オオカミの皮をかぶった羊 6

「いながき。洗いもの、もうそっちにない? 」やめてと言っているのに、酢谷はいつまで経っても私をひらがなで呼ぶ。いや、私だけじゃないか。酢谷は伊藤のこともひらがなで呼んでいたっけ。

 名前といえば。はたと思い出し、腰をぐるりとねじって後ろを振り返り、キッチンで洗いものをする酢谷に呼びかけた。「そういえばさ、伊藤の名前って『かお』じゃないの? 」「んー? なんで? 」質問が聴こえていようと、酢谷はまず『理由』を訊き返す。これも当人が気付いていない、嫌な癖だと思う。

「招待状のリスト。夏に生きるで、『かお』じゃないの? 」学生時代、一匹狼だった伊藤のことを名前で呼ぶのは酢谷くらいなものだったし、まぁ変わった名前ではあるけれど、読めなくはないから当然本名で呼んでいるのだろうと思い込んでいた。

「あぁ……違うよ、『なつお』。」なのに、結婚式の招待状リストに書かれた伊藤の名前には、私が思っていたものとは違うルビがふられていた。わけがわからず猜疑の目を向ける私にちらりとも視線を向けず、酢谷は靴下を履いた足を机の下に突っ込むようにして私の右手側に座り、リモコンでテレビの電源を入れた。

 リビングのテレビの向かい側に置かれたローテーブル。テレビから見て左側が酢谷の定位置で、テレビの正面の一番いい座椅子が置かれた場所が、私の定位置。いつの間にか決まっていたものだった。

「へぇ。てっきり『かお』だと思ってた。」なにも気にしていないかのような声色で言えば、「よく言われる。なんで違う名前で呼んでんの? 怒られねぇの? とかさ。」お茶を飲みながら、酢谷もなんてことないかのように言った。

 慣れているんだろう、こういう、幼なじみならではの追憶に。「じゃあなんで、『かお』なの。」しまった、まるで怒ったような、責めるような口調になってしまった。こういう細かい変化に気付かない酢谷じゃない。

 慌てて口もとを押さえるが、当の酢谷はテレビに釘付けみたいだった。「……どうした? 」酢谷が私の声に全部の神経を集めていないなんて初めてのことで、思わず私も視線をテレビに向けた。


 テレビでやっていたのは、なんてことないただのニュース。……いや、なんてこと、なくはないか。それはまるで、映画の中に出てくるようなニュースだった。

「今日未明、石川県警───署にて、遺体を抱えた男が出頭、自首したとのことです。男は『自分が殺した。数年前から何度か殺人を犯している』と話しているとのことで、警察は、死体遺棄と殺人の容疑で男を逮捕しました。また、男が出頭した際に抱えていた遺体の男性ですが、戸籍が存在せず、捜査は難航しているとのことです。男性は数種類の名前を保持しているとの情報から、ふたりの間に何らかの確執があったのではないかと考えられています。」

 映画みたいな話だね、だとか、地元だね、なんて。そんなことを、言おうとしたんだと思う。でもそんな風に浮かんだ小さな台詞も、酢谷の口から出た蚊の鳴くような声で掻き消されてしまった。「……小野。」あれだけ嫌だと言っても私の名前をひらがなで呼ぶくせに、酢谷の口から出た呼び名の発音は、漢字のそれだった。

 酢谷の視線は、もう既に次のニュースへと映り変わったテレビ右下─── ちょうどさっきまで男性の写真が映っていた部分───に注がれており、その首の角度はいつまで経っても変わる気配すら無かった。

 どれだけ目を凝らそうとも、当然そこにさっきまで映っていた男の顔が浮かび上がるわけではない。小野……、酢谷の知り合いにそんな男がいただろうか。

 ひとたび気になるとどうしようもない。スマホに手を伸ばし、件の事件のことを調べようとした矢先、「何の話だったっけ。」テレビが消された。「かおの話? 結婚式に呼びたくなかった? 」

 酢谷の視線は既にこちらへ注がれており、身体の角度も完全にこちらを向いていた。テレビの画面は真っ暗だし、酢谷の目にはなんの曇りもなかった。……いや、逆に曇りだらけで、真っ暗に見えただけかもしれないけれど。

 なんかそんな目を見ていたら、くだらない好奇心なんてどうでもよくなった。両手で抱えるように掴んでいたスマホの画面を下に向け、机に置くと、私は再びペンを握った。「別にいいよ。で、なんで『なつお』が『かお』になったの? 」

 酢谷の両手は机の上で組まれ、肘をつきながら口をぷくりと膨らませ、きょろきょろと視線を動かした。もう長い付き合いだ、これが『ごまかし』でないことくらいはわかる。ただ本気で、この男は忘れているだけで、必死にそれを思い出そうとしているのだ。

 それがわかっていたから、酢谷の視線の先を追うこともせず、ただ怠惰に言葉の続きを待った。ペンを紙面に走らせながら、こうやって時間を共に過ごし続ければわかることも増えるんだろうか、なんてくだらないことを、ぼんやりと思う。

 だからなんだって言うんだろう。どう足掻いたって、こいつの恋心に寄り添うことも、こいつと伊藤の距離を推し量ることもできやしないのに。「……なんで、だっけ。」リストの精査が一枚分終わったところで、ようやく酢谷は音を上げた。疑問の形をしていた。

 「……いや、知らないよ。」抑揚のないトーンで答えてしまうのも、仕方がないだろう。そんなの、私が知るはずもない。幼なじみ特有の距離感、記憶。触れたことのないものだし、別に触れたくもない。

 ただでさえ惨めなのに、これ以上疑問という形で私の惨めさを浮き彫りにしないでほしい。「えぇ……なんでだっけ。考えたこともなかったぁ……。」そう、やる気を全部放り投げたような声で言いながら、酢谷は気だるげに突っ伏した。もうコタツには熱い季節になったのに、酢谷はいつまでたっても片付けそうになかった。


 なんで。酢谷にそう訊きたいことはたくさんある。ありすぎて、数え切れないほどだ。

 なんで私を好きになったの? なんで私の名前をひらがなで呼ぶの? なんであの日、あの場所にいて、しかも私をホテルやカラオケみたいな個室に連れて行かず、夜が明けるまでファミレスで時間を潰してくれたの? なんで私のことをわからないと言いながらも、酢谷なりの言葉で肯定してくれたの? ねぇ、なんで。

 なんであんたたちの思い出は、記憶より向こう側にあるの。

 なんでそんなに深く愛してくれる人の手を、簡単に手放せるの。


 なんて、くだらない質問は全部全部飲み込んで、「ふうん」あんたになんの興味もありませんって顔をして、ペンを走らせる。あんたに興味がある私なんて、酢谷は求めちゃいないでしょ? 愛も恋も視界に入れずスポットライトの下で私を演じる私が好きなんでしょ?

「いながき。」声にはっとして酢谷の方を見れば、迷う私の奥を見透かしてか、酢谷は真っ暗い目でこちらを見つめていた。


 ぞわっとした。この男はたまに、こういう目をすることがある。こういう目をする酢谷に触れるたび、「どうして伊藤はこんな男を愛せるんだろう」ってわからなくなる。

「いながき、ごめんね。」鳥肌が立って、動けなくなる。この硬直の理由を、私は知っている。

 酢谷の身体が、近づいてくる。ペン先と口の中が乾くのがわかる、声が出ない、瞬きすらできない。

 酢谷の顔が、目の前すぐまで来て、ぴたりと止まった。私はというと、肩で息をしても足りないくらい酸素がない世界に置き去りにされていて、ただひたすらに苦しかった。なんとか言ってほしかった。このまま沈黙の中にいるのは苦しかったし、だからと言って自分から言葉を発せられるほど酸素を取り入れることもできそうになかった。


「……いながき。」なんで、どうしてあんたが泣きそうな声するの。泣きたいのはこっちなんだけど。

「おれ、ずっと片想いでもいいから。」それだけ言って、酢谷の身体は離れていった。「ほら、片想いが一番楽しいって言うじゃん。だから気にしなくていいよ。だからさ、」あぁ、嫌だ。そうやって無垢な善意で、綺麗な愛情で、これ以上私を傷付けないで。

「だからさ、幸せになろうね。」


 ちがうんだよ、酢谷。私が欲しいものは、きらきらとした純粋無垢なプロポーズなんかじゃないの。

 諦めたように吐き出すような、頑張って幸せを掴むんじゃなくて突き進む方向が地獄だったとしてもがむしゃらに走れるような、そういう言葉が欲しいの。気を抜いたら「稲垣莉央」という舞台を降りちゃうような、そんな柔らかい愛情なんかいらない。「勝手に幸せになって」とか「勝手に孤独で悩んでいろ」とか、そういう弱い私を鼓舞してくれる言葉が欲しいの。

 でもその言葉をくれる人は、私の透明マントにはなってくれない。でもその言葉をくれる人は、絶対に私の優先順位を一番にしてくれない。あいつを透明マントにして、酢谷と伊藤の複雑な想いを無下にしたら、きっと私は弱い自分以外を演じられなくなってしまう。それくらい、自分がゆるせなくなる。だから、これでよかったんだよ。これが一番なんだよ。

 なんて正当化しながら、私を傷から守ってくれない人を欲して、人生を賭して傷から守ってくれる人を拒絶するなんて。

 やっぱり謝るのは私の方なんだよ、酢谷。 

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