楽な傀儡女として放浪するのも悪くないか、なんて投げ遣りになったって言うのに」

「だって仕方ないじゃない。父親は戦で死んで、母親は身体が弱くて。弟や妹が大きくなるまで田畑や家を守るためには、あたしがこうするしかなかったんだから」


 逃げた少女たちを怒りを剥き出しに追ってきた女将は、逆にその少女に歩み寄られ、当惑とも諦観ともつかない表情を浮かべていた。売買の立場を下りてしまえば、むしろ「姐さん」らしく少女を諭すような言葉すら出てくる。


「そうは言っても、もう時代は、白拍子が帝や公卿の寵を得られたような頃とは違う。小娘の覚悟ひとつで乗り込める程度の苦界じゃないんだ」


 言いながら、衣の下に豊かな曲線を持つ己の胸を押さえた。


「ちょっと見目良く生まれただけの貧農の娘なんてせいぜいこの程度が上がり目、公家や武家に見初められたり、好いた男と添い遂げたりなんて甘い幻想は抱くんじゃないよ」

「だから、仕方がないって、そう言って諦めないといけない理不尽が、この憂世うきよには溢れてるじゃないの。……あたしには、それを撥ね除ける力もなければ、背負ったもの全部捨てる決心もつけられないんだから」

「…………わかったよ」


 女将は溜め息をひとつ吐き、軽く少女の腕を叩いた。それから改めて桜を見遣る。


「どこへなりと行きな。……でもその前に」


 言うなり、女将は桜につかつかと歩み寄る。桜は意図が読めず立ち尽くし、手が届く距離までの接近を許してしまう。


「っ!」


 瞬間、頬で痛みが弾けた。腹いせに、平手ではなく拳で頬を殴られたのだ。


 徳永家一の姫である桜は、当然、殴られたことなどない。倒れることこそなかったが、人生初の衝撃に、しばし声も出なかった。


 よろめき、唖然と目を瞠る桜に、女将が厭味のように嫣然と笑う。


「これで手打ちにしておいてやるよ。もう『商品』じゃないんだから、顔がどうなったって構いやしないしね」


 そう言い捨て、女将は「商品」となることを望んだ少女を伴って騒ぎの大元へと戻っていった。


 努めて毅然とあろうとするふたつの背を見送り、桜は半ば無意識に少女の台詞を反芻する。


「『あたしはあたしのものじゃない』……」


 だから、「するべきことをしないといけない」。買われた娘として。……国主の身内というだけで、何もしなくても何不自由なく生きてこられた姫として。


「おねーさん……」


 桜の着物を掴んだまま、さくらが微かに涙の跡の残る顔で見上げてくる。その頭を軽く撫で、さくらは不安を払いのけてやるようににっこりと笑いかけた。


「……もう大丈夫だ」


 蟠りは残るものの、こうして、計略は完了した。

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