三.同年 玄鳥至(つばめいたる)①

「…………正気ですか於市様」


 出奔の夜にも言われた気がする暴言に、桜は今度こそはっきり顔をしかめた。


「……それが主君に対する口の利きかたか?」

「いやそれは……、いやしかし、本気で仰ってます? 本気で、青砥領の六州を通るつもりですか?」


 口を滑らせた朝景は一瞬言い澱んだものの、信じられないというように重ねて尋ねる。桜が「勿論」とはっきり頷くと、乳兄弟はなんとも形容しがたい顔になった。


「……自分が何から逃れるためにこんなところまで来たのか解っているんですか」


 市での件から数日後、九重国西端にある一宮の鳥居町前でのことである。ここは複数の街道の分岐点でもあり、海路で西へと向かう主街道、少し迂回して陸路で北西へと向かう脇街道、北上して東林道の山中に敷かれた東山街道とうさんかいどうに向かう六槻路むつきじへとそれぞれ続いている。人々は各々道を往き、往来の端で立ち止まって押し問答を繰り返す二人に注意を払う者はいない。


 海路を往けばそのまま中陸道の一方国ひじかたのくにに入れるのだが、船旅は天候や波に左右されるため、陸路を選ぶ者も多い。ゆえに、京へ上るのであれば六槻路から東山街道に入るのが一般的ではある。


 しかし。


「それに、俺たちは日宮詣ひのみやもうでの一行を装っているんですよ、六槻路を北上するのは不自然でしょう」


 中の一州と七州、一方国と七生国はぶのくには、神領とも称される特別な国だ。国生みの男神と女神を祀る社の総本社があり、それぞれの宮司が国守を兼任している。この時代、唯一戦火に巻き込まれない聖地と言っていい。


 日宮、月宮つきのみやと呼ばれ、山賊海賊すら二社への参詣者や供物は襲わないと言われるほどに暁津洲全土の崇敬を集めている神領は、今も来る者を拒まない。東の八州と九州を奥路で結ぶ風見関かざみのせきは、両国が友好関係にあることと同じ道内ということ、日宮詣の体裁でほぼ素通りできたが、東の六州と中の二州をつなぐ未破関みわのせきはそこまで緩くないだろう。


 それでもなお、桜が六槻路を選ぶ理由は。


「言っただろう。関を越えて巴川で追いつかれた中将の道程を遡ると」


『辻中将物語』と同時期に記された日記などを見ても、王朝時代に京と南岸沿いの東国を往来する場合は、六槻路を経由して東山街道と東南街道を使用していたはずだ。聞いていなかったのかと責める女主人に、しかし朝景も譲らない。


「本気で何時代に生きているんですか。それに、関を越えて巴川でと言うのなら、中の一州と東の九州を分ける立烏関たてうのせきも同じではないですか」


 実は、『辻中将物語』にも「関」「巴川」とあるのみで、関の名称も巴川流域の具体的な地名も記されていない。ちなみに、未破関と立烏関に加え、中の三州と東の四州を結ぶ新発関あらちのせきの三関が、弓なりに東西に長いこの洲の東国と西国の境目でもある。


「しかしこの子たちと約束した。それを違えるわけにもいかないだろう」

「ですから、地名が明記されていないのであれば、どうとでも解釈できるでしょう」

「心配するな。未破関を通るつもりはない。その手前から一方路ひじかたじを下れば中の一州へ入れるだろう?」


 あまり主流ではないものの、六槻国むつきのくに二木国はぎのくにの国境から巴川沿いに南下する街道もあるにはある、が。


「なんでそんな無駄な遠回りをする必要があるんですか」


 北上して南下するのだから、まるっきり無意味である。素直に脇街道を往けば、海路より一、二日要するものの無駄なく神領に入れる。


「それに、せっかくここまで『葛生日記くずうにっき』の作者が北山道から京へ上った道を辿っているんだ。日記に残る史跡逸話を訪ねつつ古人と同じ道を行くのも一興、」

「それが裏の本音ですか」


 妙に寄り道の多い道中を振り返り、桜の言を断ち切って朝景が言う。しかし、今までは書物の世界で満足していたが、そこに描かれた景色を実際目の当たりにすると、やはり胸が高鳴る。先日歴史に名高い古戦場を通った際も、遠い目の朝景を尻目に心躍らせたし、双子たちは競うように昨年の松笠を拾い集めていた。


「心配ない。六州を通るといっても端も端、国府も通らず未破関に着く。青砥家の本拠は七州で、間には五州もある。気取られることもないはずだ」

「いやしかし……」


 ここまで言ってもなお承服しかねる様子の朝景に、次第に桜の苛立ちも募ってくる。主がこうと命じたら頷くのが従というものではないのか。しかも自分はそこまで間違ったことを言っているわけでもない。


 ならば。


「わかった、もういい。おまえはもういい。この先は、私一人で行く」

「は?」


 寝耳に水と言わんばかりに朝景は驚愕を見せる。しかし不毛な遣り取りを一方的に終わらせた桜は構わず、朝景に担がせていた行李の片方から、着替えや路銀や印籠など最低限のものを手早く布包みに纏めて背負い、冷ややかに言い放つ。


「ここまで御苦労。あとは八鍬に帰るなり、好きにすればいい。但し私のことは言うな」


 宣言すれば決別は早かった。唖然とした朝景にくるりと背を向け、六槻路へと桜は一人歩き出す。「ちょっ……、は、あァ?」などと奇矯に喚く声も届いたが、一顧だにせずきっぱり無視した。


 かつて、とある公家の側室だった尼御前も、やむを得ない事情で単身、京から東南街道を東へ下り、そして帰京したのだ。女の一人旅も、やってできないことではない。……その一方で、帝に仕える女官が山賊に襲われた事例もあることには蓋をする。


 ただ、自分の可愛げのなさにはほとほと嫌気が差した。これが二の姫であれば、強がりを言えば言うほど周囲の者は庇護欲を掻き立てられるだろうし、三の姫ならば素直に甘えたり謝ったりできるだろう。


 波立った胸中そのままの荒い歩調に、いくらもせずぱたぱたと幼い足音が混じる。


「! おまえ……」

「おねーさん一人じゃ淋しいでしょ? わたしも一緒に行くよ」


 思わず目を剥いた桜に、さくらは満面の笑みで応える。更に「おにーさんにはかえでがついてるから、おにーさんも淋しくないよ」と続くと、桜はいっそう眉をひそめた。


「中将と大君ごっこはいいのか?」


 毒気を抜かれ、冷めた頭で考えてみれば、双子と別れた時点で六槻路を上る理由の大半は失われているのだが、あそこまで啖呵を切った以上は引き返せない。


「大丈夫。ほら」


 言い切る稚けない声に促され後方を見遣る。と、辛うじて顔を判別できるほどの距離を空けて、傍らの童女とよく似た面差しの童子と、それに続く仏頂面の青年がこちらへと向かって来ているのが見えた。


「……どういうつもりだ」


 桜は足を止め、決別したはずの乳兄弟が追いつくのを待って問い質す。返す朝景の声には桜と同じくらい棘があった。


「好きにすればいいと仰ったのはそちらでしょう。於市様は六槻路を行くと言い、さくらは於市様一人では可哀そうだと言い、かえではさくらから目を離すわけにはいかないと言うから、俺はかえでに付き合うことにしたんです」


 一応、筋は通っている。しかしこのまま済し崩しに元の鞘に納められるほど、まだ桜の苛立ちは鎮まってはいない。


「……勝手にしろ。だが私たちはもう同行者ではなく、偶然同じ道を往くだけの間柄だ。気安く話しかけるな」


 怒り任せに言い切り、桜はさくらの手を引き早足に歩き出した。さくらもかえでも何も言わなかったが、少し間を空けて、二対の足音がつかず離れずの距離をついてくる。


 こうして、奇妙な二組は海沿いから山中の道へと進み始めた。

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