傾国の花
六花
序.
某年 蛙始鳴(かわずはじめてなく)①
「――――おちか」
懐かしい声に名前を呼ばれた気がして、
夢見心地のまま、緩慢な動作で脇息から身を起こし、声の主を求める。そうして彷徨った視線が捉えた馴染み深い顔に、思わず本音が漏れた。
「…………なんだ、ライか」
「『なんだ』ってどういうことだ、『なんだ』って」
寝起きの無意識とは言えいきなり暴言を吐かれ、千花と同じくらい歳若い眉間に皺が寄る。当然と言えば当然の不機嫌な反応に、ようやく頭が醒めた千花は素直に謝った。
「ごめん。――――久しぶり」
まどろみの淵で思い描いた顔ではなかったけれど、彼もまた、会えて嬉しい相手であることに変わりははない。小さな落胆は胸の底に沈め、あどけない少女そのものの笑顔で広縁から改めて歓待すると、濡縁に腰掛けたライこと
わん、と一声鳴き、同じく寝ていたはずの
その様子を微笑ましく眺めながら、千花は浅い眠りに就く前のことを思い出してみる。
まだ天気も気温も安定しないこの時節、昨日は昼は快晴だったものの夜明けと夕方には大粒の雨が降った。しかし今日は、雲ひとつない、とまでは言えないものの、朝から気持ちのいい晴天が続いている。
少し早いおやつに好物のきんつばが出て、自室で上機嫌でふた切れ頬張ったあと、中庭を吹き抜ける風に誘われて北向きの広縁に足を向けたのだが、特別すべきこともしたいこともない。読んでいた草双紙も、ようやく三日前に読破して昨日貸本屋に返却してしまった。
瑞々しい新緑が心地よい陰をつくる中庭を挟んだ向かいの縁の下では、颯太郎が四肢を折って健やかな寝息を立てていた。脇息に凭れてその灰茶の毛並みをぼんやりと眺めているうちに、いつの間にか自分もうたた寝してしまったらしい。
そして、夢うつつに、懐かしい声を聞いた。
あたしのこと呼んだ? と千花は頼晏に聞こうとして、やめた。知らず、左耳の下、花結びの元結に触れる。お世辞にも濡烏とは評せないが絹糸のようにやわらかな髪は、流行りの形に髷を結わず下ろしたまま。当然櫛も簪もなく、朱に金糸を編んだその組紐が唯一の飾りだ。
そして頼晏なる法名を名乗る少年も、
問う代わりに、千花は当たり障りのないいつもの言葉を口にする。
「元気そうでよかった」
「ああ。おちかも颯太も、相変わらずみたいだな」
頼晏の返しもいつもと同じだが、口端に滲んだ笑みがやや皮肉げに見えたのは、先程の開口一番の失言のせいだろうか。
遊行僧である頼晏は、編笠と錫杖を携えて
「どの辺りに行ってたの?」
「
そんな彼が今回も顔を見せてくれたことは嬉しいのだが、ほんの少し口惜しい気がしないでもない。その理由は。
「でも残念。もう少し早く来てくれれば、一緒にお花見できたのに」
今は萌え出ずる若葉の青さが眩しいうららかな日和だが、一月前の僅かな間、国内の主役は断然、桜だった。城下でも城内でも、規模の大小に関わらず連日観桜の宴が催され、千花も颯太郎もたびたび足を運んだ。
桜と言えば、普通はほのかに紅みを帯びているものだが、榎本城奥殿の庭園に植えられた桜は、ひときわ透き通るように白かった。けれども地面に降り積もった花弁を見れば、やはりほんのりと色づいている。雪に馴染みのない国の人が想像する雪の花はこんな感じなのかな、と宴の末席で、千花は一人季節外れなことを考えもした。
春のひとときだけでは勿体ない、ずっと満開のままでいてほしい、と毎年思う。しかし風に舞い散る姿がまたひときわ優美で、更には地面に降りしきった様子さえ豪奢なものだから、悩みどころだ。
だがそうして悩んでいるうちに瞬く間に花桜の季節は過ぎ去り、今は葉桜、既に空の青にも夏の色が滲み始めている。そろそろ始まる長雨の季節を過ぎれば、本格的な夏の空となるだろう。
「花見って言えば」
颯太郎の相手をしながら、頼晏が口を開く。
「桜っていろんなところに植えられているだろう? 屋敷の庭先とか寺社の境内とか、街道沿いとか川べりとか。……だけど東の八州のある地方には、殆ど桜の木がないし、花見と言えば未だに梅の花のことを言うんだってさ」
かつての王朝時代には、花といえば桜よりも梅が愛でられ詠まれていた。それはともかく、頼晏の「土産」が始まる気配に、千花は居住まいを正す。
気儘に諸国を巡る頼晏は、全国の様々な土産物を抱えて榎本城奥殿を訪れる。一見面倒くさがりのようでいて、意外と面倒見のいい性分なのだ。今日の薬玉文様の振袖……は城の者が仕立ててくれた品だが、そこに焚き染めた荷葉の香も、そのために使った花柄の鞠香炉もそうだし、今も墨染の背後に転がる布袋には、どこかの国の名物珍品が入っているのだろう。それも勿論嬉しいのだが、千花がいちばん楽しみなのは、彼が各地で見聞きした伝承や逸話などの土産話のほうだった。
「勿体ないなあ、あんなにきれいなのに。どうして?」
幼子のように期待に胸を弾ませながら千花は先を促す。東の八州、即ち東林道の
自身の話に興味津々な眼差しを向けられれば、悪い気はしないだろう。しかし頼晏は特段照れたり得意げになったりといった様子もなく、淡々と語りを続ける。
「戦乱時代、東の八州の国主だった
天下争乱、群雄割拠、裏切御免、下剋上上等。
今は天下泰平のこの洲にも、かつては血で血を洗う修羅の時代があった。
この治世安楽は、名もなき数多の屍の上に築かれたものなのだ。
「青砥家の機嫌を損ねた徳永家も数年後に落城して滅亡した。そしたら花は咲かないのにやたらと虫が湧くようになって、桜の木は全部伐採されてなくなった。望まない輿入れを強いられて死んだ一の姫とその死が遠因で滅びた徳永家、それぞれの呪いのせいだ、っていう話」
「まさに傾国の美女ね」
その美しさひとつで家の運命を狂わせた。きっと、花の
「でもなんで、そこまで嫁入りを嫌がったのかな」
国主の娘ともなれば政略結婚が当たり前。それは戦乱時代のみならず、更に前の王朝時代から今に至るまで変わりのないことだ。
「さあ。いろいろ説はあるみたいだけど、でもこういう場合って、だいたい理由はひとつだろう」
「……ほかに想い人がいた、ってこと?」
当たり前だろうが変わりのないことだろうが、人には心がある。それを貫き通すか蓋を閉めるか、違いはそれだけのこと。
それに何より、千花も女、綺麗なものと恋の話は大好物である。
「物語ならそういう筋書きになるんだろうけど、実際はどうだか。そもそも、
「でも、事実は小説よりも奇なり、でもあるでしょう?」
「まあ、
判官贔屓の語源となった王朝時代末期の悲運の武将を持ち出し、頼晏はそれこそ哀悼を込めた祈りのような伝説を口にする。
「何しろ判官と同じように、一の姫にも生き延びたっていう伝説があるんだから」
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