一.乙亥年 雀始巣②

 狼狽した足音が、悲痛な声が、揺れる松明の火と共に遠ざかってゆく。


 それらが完全に闇の向こうに消えるのを見届け、低い崖の手前の木陰に身を潜めていた桜は勝ち誇った吐息を漏らした。


「…………行ったな」

「……行きましたね」


 少し離れた幹の陰から応じる朝景ともかげの声も吐息混じりではあったが、こちらは完全な溜息、いかにも気の重い吐息である。しかし桜は乳兄弟の憂鬱など微塵も意に介さなかった。しなやかな動作で立ち上がる。


「さあ、私たちも行くぞ」

「はいはい……」


 始まる前から疲れた声で、それでも朝景は女主人の命に従った。


 いや、もう既に始まっている。今宵城を抜け出したときから。……否、そのずっと前から。


 隠し持っていた松明に火を熾せば、数歩先くらいは朧気に目が利く。実に気が進まなそうに括袴くくりばかまの長身痩躯を起こした乳兄弟に、桜は怪訝な表情になった。続く玲瓏たる声は、口調も相まって、女人らしい軽やかさよりも涼やかさが耳に残る。


「なんだ、その萎れた顔は。完璧に、計算どおりに進んでいるというのに」

いち姫様こそ、完璧に、計算どおりに進んでいる割に、至って平静ですね」

「私の考えた計画だ。当然だろう」

「そうですか……」


 桜御寮人と透次郎とうじろう朝景。共に齢は十七。ここ東林道八鍬国宗主・徳永家一の姫(それをもじって於市おいち様、市姫と呼ばれる)とその乳兄弟であり、――――美弥の眼前で濁流に攫われていったはずの二人である。


 それが何故、一糸乱れぬ姿で、平然と言葉を交わしているのか。


 ……理由はひとつ。二人はそもそも、川に落ちてなどいなかったからだ。


 悲鳴も水音も、すべて嘘。桜は足を滑らせ川に落ちたふりを、朝景はそれを助けようとして自らも溺れたふりをしただけである。


 暗雲垂れ込める夜と無秩序に生い茂る木々とで周囲は闇に閉ざされ、灯りが松明ひとつでは殆ど見通しが利かない。ゆえに判断は耳に頼るしかなく、それを利用したのだ。朝景が即座に動き美弥に「下城へ戻れ」と言ったのも、彼女の動きを牽制しこの場から遠ざけるため。無論、温和で従順な性格を計算に入れた上で、彼女を目撃者として同行させたのだった。


 桜の枝先に蕾が目立ち始めたこの季節は雨天曇天が多く、「昼の雨で川が増水した曇天の夜」という条件も、然程難しいものではなかった。広瀬川とは言うものの、有事の要塞である上城と普段住まいの下城との間を流れる一部は細く蛇行していて、その分平時から流れが速い。


 そもそも、夜歩きの口実に使われた「山裾に童形の鬼が出没するという噂」も、朝景に故意に流させたもの。


 すべては皆原みなはらの城から、輿入れから逃げ出すため。


「市姫様……言っても無駄とは思いますが、」

「ならば言わなくていい」


 暁津洲を縦断する帆高ほだか連峰の一端であり皆原上城の後方を守る白羽山しろわやま、その裾野に広がる森は、雲に遮られ、昇り始めた弓張の月も瞬く那由多の星も遠い。上下の城を結ぶ橋のひとつを渡り、川の流れに沿って進みながら、後方からの声に桜は振り返りもせず叩き切る調子で応じた。続く言葉は凡そ判っている。「本気ですか」「考え直してください」、この企てを目論んでから、幾度となく言われたことだ。


 押しの弱い美弥であればここで気迫負けして黙ってしまうところだが、あいにく朝景はそれほど御し易い相手ではなかった。実家の志水しみずの館から皆原下城に戻ってからこちら、美弥と同じく忠義な側近ではあるものの、美弥とは違い言いたいこと、と言うよりも思ったことは全部言う上、さりげなく毒を吐く。


「今ならまだ引き返せますよ。正気ですか、婚儀間近の姫が城を脱走するなんて」

「だからこうして、後腐れのない方法を選んだのではないか」


 朝景と二人、単に行方を眩ますだけならば美弥を欺き巻き込むような回りくどい方法をとる必要もなかった。だが明らかな逃亡であれば禍根が残る。だから桜は、自分たちの死を偽装することで消息を絶とうとしたのだ。


 夜の底を歩く足を止め桜は振り返る。桜も女人にしてはすらりと手足が長く背が高いのだが、朝景は更に高く、左のこめかみに残る矢傷の痕を除けば端正な顔をやや見上げる形になる。


「とうに肚は決めたはずだろう。だったらもう、くどくどと言うな」

「勿論、俺は市姫様の乳兄弟ですから、姫様が何をしでかそうとも従います。ですが……」


 同じく歩を止め桜と向き合った朝景は、諦めの滲んだ溜息と共に応じた。尻すぼみになった語尾に、桜は毅然と言い放つ。


「『側室は嫌だ』。これの何が駄目だと言うのだ」


 以前と同じ台詞を堂々と復唱する。そう、何も桜は、結婚そのものが嫌なわけではない。しかし朝景の顔色はますます渋くなる。


「……確かに、太守様のご正室を御母堂に持つ市姫様が、側室として嫁ぐことを厭われるのも解らなくはないですが」

「しかも既に正室も、生まれたばかりとは言え嫡男もいる相手にだ。冗談ではない」


 桜とて国主の娘、年頃になれば、いずれかの名のある家に嫁ぐことも、それが個人ではなく家の結びつきとして縁組みされることも承知していた。……その上でなお、譲れないものがある。


「ですが相手は、あの青砥家ですよ?」


 七尾国ななおのくにに城を構え、東林道のほぼ全域に影響力を持つ一族。戦によって奪った国、奪おうと画策する国に自らの親族や重臣を送り込み、新たな国主に立てることで勢力を広げてきた。徳永家は、青砥家がまだ単なる一国主に過ぎなかった頃に姻戚関係を以て同盟を結んだのだが、今となっては隷属に等しい。同様に一橋国ひとつばしのくにも幾度かの戦を経て半同盟関係にあり、例外である九重国ここのえのくには国守の支配力が国全土に及んでおらず、複数の国衆たちが時に和睦し時に裏切り鎬を削り合う、まさにこの洲の縮図のような様相を呈している。


 古き世の帝を祖とする青砥家は、代々京の公家から正室を娶ることが慣習になっていた。青砥家に臣従する東林道の各国主もその慣例に倣うことが多く、桜の母も、中の三州こと中陸道三枝国さえぐさのくにの京からはるばる下ってきたのである。


 正室であれば、奥殿の女主人として家政に采配を揮い、婚家と生家の架け橋となり、或いは夫君の寝首を掻くこととて可能だったかもしれない。しかし貢物のように差し出される側室ではどれも叶わない。


「だからこそ、私でなくてもいいはずだ。要は青砥と徳永の話なのだから」

「ご自身も気が乗らない縁談を妹君に押し付ける気ですか」


 桜には異母妹が二人いる。三の姫には何故か既に同じ歳の許婚がいるが、二の姫にはまだいかなる縁談も浮上していない。


 十年の空白はあるものの赤子の頃よりの仲、時に朝景は丁寧な口調ながらかなり踏み込んだ物言いをする。付き合いの深さゆえ、桜がそれにいちいち目くじらを立てることもないが、さすがに今の一言には返す語気が鈍った。


「そういうことではないが、……しかし、物静かな仁乃にの姫や朗らかなみつ姫のほうが、大方の殿方の目には好ましく映るだろう」


 気位の高さが顔つきにまで現れている一の姫とは違い、清楚と言うに相応しい儚げな二の姫と、天真爛漫で愛くるしい三の姫。桜とて、自分が男であったら、自分よりも彼女たちを妻に迎えたいくらいだ。


「けれど青砥は一の姫を所望した。……それだけ市姫様のご容貌が名高いということです」


 年端も行かない頃より、微笑みひとつで心を奪うと賞された美貌は、年頃を迎えていっそう磨きがかった。三国一の美姫との呼び声は決して誇張ではない。


「まあ、山科更衣やましなのこういの再来などと言われれば、素直に嬉しいが……。もし徳永が青砥の怒りを買えば、今度は赤御前あかごぜんの化身だとか呼ばれるのか」


 説話伝説に語られる女人を持ち出す桜に、朝景が苦い顔になる。


「やめてください、縁起でもない……。……相変わらず市姫様は、京に憧れがおありなんですね」

「ああ。……そうだな、思えばおまえたち父子が放逐される前から、私は京の話ばかりしていた」


 昔を思い出し、桜はつい頬を緩める。


 朝景は桜の乳兄弟だが、一緒にいたのは、朝景がまだ鳴夜叉なきやしゃと幼名で呼ばれ御伽草子の類いを共に聞いていた頃までだ。十年前、朝景の父である国東家当主がさきの国主……桜の祖父の不興を買い、所領を召し上げられた。桜の乳母であった朝景の母や子女、親族などは皆原城下に留まることを許されたが、当主は国外追放となり、嫡男ではなく次男の鳴夜叉を連れて去ったのである。


 状況の好転はその八年後。前国主が亡くなり、現国主柾嗣まさつぐに帰国を認められ新たに中部志水の地を与えられた国東氏は、一族共にかの地に移り住むこととなった。……遠からず帰参が許されると踏んでいたからこそ、国東氏は嫡男を留め置き、次男を旅の供に選んだのだ。


 そしてつい三月前、丁度桜の輿入れが決まったのと前後して、朝景の兄が国東家の新当主となり、朝景は出仕先を求めて皆原の城に戻った。そこで実に十年ぶりに再会した闊達な女主人は、美しく、しかし化粧けわいや薫物といった女性の身嗜みと同じくらい書物や歴史に耽溺する、この極東の女人の美徳基準で言えば「小賢しい」才女に成長していたというわけである。


 それを思えば、と桜も思う。十年の間に朝景も随分変わった。名前だけではない。昔は屋外を駆け回るよりも室内で書物を読むほうが好きで、桜のほうが背丈も高かったくらいなのに、一揆の鎮圧で戦場いくさばも経験し、面立ちも身体つきも引き締まり精悍になった。共に過ごした頃の面影は目を凝らさないと見出せない。


 いや、今はそんなものを探している場合ではない。夜が明ける前には城下を離れなくてはならないのだ。


 向かう先は――――西。


「皮肉な話だが、側室の話を持ち込まれたことで踏ん切りがついた。私は、京へ上る」


 古より絢爛豪奢で権謀術数渦巻く、この洲のすべてがある場所。百数十年前、戦乱時代の幕開けとなった大乱で一度は灰燼に帰したものの、この二、三十年で目覚しい復興を遂げ、今では往年の活気を取り戻しつつあるという。


 当てもなく闇雲に城を飛び出すほど桜は無謀ではない。出奔してどこに行くんです、と真っ先に言った朝景に、桜は即座に、日下流青蓮寺家くさかりゅうせいれんじけ、と答えた。京の堂上家のひとつであり、桜の母の実家だ。


 京育ちの母は、嫁いで何年経とうと子を成そうと、東国の暮らしに馴染めなかったらしい。嫡男を元服前に亡くしたことも一因かもしれない。三年前、父親の葬儀に参列するという名目で帰京し、そのまま皆原の城に戻ってくることはなかった。


 青蓮寺家の新当主も、そんな同母妹を送り返すことはせず、代わりに妾腹の妹だか娘だかを継室として寄越した。……実はここでまたひと悶着あったのだが、桜にとって重要なのは、京に母がいるという一点に尽きるため割愛する。


 文の遣り取りで辛うじて交流を持つ母は、今も兄君、桜から見れば伯父の庇護の下、実家でのんびり暮らしているという。彼女を頼って上京し、青蓮寺家の伝手で縁談と、あわよくば後宮への出仕の便宜を図ってもらう。それが、桜の計略だ。既に母には、いずれお会いしたい、とそれとなく上京をほのめかす歌を文に添えて送ってある。


 華やぎと知性が眩しい後宮文化には憧れてやまないが、畏れ多くも帝に見初められようとは露ほども思わない。国主の側室よりも重臣の正室のほうがいい、その他大勢ではなくだ一人になりたいというのが、適齢期に達した桜の結論だった。


 桜は無謀ではない。ただ、無茶なだけだ。


「というか、なんだって市姫様はそう、頭いいのに莫迦なんですか」

「おまえは昔から、一言多いのだ!」


 先程から「正気ですか」「押し付ける気」等々の無意識の暴言は聞き流してきた桜だったが、さすがに今の一言は聞き捨てならなかった。国主の姫君相手に、陰口ならまだともかく面と向かって「莫迦」と言う家臣がどこにいるのか。


 しかし朝景は今更気にした様子もなく、本当に、言いたいこと思ったことを言う。


「そう頭が回るのに、どうして家や国の行く末を案じないんですか」

「…………」


 一国のおびととは言え、その地位は青砥家によってお膳立てされたもの。油断大敵のこの時代、主家の意向に逆らえばどうなるか。


 結局は振り出しに戻った言葉に、桜はこれ以上の論議は御免だと踵を返した。その上で言う。


「言っただろう。『徳永の姫』はほかにもいる。それも美しい娘が。何も問題ない」


 とことん自分勝手な締めにやや気まずい空気が残ったが、この先は無言のまま進む。やがて、いくらもせずに朽ちかけた祠に辿り着いた。


 祭祀まつりも、その神名みなすらもとうに忘れ去られた古い祠の扉を、桜は躊躇なく開け放つ。中には、祭壇や御神体の流木だけでなく、古びた小袖や行李などが納められていた。


 勿論、神事に関係のないそれらは、この夜のために桜が朝景に命じ、あらかじめ隠しておいたものである。三枝国の京まで女の足で半月あまり、それなりに先立つものは必要だが、出奔当日にそのような大荷物を持って城を出てはいくらなんでも怪しまれる。童形の鬼の噂は、荷を隠した祠に人を近づけないためでもあった。


 曲がりなりにも一国の姫君らしい二綾の小袖から無地の継ぎ布の古小袖に替えるため、桜は朝景を祠の裏手に追い遣る。この日のために一人で着替える練習までしてきたのだから、どうあっても計画を変更するつもりはない。祠は中に人一人が入るにも小さすぎるため、表で着替えざるを得なかったが、この夜この闇、忍ぶべき人目もあるまい。――――と、思っていたのだが。


「……!?」


 格子戸を開けたままの祠を背に吉祥紋の帯を解き、洗いざらしの小袖に腕を通して無紋の帯を結んだところで、不意に視線を感じた。咄嗟に桜は首を巡らせる。


 背を向けるその瞬間まで、確かに誰もいなかった。気配すらも感じなかった。……だというのに、今、一人の童子が祠のきざはしに腰掛け、黒髪流れる桜の背を無言で見上げていた。


 混乱と羞恥に、桜は恐慌状態に陥る。


「……っ、だっ、誰だっっ」

「市姫様!?」


 上擦った桜の声に、祠の裏手の朝景も動く。桜は慌てて衿を整えた。それでも視線は童子から外せない。


(まさか、童形の鬼?)


 思わず、自分の流した噂を思い出す。あれは嘘だ。今宵城を抜け出すため、そして隠しごとをしたこの祠から人を遠ざけるための詭弁に過ぎなかったはず。


 そうしてよくよく見れば、一人前に小袖袴を纏う十を数えたほどの禿かむろの童子は、鬼……隠れたる者どもと呼ぶにはあまりにも生々しい存在感を放ってそこにいた。


 松明を手にした朝景も、その場にいたもうひとつの小柄な影に改めて目を剥く。


「な……、いつの間に」

「私が訊きたい」


 予想だにしなかった事態に、互いに動揺は隠せない。しかし頭上で狼狽する年長者二人に構わず、階から飛び降りた童子は闇の向こうに声を張り上げた。


「――――大姫様、前中将が参りました!」


 声変わりもまだの幼い声に似つかわしくない口調、そして台詞。


 けれども闇の向こうから、応じる声が上がった。


「……中将? ああ、よかった!」


 弾んだ舌足らずな声。間を置かず、灯りひとつ手に持たない尼削ぎの童女が、紅の被衣と小花柄の小袖の裾を乱して駆けてきた。


「中将!」


 続く想定外の展開に唖然とする桜と朝景を完全に無視し、現れた童女は同じ年頃の童子の首に抱きつく。幼い眼差しで幼い顔を覗き込み、やや芝居がかった口調で熱っぽく言い募った。


「……我儘を言って申し訳ありません、けれどもわたくしは、やはりあなたと離れたくない」

「私も気持ちは同じです。……大姫様こそ、本当によろしいのですか」

「勿論です。あなたと一緒であれば、どこへでも行けます」

「では参りましょう。……、…………おい、次の台詞は?」


 後半がらりと変わった童子の口調に、しおらしかった童女も甲高く喚く。


「ええー? 『いかなる鄙の地も、大姫様がおわすのであれば私には華の京だ』、でしょ! それで大君おおいぎみが……、…………えーと」

「おまえだって忘れてるんじゃないか!」

「そうじゃない、この次は写本によって微妙に違うの!」


 大仰な台詞から一転、年相応の口調で童たちは丁々発止と遣り合う。置いてけぼりをくらっていた朝景がようやく思考を整え、おそるおそる声をかけた。


「あー……、おまえたち、いったい何をしているんだ?」


 第三者の声に、童たちは揃って朝景を見上げる。真正面から見ると、二人は年頃だけでなく、顔立ちもよく似ていた。そして意外と冷静な声で口々に言う。


「駆け落ちごっこ」

つじの中将と藤代ふじしろの大君ごっこ」


 そこまで聞いて、桜は合点がいった。


「ああ、『辻中将物語』」

「は?」


 朝景は間の抜けた声を出したが、よくよく思い返してみれば、あれは王朝時代の史実を基にした著名な歌物語『辻中将物語』五段、身分違いの恋を咎められ東国の国守に左遷された中将が、その相手の大君と共に京から逃走するくだりだ。そう朝景に説明して、桜は短く呟く。


「おまえも昔、一緒に読んだだろう?」

「そんな一言一句覚えているわけがないでしょう」


 共に呆れ顔で互いを見返す桜と朝景を見上げて、童女が無表情にとんでもないことを言う。


「おねーさんとおにーさんも駆け落ちごっこ?」

「! まっ、まさかっっ」

「ばか、さくら。ごっこじゃなくて本物の駆け落ちだろ。野暮だな」

「なっ、ばっ、違う!」


 追い打ちをかけるような年端もいかない童子の台詞に、いい歳をした二人は慌てふためいて必死に否定する。しかし童二人は彼らの反応など寸毫たりとも意に介さず、童女が憤然と童子に反論する。


「先に邪魔してたのはかえでじゃないの。っていうか、何よばかって! 言っていいことと悪いことがあるでしょ、このばか!」

「いてててててっ」

「っ、こ、こんなことをしている場合か。早くここを離れないと」


 髪を掴み掴まれた童二人の視線が外れたことで我に返り、桜は朝景を急かす。


 いずれ美弥が、城の者たちを率いて探索のため戻ってくるはずだ。早々に雲隠れしなければ、すべてが水泡に帰す。しかし朝景は迷いを見せた。


「でも、この童たちはどうするんです。童とはいえ、立派な目撃者ですよ。……いや、童だからこそ始末が悪い」


 桜と朝景は今宵死んだ身なのだ。大人であれば金品なり暴力なりで口止めできるだろうが、幼子相手ではそれも難しい。


 二人の……おそらくは双子の童たちは、再びきょとんとした目で桜と朝景を見ている。無垢な、それゆえに読めない眼差し。


 桜は、――――にこりと笑い、膝を屈めて童たちに視線の高さを合わせた。瞬く朝景を無視し、殊更に華やいだ声で話しかける。


「おまえたち、『辻中将物語』ごっこをしていたのか。あの有名な『巴川ともえがわ』を」

「そう」


 五段の通称を桜が口にすると、片割れにかえでと呼ばれた童子がこっくりと頷いた。桜は更に笑みを深める。


「台詞まで暗誦するとはなかなか本格的だ。だけどあれは、京を抜け出し関所も越えて、巴川のほとりで追いつかれてしまうはず。どうせやるのなら、そこまでしないと」


 思案するように童二人が互いの顔を見合わせる。桜は続けて畳み掛けた。


「私たちは中の三州に向かう道中そこを通る。一緒に行こうか」

「うん。行く」


 桜の甘言と、それ以上に甘い最高の笑顔が警戒心を払拭させたか、そもそもそんなものは持ち合わせていなかったのか。些かも迷うことなく、奇しくも桜と同じ名で呼ばれる童女は頷いた。童子も異を唱えはしない。


 極上の笑顔を貼り付けたまま、桜は双子の小さな手をそれぞれに握って立ち上がった。一瞬で真顔に戻り、呆気にとられている乳兄弟を振り返る。


「透次は荷物を持て。計画通り、美弥が戻ってくる前にこの森を、国を出る」

「出るって、……その童たちを連れて行くつもりですか」

「連れて行く」


 目撃者を野放しにはできない。年齢的に口止めも、道義的に口封じも叶わない以上、手許につないでおくしか方法はあるまい。


 ……計画は完璧だったはずだ。自らの死を装い、国を出奔し、母を頼って京に上り、公家の庇護を得る。


 それが。国を出奔する前に姿を見られ、そのせいで人攫い紛いの行為まで犯す破目になってしまっている。


 朝景の溜息が聞こえてくるようだった。……と思ったら、本当に聞こえた。


「……だから言ったのに」

「喧しい!」


 出だしから想定外の事態に見舞われながらも、二人……否、四人は、夜明けと共に関所を抜け、なんとか無事に隣国九重国に足を踏み入れたのだった。

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