オオカミの皮をかぶった羊 2

 伊藤夏生に昔、言われたことがある。「最高の俳優になるなら、銀幕のスターになるなら、監督を惚れさせろ。」なにそれ、マクラをしろってこと? 「ちげぇよ。ジョー・ライトとキーラ・ナイトレイ、ポン・ジュノとソン・ガンホ、ティム・バートンとジョニー・デップ。何度もタッグを組みたいと監督に思わせる俳優は強い。監督が全力で俳優を魅力的に撮ろうとする。たった一人でもいい、映画監督を心酔させろ。」

 マクラを揶揄されたことは多々あれど、惚れさせろと言われたのは初めてだった。そう語る伊藤の目は力強くて、自分の奥にある感情が武者震いしたのを感じた。


 私は別に、強くなんかない。わからない自分のために努力できる自分が、好きなだけ。それを言うと、ナルシストだなんだと言われるから、絶対口には出さないけど。

 口に出した言葉って怖い。口に出した瞬間、私の中からはいなくなるのに、人の記憶の中には残る。何気なく投げたボールが、見えないくらい遠くに行っちゃったみたいな怖さ。そしてある日突然、そのボールを持った人が目の前に来て「あなたから貰ったものです」って渡してくる。そういう怖さを、普通の人は抱えずに生きているんだろうか。正直、羨ましくて仕方がない。

 でも伊藤は、伊藤夏生は、そういう怖さを理解しているように思えた。愛の告白っていう言葉のボールを、宝箱に入れてずっとずっと自分ひとりで抱えている姿は、傍から見たら滑稽ですらあったけど、私は『なんて健気な臆病者なんだろう』って、いじらしく思っていた。

 伊藤と話せば話すほど、この人は必死に取り繕っているけど、臆病なんだとわかった。それでも強く見られたいし、強く生きたいと思ってしまう人。溢れすぎてるくらい幼なじみへの愛が溢れているのに、必死に隠して自分だけのものにしている人。不器用なのに賢い人。

 口を開けば悪態しかつかないのに、そんな伊藤に対して、似た感覚を持った人だと感じてしまった。ずっといると信じていたけど、周りから否定されてきたサンタさんに出会ったような感覚。ときめきだけどピンク色じゃなくて、嫌いだけど心地いい。伊藤といると、そんな不思議な気持ちになれた。

 だからむしろ、酢谷は邪魔だった。伊藤は酢谷が好きで、酢谷は私が好き。でも私は恋愛ができないししたくもないから、みんなの感情がふよふよと宙に舞うだけ。酢谷が伊藤の方を向いてくれれば、それで全部全部丸く収まるのにな、なんて。

 今思えばお気楽だった。だってそんなことを思いながらも、私はふたりの『恋する顔』を研究材料にしていたんだから。


 道ならぬ恋を宝物にして自分だけの秘密にする顔も、毎日目を合わせば馬鹿の一つ覚えみたいに好きだ好きだと言ってくる顔も。『自分の中で沸き上がる感情』として経験できない私としては、ふたパターンの異なる恋愛表現が見られるなんて最高の特等席だった。

『ガラスの仮面』の姫川亜弓は、自分に気のある相手にわざと思わせぶりな態度を取って恋に落とし、その表情を間近で見て『恋する表情』を学んだという。じゃあ私だってできるはず、いや、やらなきゃ。ただでさえ私は、恋愛の演技においてのスタートラインがみんなと違うし、『要領も悪い』んだから。

 最初はそんな、気合いというか、意気込み程度のものだったのに。いつの間にか、形も大きさも変わってしまった。「いながき。」



 改札口でスマホをタッチし、イヤホンで鳴らす音楽を変えようとしたら、その隙間を縫って誰かが私の名前を呼んだ。「おかえり、いながき。」

 声に向かって顔を上げれば、口で『ん』の字を描いたようにして微笑む酢谷が、立っていた。それを察してか、私の周りは一気に道が開ける。それはさながらモーゼが海を割ったときに似ていて、なんだかおかしかった。

 今の私の『透明マント』はこの人なのかもしれない。なんでこうなっちゃったのか、なんて、どれだけ過去を思い出そうとしてもイマイチわからなくて眉をひそめてしまうけれど、私がこの人を透明マントにしてしまったことには変わりない。

「荷物、持つよ。」「いいよ、これだけだし。」肩にひとつかけられただけのバッグすらも取ろうとする酢谷に対し、右手でバッグを担ぎ直す。それが抵抗に見えたのか、酢谷は下唇を口内に入れた。

 こういうところも、伊藤なら愛おしく思うんだろうなぁ。なんて、壊したのは自分のくせに、余計な感傷にふけってしまう。壊した自分は、たったひとつの軽いバッグすら持とうとする酢谷に対して、馬鹿にしないでよなんて山口百恵みたいなことを思っちゃうくせに。


 結局、私は変われなくて、変わりたくもなくて。こんなとき、見えないしっぽに押し負けてバッグを渡すこともできない。むしろわざとらしくまた肩にかけ直して、すたこらと迎えに来てくれた酢谷を置いて帰路を急いじゃうんだ。

 こんなやつ、やめた方がいいよ。なんで好きになっちゃったの。なんでプロポーズなんかしちゃったの。

 自分の『責任』を全部全部見えない棚の上に置いて、背中の後ろからついてくる私より身長の高い男を責めてしまう。責任なんか嫌いだ、でも生きていたら、責任はつきものだから。

 私が一生癒えない傷を背負ったのも、私が俳優になって女として生まれた責任。私がひとりじゃ背負えない傷に、一丁前に傷付いてしまって彼を巻き込んでしまったのも、全部私の責任で、私はその責任を背負い続けて死へと生き続けなきゃいけない。

 好きになった責任とか、思ってんのかな。いつの間にか隣まで追いついてきた酢谷をちらりと見上げながら、ふと思った。

 こいつと大事な話なんて、なにひとつしていない。好意はあるけど、恋してもいないし愛してもいない。ある日突然、全部を忘れたように捨てられても、使っていたペンをなくしたくらいの寂しさくらいしか感じないんだろう。

 そんな自分が嫌になるし、冷たいとも思う。だからこそ、私のことなんか好きにならないでほしかった。私は誰のことも恋愛的な意味で好きになれないんだから、私のことだって誰も好きになんかなってほしくないんだ。


「じゃあ手を離してやればよかったじゃない」。唐突に、背後から幼い女の子のような声で叱責される。思わず勢いよく振り返ったが、そこにはただのどかな日常が流れているだけだった。

「稲垣? 」最近、幻聴と頭痛がひどい。薬指に指輪がチラついてから、ずっとだ。なんでこんなものを嵌めちゃったんだろう。自分の人生を他人に明け渡すなんて、他人と一緒に過ごしていくなんて、怖くてしょうがないのに。


 こんなことなら、せめて伊藤にしておけば。なんて、思い浮かんでしまう私はやっぱり最低で、地獄に堕ちるべきなんだ。「……大丈夫? ちょっと休もうか? 」

 いい人なんだ、いい人なんだよ、ムカつくくらい。こういうとき、下心のある男ならカラオケやネットカフェ、もっとあけすけならホテルを選ぶだろう。疲れたんだね、休もうか、なんて言って手を引きながら、問答無用で個室に連れ込んで押し倒すんだろう。

 でも酢谷は違う。酢谷は許可なく触れないし、休もうかと言って指さした先にはただ一個ベンチがあるだけ。控えめにコートの裾を引っ張るだけで、指にすら触れない。

 その遠慮は私の傷を知っているからこそなんだろうけど、そうじゃなかったとしても残酷なまでに優しいこの人はきっと同じように接してくれるんだろう。そんな確信すらあってしまう。

 だからこそ、嫌なんだよ。綺麗な人に愛されると、自分の汚い部分が浮き彫りになる。目を逸らし続けてきた汚い部分に、直面しなくちゃいけなくなる。

 それでも私が拒絶できないのは、綺麗な人に愛されることで周りから私も綺麗だと思われたいからなんだろう。あぁ、どこまでもとことん醜くて、反吐が出る。



「はい、水あるよ。飲める? 」わざわざキャップをゆるめた状態で渡してくれる行き過ぎた優しさも、私だけをベンチに座らせて自分は正面に屈む尽くし方も、はたから見たら理想なんだろう。

 身長だって、高いとは言えないけど私よりは高いし、金銭面や仕事だってエリートではないだろうけど、一応俳優としてそこそこ稼いでいる私からしたら、大した問題じゃあない。顔の善し悪しはわからないけれど、ころころ変わる表情は可愛らしいし、実際高校時代もある程度はモテていた。本人は知らないだろうけど。

 手放してあげたら、幸せなんだろうなぁ。できもしない空想が頭をかすめ、「ごめんね」ただなんの意味もない謝罪だけが口唇の隙間から漏れ出る。「謝ることないよ、大丈夫? なんか欲しいものとかない? 」

 せっかく社員にまでなったのに、『できる限り稲垣を支えたいから』と仕事を辞めてくれた。『深い意味ないよ、おれ、ふたつのこと同時にできないし』と言っていたけれど、ひとり暮らしの期間が長かったり飲食店で働いたりしていたためか、酢谷は意外と家事もできる。

 当人の自己評価はともかく、酢谷は幸せになろうと思えばなれる人間なのだ。それだけのポテンシャルは持っている。

 なのに、伊藤や私のような人間に捕まってしまったせいで、幸せからはかけ離れた場所に拘束されてしまっている。「いながき? 」気を抜くと丸い発音で人の名前を呼ぶよね、と、だいぶ前に酢谷に言ったことがある。そして同時に、それやめて、とも。

「……あっ、稲垣。」過去の忠告思い出したのか、下唇を口内に一度含んで言い直す。「なんか甘いものでも買ってくるよ。いつものチョコでいい? 」目も合わせられない私と、無理に目を合わせようともせず、でも優しい視線で反応を待っているのがわかる。

 その残酷なほどに痛い優しさに押され、小さく頷くと、「うん、じゃあちょっと待ってて。」酢谷は立ち上がってどこかへ行った。どこか、と行ってもすぐ近くにコンビニはあったし、比較的人目のある駅前だから、そこまで後腐れなく場を離れたのだろう。


 酢谷が渡したまま手をつけていない水のペットボトルを両手で持っていると、ふと変なことを考えてしまった。このまま酢谷を置いて、どこか遠くに行ってしまおうか。ペットボトルだけを視界に入れて、他のことなんかなにひとつ視界に入らないようにしているからか、ぐわらんぐわらんと重い逡巡が脳を支配するようだった。乗り物酔いしたときのような、気持ち悪さだった。

「お姉さん、体調悪いの? 生理? 」だからだろうか。突然横に座ってきたへばりつくような気持ち悪い声も、気付くまでに少し時間がかかってしまっていた。「大丈夫? 看病したげるよ、ほら、おいでよ。」右腕を掴まれた拍子に、ゆるんだままだったペットボトルの蓋がバランスを崩し、水がこぼれた。

「あーほら、お姉さんボーッとしてるから。服も濡れちゃったし、休憩していくしかないね。」俺ん家近いんだよ、お姉さんよく見たら可愛いし、ちょっと休んで行こうよ。

 気持ち悪い言葉も全部、汚い私を汚い色に染めていくようで、こういう人といたら自分の汚さを見なくて済むのかも、なんて。触られただけで気持ち悪いのに、それ以上のことをしてこようとする相手に対してそんなことを思ってしまった。そんなの、酢谷に絶対聞かせられない。

「無理。」できるだけ短く拒絶したのに、相手の耳には届かなかったらしい。「大丈夫、怖くないよ、俺優しくするから。」優しくすると言うなら、このまま私を地獄に連れて行ってほしい。そして一生私の視界からいなくなってほしい。あぁ、いやだいやだ。どうして私はこんなに、人が嫌いなんだろう。

 そう思うと、ぼろぼろと涙が溢れて、そして同じくらい笑えてきた。「……っ、ふは……ははっ……! 」理想の中の自分は、こういうときも毅然と手を振り払って、水をかけるくらいしてみせるのに。本当の私は情けなくて弱くて、透明マントを手放すこともできない。

 ねぇ、お願い。早く戻ってきてよ。早く戻ってきて、私をみんなの視界から隠してよ。そのためなら、一生あんたの視線に照らされたっていいから。


「……は? なに、こわ。イカレ系かよ。」あんなに力強く掴んでいた手をあっさり離し、男は軽蔑するような目を向けて、すたすたと去って行った。へぇ、変なの。あのときは泣いても泣いても、身体さえあればって笑いながら離してくれなかったのに。男にも色々いるんだなぁ。

「稲垣? ただいま、大丈夫? 」力なく膝をつき、まだ震えと涙と渇いた笑いが止まらない私に声がかけられたのは、一分程度経ってからだった。乱暴な男に絡まれたときに、自分のことを好いてくれている男が助けに来るなんてドラマの中だけの話だし、もっと言えば酢谷があの場に居たとしてもあいつは引き下がらなかっただろう。

 ああいうやつはしつこくて、自分の非を絶対に認めない。わかりたくもないのに、過去の経験から私はその摂理を理解してしまっている。

「い、いながき? 大丈夫? さむい? 」あぁ、またひらがな。伊藤が昔、酢谷の丸い発音で呼ばれるのが好きだと言っていたけれど、私には一生理解できそうにない感覚だと改めて思う。

 やっぱり私はこの人のことを愛せない。いや、この人だけじゃない。誰にも恋できず、手探りで愛しているふりだけを繰り返していくのだろう。

 覚悟していたことなのに、たまにこうやって絶望してしまう自分が嫌だ。さっさと覚悟を決めて腹をくくればいいのに。

「いたい? 」酢谷の発音はやっぱり角がなくて、『痛い』なのか『居たい』なのかすらわからなかった。ただうずくまる私に触れられもせず、でもそばにいるよ、と主張するためだけに何度も名前を呼ぶその声は、なんでか心地よくて。

 ただひたすらに、声にならない声で謝り続けた。

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