壱.図南の桜

一.乙亥年 雀始巣(すずめはじめてすくう)①

 轟音響く闇を前に、美弥みやは青ざめた顔で立ち尽くしていた。


 あまりの衝撃に、前にも後ろにも動けない。声も出ない。手の松明を落とさなかったのが不思議なほどだ。


 枝葉の繁る闇の向こうには、昨日までの雨で水嵩も勢いも増したままの広瀬川ひろせがわがある。……つい今しがた、大切な女主人と、その乳兄弟を呑み込んだ川が。


 だから言ったのだ。闇夜に乳兄弟と侍女だけを供に出歩くなど、いくらなんでも軽率に過ぎると。まして、輿入れを間近に控えた大切な御身であればなおのこと。その上、理由が「上城かみじょう山裾の森に童形の鬼が出没するという噂を確かめに行く」という低俗極まりない理由と来た日には、もう、もってのほかだ。


 鬼はおに、即ち、闇の向こうに隠れ潜むこの世ならざるものの総称。時に益をもたらし時に害をもたらす存在であり、伝説は枚挙に暇がないが、幸か不幸か、美弥は今まで遭遇したことはない。


 しかし女主人は、「八鍬の童形の鬼ということは、かつて坂田さかた将軍を迷いへと導いた天狗ではないか? そこで授かった宝剣で将軍は北の鬼王を討ち取り、名声を手にしたのだ」などと浅学の美弥には解らないことを嬉々として語り、自ら足を運んで事の真偽を確かめると言い出した。


 山奥に不自然に建つ御殿、そこを訪れた者は、富や権力など、望むものを手に入れられるのだという。しかし国主の正室を母に持つ才色兼備のうら若き姫君に、怪しげな伝承に縋らなければ手に入らないものなどあるのだろうか。


 けれども、時に「羽衣姫はごろもひめ」と称されるほど、天女の如く美しく、賢く、その分勝気で我儘な女主人を思いとどまらせることは、美弥には不可能だった。「青砥家に輿入れしたら、夜歩きどころかただ出歩くことすら難しくなるのだから」と、家の命運を背負って隣国に嫁する姫君に言われれば、いつものようにこちらが口を閉ざすしかなかった。


 だが――――その結果が、これだ。


 見えなかった分、鮮明に耳に残っている。土が崩れ、滑り落ちる音。甲高い悲鳴、鈍い水音。凍りついた美弥に松明を押し付け「美弥殿は下城しもじょうに戻れ、急いでこの窮状を伝えるんだ」と口早に残し、迷いなく闇に身を投じた乳兄弟の声も、「姫様っ」という叫びと水柱が上がる音のあと、ぱったりと絶えてしまった――――。


 そうして、美弥ひとりが残された。


「――――あ、あ……、ひめ、さま。国東くにさき殿、」


 ようやく、引き攣った声が出た。


 歯の根は震え、足許も覚束ない。それでも自然と、一歩後退る。


 一歩動ければ、あとは簡単だった。呪縛から解き放たれたように身を翻し、唯一の灯りである松明を恃みに城へと駆け出す。


「……っ、だっ、誰か! 誰か!! ひめさまが、姫様が――――!」


 やがて夜が明けたのち、下流で岸にあがった被衣かづきだけが発見されることも知らず、美弥は声の限りに援けを求め走り続けた。

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