オオカミの皮をかぶった羊 5

 携帯のバイブ音で、重い瞼が起き上がる。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。BGM代わりに流していたお気に入りの映画はとっくに終わっていたようで、テレビ画面にはホテルのCMがだらだらと流れていた。

 寝ぼけまなこを擦りながら携帯画面を見ると、酢谷からの連絡だった。「ごめん。」たった三文字の通知の上に浮かぶ時刻は、夜中と言うにふさわしい時間だった。

 酢谷はいつだって、謝ってばかりだ。謝るのはこっちなんじゃないか、と思うときだって、酢谷は謝る。「ごめん」という素直な謝罪が、暴力になり得ることを知らない男なんだろう。

 大体、謝るならせめて主語が欲しい。なにがどうなって謝るに至ったんだ。こういうところが、本当に嫌いだ。だって意味も提示せずに謝られたら、ひとまずこっちはゆるさなきゃいけない。ゆるして「いいから、なにがあったの? 」というワンクッションを挟まなきゃいけない。そういうのが面倒で苛立つんだよ。

 なんて、酢谷特有のこういう面倒な時間も愛おしく思えない奴が人生の伴侶になろうだなんて、やっぱり間違っている。「お前は間違っていないよ」。携帯を握り締めながら自分の選択を否定していたはずのに、都合のいい幻聴が耳の奥に囁きかけてきた。


 いや、これは幻聴じゃない。数ヶ月前、現実で伊藤から言われた言葉だ。「お前は悪くない。言えない傷があるんだろ。その傷を癒すための選択なんだろ。」伊藤の言葉は自分に言い聞かせるように重く、ひと呼吸毎に私の心臓を傷付けた。

「あいつもお前も、『自分の幸せ』のためにこの道を選んだ。俺がそれを責めたり否定したり、できるわけねぇだろ。」でも。よせばいいのに私は口を開いた。「でも、私は酢谷を好きになれない。酢谷だけじゃない、人を好きになれなくて、それでも自分を守るために結婚しようって……! 」

 なにを思ってあんなことを言ったんだろう。一文字発する毎に、伊藤の顔がぐにゃぐにゃと歪んでいったのに、私は勝手に動く自分の口を止められなかった。「いいよ、別に。」為す術なく縋るように伸ばした私の手に、伊藤のごつごつとした指が触れた。演技以外で異性に触れるのは随分と久しぶりかもしれない、と気付いたのは、伊藤が口を開いてからのことだった。それくらい、私にとって伊藤は異性というカテゴリーから外れていた。

「そりゃあ本当なら、どうせ失恋するなら『せめて俺よりもあいつのことを好きな人』を選んで、愛されながら生きてほしいけど、それも俺のエゴだし。あいつが選んだ相手が、あいつにとって幸せならそれが一番だし。」伊藤自身きっと気付いていない癖。語尾に何度も「だし」をつけるとき、奴は自分に言い聞かせているのだ。その言葉の矛先が私に向いているわけではない。

 わかっているのに、私はしっかりと傷付いていた。傷付く権利すらないとわかっているのに、傷付いていた。「『誰か』に愛されるより、『お前』を愛する方が、あいつにとっては掴みたい幸せだったんだろ。」

 そんな寂しいこと言わないでよ、なんて、言わせているのは自分のくせに、言いそうになった。


 伊藤と酢谷を見ていたら、つくづく思う。あなたがいないと息もできないなんて恋、しない方がいい。あなたがいれば空気が美味しい。そう思えるくらいが、ちょうどいいんだろう。


 伊藤は以前、「嫌いなところも全部しょうがないってなって、それがいつの間にか全部好きになる」って言っていた。どうしようもなくて、でもそれが恋なんだと思うって。

「恋だけで人と繋がるわけじゃねぇし、恋や愛が一番なわけでもねぇだろ。」高校生の頃から伊藤はそう言っていたけれど、その表情はわかりやすく歪んでいた。わかってる、伊藤は酢谷の全部を好きでい続けたかったし、全部好きになってほしかったんだ。他でもない、私の婚約者に。

「だからさ、稲垣。」ねぇ、伊藤。あんたは嫌がるだろうけど、酢谷とあんたも似ているところがあるんだよ。そうやって、話しかけるとき語尾に「さ」ってつけるところ。まるで聞き分けの悪い子どもに言い聞かせるような口調は、もしかしたらあんたから酢谷に移ったのかもね。そのうち、私にも移るのかな。

「あいつの隣で、勝手に幸せになってやってよ。」その言葉を聴いて、私はようやく視線を手から伊藤の目へと移した。そしてやっと気が付いたのだ、伊藤の顔は、歪んでなんかいなかった。歪みだと思っていたのは、下手くそながらに穏やかな、伊藤の微笑みだった。



 この世には「当たり前のこと」がたくさんある。「男の子は女の子が好き」「人間は恋と革命のために生まれてきた」「女として生まれたからには、女として生きなければならない」。そんなことは全部全部当たり前で、それこそそうじゃないことは、青い雪とか緑色の空とかみたいにありえないことで、あってはいけないことなのだ。

 それでもそんな「当たり前」が嫌いな人だって、当然いる。太陽が射す青空は当たり前だけど、日光アレルギーの人だっている。地方じゃ車を持っていないと生活できないけど、運転ができない人はそれなりになんとかして生きている。

 だから私だって、恋愛が嫌いならしなきゃいいんだ。無免許で運転ができなくて生きにくいなら交通の便がいい都会に引っ越すか、苦手でも勉強して運転免許を取って車を買えばいい。どちらかなんだよ、苦手を克服して当たり前に迎合するか、自分を通して後ろ指を指される覚悟を決めるか。

 なのにどこまでもどっちつかずな私は、嫌いだという感情をさらけ出したまま、当たり前に迎合するふりをしている。自分を通しているのに、それを否定されるのは怖い。スポットライトが当たっている場所では毅然と演じられるのに、日常では臆病になってしまう。

 それを隠したいから、酢谷の恋愛感情を利用して、酢谷の視線をスポットライトに見立てて普段から「稲垣莉央」を演じようとしている。伊藤はきっと、それを全部見抜いているんだ。私の浅ましい処世術を見抜いて、でもその上で否定しない。でもそれはきっと、友人としての優しさなんかじゃない。

 あぁ、そっか。なんかようやく、ほんのちょっとだけ、恋愛ってものが理解できたかもしれない。

 好きなところも嫌いなところもあって、嫌いなのに好きで、でも仕方ないって思えて、結局全部好き。忘れたいのに目で追ってしまう。想えば想うほど苦しいのに、想わずにはいられない。私もそれに似た想いを、抱いているじゃないか。

 そっか、私はずっと、私自身に片想いしていたんだ。



 携帯が、鳴る。また酢谷からの連絡だった。「今からそっち行ってもいい? 」いつの間にか随分と時間が経っていたようで、空にはうっすらと赤みが射していた。

「いいよ」。短くそう返事すると、既読はすぐについて、犬がしっぽを振っているスタンプも返ってきた。私が一度「酢谷に似ている」と言ってから、多用しているシリーズのスタンプだった

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