二.同年 雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)

「っ!」


 すれ違いざま、腰の曲がった男とまともにぶつかり、桜は括った緑の黒髪と共に大きくよろめく。朝景に肩を支えられ、一言言おうとしたときには、既にその背は人波に紛れていた。


 皆原の城を離れて既に十日近く。二日ほど雨天が続いたせいもあり、まだ九重国の半ばまでも至っておらず、予定よりやや遅れ気味だが、今日は朝から見事な晴天に恵まれている。


 王朝時代に京から東林道の和潮にぎしお側、南岸沿いに敷かれた東南街道とうなんかいどうには、数百年経った今も人や荷の往来が絶えない。その上今日は市の開かれる日であったらしく、一帯がひときわ賑わっていた。


 城下町を通る街道に立つ市には、住民たちの必需品だけでなく、暁津洲全土からあらゆる人々や品々が集い行き交う。外出の頻度が少なく、そういった喧騒に不慣れな桜は、もう何度肩や腕をぶつけたか知れない。


「まったく……」


 行き場を失くした憤りを短くこぼす桜の耳に、朝景の溜息が落ちてきた。掬うように持ち上げられた掌に、小さな布包みが置かれる。桜は目を剥いた。


「な、これ……!」


 小銭を包み袂に入れておいた巾着である。二綾の小袖を売り払った代金含め、数々の荷は勿論すべて朝景が背負っているのだが、念のためにと唯一渡されていたそれが思わぬところから出てきて桜は狼狽した。


「……掏られたのか、今ぶつかられたときに」


 経験したことはないが、そういう盗みの手口があることは、古い説話だけでなく侍女たちの嘆きからも知っていた。しかし。


「いえ、その前です」

「その前にぶつかってきた痩せぎすの男か?」

「もっと前です。……と言うより、別に掏られたわけではありません。巫女舞に釘づけになっているときに不注意で落として、それに気づかなかっただけです」


 国境を越えて本当についてきた童たち並みに警戒心の薄い女主人に、朝景は呆れたように言い、そこに更に追い打ちがかかる。


「気づかなかっただけです」

「です」


 その想定外の同行者、さくらとかえでの双子が大きな目で桜を見上げながら朝景の言葉尻を復唱する。かと思えばすぐに露店に並ぶ二股の大根を見遣ってきゃっきゃっと笑い合う。薄紅と濃紺の小袖を纏う小柄な姿を見失わないよう注意を払いながらも、朝景の小言は続く。


「確かに、ぶつかってきた者たちはこれが目当てだったのでしょうけれど。もう少し周りに気を配ってください。妓女の舞なんて、そう珍しいものではないでしょう」


 乳兄弟の言うとおり、皆原の城下町にも芸人の類いはいたし、父が彼らを城に召して歌舞音曲を披露させたことも幾度かある。そう言えば昨年、その宴席に青砥家当主とその嫡男の姿もあり、軽い挨拶を交わしたはずだが、どちらの顔も桜の記憶には残っていない。


 自らの失態をごまかすように、桜は若干荒い手つきで巾着を袂にしまい直す。


「わかっている。しずく御前も、かつてこのように舞って雨乞いの義を成功させたのかと思っていただけだ」


 文字を辿るだけではいまいち想像が難しかった古の白拍子の舞い姿が、今は生き生きと瞼の裏に浮かぶ。


「それに……思っていたよりも賑わっているな、ここの宿場は」


 野菜や魚、味噌に醤といった食料品から、布地や土器かわらけ、硯等々、店先の商品は、質も量も皆原の市には劣るものの、売り手も買い手も表情は明るく、交わされる声にも活気がある。


「昨年、国内を二分していた争いに決着がついて、名実共に久凪ひさなぎ家が国主として立ちましたからね。どん底を抜けてあとは上がるだけ、町人や農民も勢いづくというものでしょう。まあ国主は、西の残党を抑えるために、国府をあちらへと移転させたようですが」

「そうなのか?」


 すべて初耳であることを隠そうともしない桜の反応に、朝景が眉間に皺寄せる。


「そうなのか、って、徳永家は久凪家を支援していたでしょう。対抗勢力には六州の志波しば家がついて」


 徳永家も志波家も既に青砥家の傘下にあるから、どちらが勝っても青砥家は東林道の制覇にまた一歩近づくのである。


 そう言われても、桜の認識では、九重国は未だ複数の豪族たちがひしめき合う動乱の州であった。素直に白状すると、朝景はいっそう複雑な顔になる。


「いったい何十年前の情勢ですか、それは」

「それは」

「は」


 双子にまで畳み掛けられ、桜は押し黙るほかなかった。それでもようよう一言だけ絞り出す。


「おまえ、莫迦だけど頭いいな」


 十年近く父親と共に暁津洲を巡っていただけのことはある、と評するべきか。


 離れていた十年、あらゆる書物を紐解いていた桜と、自らの足で見聞を広めた朝景。それぞれ知識を蓄えたものの、その方向性はかなり異なるものとなっていた。


 それに桜は幾許かの淋しさを覚えたが、感傷は幼い歓声にあっけなく掻き消された。


「かえで見て、すごい大きな貝! 蜃の抜け殻かな」


 自身の顔よりも大きな一対の貝殻に、街を呑み込み、その幻影を吐き出す巨大な貝の鬼のようだと、さくらがはしゃいだ声を上げる。


 京への行程が予定よりも押しているのは、不安定な天候や桜の体力のなさ以上に、この双子のせいであった。『辻中将物語』ごっこは既に忘却の彼方、中将と大君ではなく素のかえでとさくらとして振る舞う二人には、落ち着きという概念が備わっていないのか、ひとところに収まるということを知らない。


 名前を呼ばれたかえでは、しかしさくらの示す店先ではなく、明後日の方向の人波を凝視している。片割れの無関心に、さくらが頬を膨らませて濃紺の袖を引いた。


「ねえ、かえで」

「ああ、ただのでっかい貝だろ。それより、あの痩せたおっさん」


 貝の話題を身も蓋もない一言で流し、かえでは逆に、さくらに人波の中の貧相な髪の頭を指差す。


「あの太ったおっさんのほうによろめいて、ぶつかった拍子に懐から何か掠め取った」

「え? でもあの人、それに気づいてなさそうだよ」


 かえでの言う「太ったおっさん」は、自身に起きた不幸を知らず、細君らしい連れの女人と談笑しながら桜たち一行とすれ違った。盗んだ者と盗まれた者、双方を見比べ、かえではさくらをまっすぐ見る。


「痩せたおっさんに気づかれず取り戻して、太ったおっさんにも気づかれず返せたら、かっこいいと思わないか?」

「え? かえで、そんな手妻てじなみたいなことできるの?」


 突拍子もない発言に、さくらが目を丸くする。さすがに、諸手を挙げて賛同はできかねる様子だった。しかし。


「かっこいいと思うだろ?」

「…………思う」


 無駄に真摯に言い募られ、その眼差しにほだされたようにさくらは頷いた。片割れの同意を得て、かえではにかっと破顔する。


「よし、じゃあ行くぞ」

「あっ、ちょっと待ってよ、かえで!」


 言うなり、かえでは「痩せたおっさん」目掛けて雑踏に身を翻した。慌ててさくらも追い駆ける。片割れを呼ぶ声に、咎める響きはあっても止める調子はない。


 普段から喜怒哀楽が豊かでかしましいのはさくらだが、一見淡白なかえでの奔放さは時にさくら以上だった。二人とも、片割れが無茶をしようとすると、かえでは醒めた眼差しで、けれどもいざというときには盾となるべく共に動き、さくらは嗜める顔をしながらも付き合う。


 そして今も、人波を縫って盗人の背を追い、店棚と店棚の僅かな隙間へ滑り込み街道から外れようとしている。


「待て、二人とも!」


 急いで桜が声を投げる。こんな土地勘のない城下町ではぐれたら、探し出せないかもしれない。


 その声を追い抜く勢いで、朝景が桜の脇から駆け出した。しかし、二人が曲がった店先を無視して猛然と街道を走っていく。


「どこへ行く!」

「盗まれたんですよ、今度こそ!」


 振り返りざまに放たれた一言に、桜は袂を手繰る。落として、拾われて、しまい直した巾着が、またなくなっていた。


 確かに、双子に気を取られ、また注意力散漫になっていたかもしれないが、誰かとぶつかった衝撃はなかった。かえでの言うように、気づく間もなく盗みを働かれたのだ。動揺しながらも桜も朝景に追いつこうとする。


 朝景も鈍足ではない。人波の中、抜きん出た長身がなければ、桜の足では容易に見失ってしまっただろう。しかし盗人も、朝景以上の俊足か、もしくはこの城下町に慣れているのか、なかなか捕らえられない。


 距離が開く一方の朝景の頭が、不意に店棚の陰に消えた。その場まで辿り着くと、細い脇道が続いていて、桜も裂け目のようなそこに入り込む。


 九重国の城下町は、碁盤の目のように四角四面な京ほど整然とはしていなかった。脇道に入った瞬間には、大小入り組んだ道の先を行く朝景の姿がまだ見えた。しかし彼が次の角を折れ、更に別の道へと曲がってしまったら、完全に桜は迷ってしまう。この、城主の名も知らない町で。


 一瞬で考えが巡り、どうしよう、と焦燥が込み上げる。


 しかし。


「ばあ!」

「わあ!」

「うわっ」


 今にも朝景が消えそうだった家屋の曲がり角から、短い大声が立て続きに上がり、小さな影がみっつ転がり出てきた。朝景は辛うじて踏みとどまり衝突を避ける。


 歩調を緩め、肩で息をしながら桜が曲がり角まで辿り着くと、まったく別の方向に走っていったはずのさくらとかえでが、追っていた人物とはまったく別の少年を取り押さえていた。


「つかまえた!」

由比ゆいの末裔、つかまえた!」

「!」


 誇らしげにはしゃぐ双子の下で、少年が顔色を変えた。しかし桜はそれよりも、二人が急に飛び出してきたことに驚き、息も絶え絶えに尋ねる。


「おまえたち、どうやって、ここに」

「おにーさんの声が聞こえたから」

「先回りした」


 簡単に言ってくれるが、言うほど容易い芸当ではないはずだ。女主人たちを横目に、朝景は片膝をつき、双子に圧し掛かられて身動きのとれない少年の袂から重みのある巾着をみっつ取り出す。


 立ち上がり、そのうちのひとつを桜に渡す朝景を、少年は憎々しげに見上げていた。その荒んだ眼差しを、朝景もまじまじと見返す。


「由比の末裔……というのは本当なのか」

「なんだ、それは」


 耳慣れない呼称に、まだ荒い呼吸を整えながら、桜は長身の乳兄弟と双子に捕縛された少年を見比べる。朝景が当惑した顔で言った。


「由比家はかつて南瀬道なんせどう四国のうち、四根国かずねのくにの国主だった一族です。十年前、当主の錯乱で一夜にして滅びた……。嘘か真か、厭魅まじものの反動による凶行、とも言われています」


 三穂国かずほのくに秋月あきづき家、一葉国かずはのくに二樹国かずきのくに瀬崎せざき家と共に、南四州は三竦みの情勢が長く続いていたが、由比家の自滅でその均衡が崩れた。以来道内は乱れ、中陸道の久世くぜ家が官軍として制圧したのが二年前のことだという。


「その生き残りが、寺を出奔して掏摸すりや追剥を繰り返しながら東に落ち延びてきているという噂は確かに聞いたことがあったが……」

「そうか」


 朝景の声は微かに上擦っていたが、噂どころか由比家滅亡、それ以前に南瀬道のかつての国主たちの家名も知らなかった桜からすれば、その一言しか感想はない。それを察し、朝景はいっそ哀れむような目で女主人を見る。


「…………王朝時代の式略式目まで諳んじられるくせに、どうして今の世のことは何も知らないんですか……?」


 家督を継ぐ可能性は低かった女の身とはいえ、家督を継ぐ者の室となる可能性は高かった生まれの姫君である。いくら故事来歴や有職故実に詳しくても、この動乱の世を生きる伴侶としては、心許ないこと甚だしい。


 その眼差しにはさすがにかちんときた桜だったが、今はそれを追及せず亡国の少年を見下ろす。薄汚れ、殺伐とした目つきの少年に、かつての国主の血の面影は窺えない。


「寺を出奔、ということは、家の復興なり浪人として新たな主家を探すなりの矜持があったということだろう。滅びたとはいえかつては一国の主の血筋、追剥にまで身を落として恥ずかしくはないのか」

「……恥ずかしい、だ? そんなこと言ってて生きていけるご時勢かよ」


 乾いて色褪せた唇が嘲りの形に歪む。


「世間知らずで羨ましいな。今は、目的のために手段を選ばないような時代だぞ」


 捨て台詞のように言うと、まだ背に居座っていた童二人を力任せに振り払い、朝景から巾着ふたつを奪って少年は駆け出した。再び街道の雑踏へと身を投じられると、この地に慣れない朝景は今度こそその姿を見失ってしまう。人垣をいくらか掻き分けたところで諦め、嘆息を以て顛末を締めくくった。双子の手を引き、桜もその横に並ぶ。


「曲がりなりにも元国主の一族がああも下衆に成り下がるか」


 最後に抜かりなく巾着を掴んでいった執念に蔑視を向ける女主人に、朝景は桜にだけ聞こえる声量で呟いた。


「家を失うというのはそういうことなんですよ。解っていますか?」


 桜一人の愚かな我儘で青砥家を敵に回し、徳永家が滅ぶことになれば、一族郎党すべてに累が及ぶ。ああして路頭に迷う者も数多く出るだろう。命を落とす者さえいるかもしれない。そんな先々を承知の上で、逐電を決意したのか、と。


 桜の乳兄弟である前に徳永家に仕える国東家の者としては、当然の諫言かもしれない。けれども少しばかり後込みした桜は、それを吹っ切って返した。


「……心配いらない。前にも言った、私のほかにも妹はいる」


 だから「徳永の姫」の輿入れは恙なく執り行われる。青砥家の不興を買うことはない。徳永家は滅びない。


 自らを納得させるため言い切る女主人を、朝景は痛ましいような目で見つめる。


 そして一目で少年の素性を看破した童たちは、最初に追っていた者のことも忘れ、店先に並ぶ飴細工の数々を見ては盛り上がっていた。

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