三.同年 玄鳥至②
途中の
(…………どうすればいい?)
宿賃は規定があり同地域内ではほぼ一定なのだが、奉仕内容はその限りではない。今までの目利きは当然朝景が一手に担っていたため、宿ひとつ選ぶことも世事に疎い桜にはかなりの難事なのだ。
ここ
その上、「いい宿を見つける秘訣っていうのは」などと、かえでに話しかけるていで続けようとするので、桜は敢えて回れ右して来た道を遡り、彼らと距離をとった。
しかしそんな無駄足を踏んでいる間にも太陽は刻一刻と山際へ近づいている。陽が沈んでしまえば黄昏は早い。周りの人々は、客引きの男女に招かれたり躱したりしながら茶屋や宿屋に吸い込まれていく。乳兄弟からは離れたものの往生し、迫る夕暮れと同じ速度で焦りを強めつつあった桜に、気軽に声をかけてくる者がいた。
「――――お嬢さん、宿をお探し?」
桜より十ほどは歳上の、旅装束の女性だった。市女笠から薄絹を垂らし、それを掻き分けて細い隙間から嫣然と微笑む。
「ここにはあたしの馴染みの宿があるの。よかったら一緒にどう?」
会ったばかりの相手に気安く誘いかけられ、桜もさすがに二つ返事では頷けなかった。不信感と困窮の入り混じった眼差しに、旅装束の女は更に笑いかける。
「安心しなよ、そこは女の客しか泊めてないんだ」
「…………」
宿の規模や混雑具合によっては相部屋が当たり前で、女一人での旅路は苦労が絶えないだろうと桜も身に沁みて思ったものだった。女客ばかりであれば確かに幾分気は楽だろうが、行商や参詣者など、道中は明らかに男のほうが多かった。その中から女ばかりを選んでいては、随分儲けを取りはぐれることになりはしないか。
更に、唇の紅さが際立つ女は、垂れ衣などと仰々しい旅装束の割に
値踏みするような桜の目線に気づいたか、女は垂れ衣の向こうで相好を崩した。
「あんたの考えてること、だいたい当たってると思うよ。あたしは歩き巫女で、馴染みの宿ってのは半分は置屋。ほかの宿屋や茶屋に女郎を派遣したり、あたしみたいな
力仕事もあるから男衆も働いてるけどね、とからから笑う。さすがに相手の機微に聡い
「だからさ、どう?」
「…………わかった。よろしく頼む」
裏事情を明かした上で重ねて誘われ、しばしの逡巡ののち、桜は結局頷いた。垂れ衣に興味津々のさくらの手を引き、つい後ろを振り返る。まだ夕刻の一歩手前、道往く人々の顔が充分に判別できるほど明るいが、乳兄弟の顔は見当たらなかった。その姿を探し求めた己に気づき、桜ははっと我に返る。
旅装束の女と並び、お互いの身の上や旅の目的などには触れない程度の当たり障りのない会話を交わしながら辿り着いたのは、街道から一本入った道沿いに建つ宿屋だった。確かに客層は限られているようで、表に客引きの姿はない。女郎宿というと長局の切見世を連想するが、ごく普通の宿屋と変わらない佇まいをしている。
間口を入ると、足湯を運んできた下女と一緒にもう一人、女が奥から姿を見せる。
「おやおりん、お疲れさん。……誰だいその別嬪さんとおまけは」
「久しぶり姐さん、お客だよ」
姐さんと呼ばれた、この宿屋の女将らしき女は、旅装束のりんよりも更に十以上は年嵩に見えた。……夫と娘を捨てて京に戻った桜の母とそう変わらないくらいの年頃だ。しかし彼女自身遊女の出身なのか、所作にはえも言われぬ婀娜っぽさがある。
今どき、置屋の長者が女性というのも珍しい。かつてはむしろそちらが主流だったのだが、時代を下るごとに規制が厳しくなり、昨今は男性が取り仕切っていることが多いと聞いた。
笠を脱いだりんは更に女将に近づいて何事か耳打ちし、二人揃って桜に目線を遣りながら薄く笑う。草鞋を脱いで足を清めた桜とさくらに、改めて女将はにこにこと声をかけた。
「あんたもお疲れさん。京に上るんだって? まあ今夜はここでゆっくりしていきなよ」
「じゃあね」とりんは桜を置いて勝手知ったる様子で廊下を進んでいき、女将がその後ろ姿よりも更に奥に声を飛ばす。
「
呼ばれた中年の下男に無言で案内され、片側に襖が三対並ぶ主屋を抜けて、別嬪さんとおまけこと桜とさくらは奥庭へと通される。
庭の隅に佇む離れは、一見、座敷と言うよりも蔵だった。頑強な扉は片開きで、丁寧に閂までかけられている。しかし屋内は土間の上に板間があって最低限の調度が備えられており、先客が四人ほどいた。片隅に身を寄せ合い、震える眼差しで内側に開かれた扉を凝視している。
主屋は所属の女郎や馴染みの遊女たちの間で、通常の宿泊客には相部屋で離れの蔵座敷を宛がうということか。しかし客が既に中にいるのに閂を下ろしていたことも、客である女……少女たちの反応も奇妙だ。だが桜がそれらを不審に思うよりも先に、一言もなく背後で扉が閉ざされた。しかも閂を閉める音まではっきりと外から響いてくる。
「!」
首を扉に向けたまま桜は呆然と立ち尽くす。いくらなんでも客への対応とは思えない。さくらはと言えば、桜ほど気にした様子もなく、古びた調度を足がかりに少女たちの頭上の小さな格子窓から外を覗いている。
「……どういうことだ? ここの宿は外から鍵をかける習慣でもあるのか?」
室内に向き直り訊ねると、少女たちは揃って俯き啜り泣きを始めた。その中で一人、十三、四ほどの利発そうな少女だけが、凛と顔を上げ桜の問いに答える。
「そんなわけないでしょ。見てのとおりここは土蔵。あたしたちは泊まってるんじゃない、閉じ込められてるんだよ」
「閉じ込められて……?」
「……あんたも騙されて拐かされてきた口みたいね」
少女の口が次々に穏やかでない単語を紡ぎ出す。桜の胸中も不穏にさざめいた。
「ここが遊女たちの置屋や寄宿舎を兼ねているということは聞いた」
「それだけじゃない。人買いが買い付けてきた女たちの預かり所でもあるんだよ。ここの女将の背後には、一宮の門前町の豪商がいる」
その豪商が、「商品」となった少女たちをどこに転売するのか決めるのだという。ここと同じように情婦に任せた宿屋や置屋で抱える場合もあれば、遠い地の長局へ送られる場合もあるらしい。見た目に違わず才気煥発な少女は嘲りと哀れみの入り混じった笑みを浮かべた。
「あんたは上玉、特上だから、きっと栄えた町に高値で売り飛ばされるだろうね」
「……ふざけるな、冗談ではない!」
ようやく歩き巫女に騙されたことを悟った桜は扉に飛びつく。しかし外から閂がかけられているのだから開くわけがなく、力任せに拳を打ちつけてみたところで壊れるはずもない。やがて、糸が切れたようにずるずると崩れて膝をつく。
(冗談ではない。私は京へ上るため城を出た。女郎屋になど売られてたまるか)
しかしどれだけ崇高な目的があろうと、現状はこのざまである。――――朝景を突き放した途端に。
(透次……)
道中薄々察し、目を逸らし続けてきたが、はっきり思い知った。自分はあまりにも世間知らずだ。机上の空論、書物から知識を得ただけで、一人では何もできない。できないことに気づくことすらできなかった。それなのに愚かにも、忠臣を自ら手放してしまったのだ。
手許に残ったのは、滑稽なほどに情けない自分と、それ以上に頼りない幼い双子の片割れ。
その頼りないはずの童女が、打ち沈んだ土蔵に場違いな明るい声をあげる。
「あ、かえで。ここココ、ここー」
「かえで?」
傷だらけの唐櫃の上に背伸びして格子窓を覗いていたさくらの発した声に、思わず桜も反応する。脇から覗き込むと、宿の裏手は細い路地に面しており、よく見知った童子が足を止めてこちらを見上げていた。かえでは板塀に足がかりを得て身軽によじ登り、丁度いい高さになった窓枠に両腕をかけ、格子を挟んで間近に片割れと見合う。
「何してんだ、おまえ」
「んー、
「『辻中将物語』の次は『
呑気なさくらに呆れた桜が口を挟む。『葦屋物語』は、実父の再婚後、継母に疎まれた黛家の中君が、葦で屋根を葺いた粗末な離れに軟禁され、あまつさえ好色な老爺に売り飛ばすも同然に嫁がされそうになる――――、という筋書きで、現状と似ているといえば似ていなくもない。
「だから、早く少将として助けてよ」
しかしながら、偶然方違えで邸を訪れた藤代の左近少将の世話を押し付けられたところから、中君の運命はまたも急転する。下女扱いを受けていても気品を損なわなかった彼女を見初めた少将により葦屋から救い出され、彼の正室として迎えられるのだ。
かえでの反応を待たず、さくらは肩越しに土蔵の中を、閉じ込められた少女たちを振り返る。
「おねいさんたちだって、早くこんな湿っぽいところ出たいでしょ?」
状況を解っているとはとても思えないからりとした笑顔に、少女たちは一瞬肩を揺らした。しかしまたすぐに暗い顔で俯く。その頬が、無理だ、と語っていた。頑丈な扉には外から閂がかけられ、唯一の窓は肩幅よりも小さく格子までついている。日に一度、質素な食事が運ばれて来るというが、これも屈強な男手のため、女の細腕で刃向かえるはずもない。――――もう、初めから諦めている。
けれども。
(売られてたまるか。――――諦めてたまるか)
さくらにつられて室内に緩く首を向けた桜はぎり、と拳を握る。桜は強情だ。こうと決めたら譲らない。だから城を脱走したし、単身(でもないが)街道を北上した。
だから、今度も。
「……私は騙されて連れてこられた。おまえたちが売られたのか拐かされたのかは知らないが、そうやって泣くからには現状は意に沿うものではないはず。違うか?」
囚われの少女たちに身体ごと向き直り、説き伏せるように問いかける。怯えた眼差し、胡乱な眼差し、好奇の眼差し、四人と双子の様々な目線を一身に受け、毅然と桜は言う。
「ならば迷うまでもない。皆で逃げよう」
「…………でも、どうやって……?」
逃げられるものなら勿論逃げたい、けれど方法を思いつかない。そんな感情の揺らぎを垂れがちの双眸に湛え、少女の一人がおずおずと口を開く。
しかし桜よりも先に、さくらが不安を吹き飛ばすようにあっけらかんと言った。
「だあいじょうぶだって。このかえで、わたしとそっくりでしょ? そんなのが、わたしたちを連れてきた人の前に出ていけば、『閉じ込めたはずなのに』って慌てて様子を見に来るよ。そのときに、みんなで扉の陰に隠れて襲い掛かればいいんだよ。蔵だから、殴りつけるものなんかいくらでもあるし。そしたら、そこの裏道から逃げればいいの」
ね? と念押しするように小首を傾げてみせる。その様子は歳相応に愛らしいだけでなく、妙な説得力もあった。
多勢に無勢。諦観に負けた少女たちは思いつきもしなかったかもしれないが、かえでが巧いこと一人だけを誘い込めば、やってやれないことではない。
ただ、「多勢に無勢」の言葉どおり、全員の協力が必要となる。
「で、でも……」
どれほど自信満々だろうと、さすがに童女の提案をあっさり受け入れることはできないらしく、少女たちは後込みの姿勢を見せる。そこに桜が揺るぎない声で言った。
「着物まで換えさせれば、宿の入口からここまで連れてきただけの相手には絶対に見分けはつかない。男手だろうと、気が動転した一人くらい、全員でかかればいける。大丈夫だ」
「きっと」「多分」などと余計な単語を入れず、自信ありげに笑う。己の言動に、ひと欠片でも彼女たちに不安を覚えさせてはいけない。それではついてくる者もついてこない。それに、あながちはったりでもなかった。勝機はある。
少女たちはしばし互いを見つめあい、やがて、慎ましやかに生きてきた己たちとは異なる桜たちの采配に賭けてみようという方向に全員の意思が固まる。
縋るような眼差しに、桜は改めて大仰に頷いてみせる。そして窓枠の「少将」かえでに二言三言囁き、計略は動き始めた。
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