第2話 雨と心と

 「佐貝さん、聞いてるかい?」

はっとして、巡らせていた思考を一旦止める。


「あ・・はい。すみません。このベビーカーと一緒の男性ですよね?」

「そうだ。見てよ、これ。隅っこで大人しそうにデッキに立っているってことは、きっと後ろめたさを感じてるってことだよ。こりゃあ、『故意』のやつだぞ」

「そうでしょうか・・。ベビーカー連れてますし、カメラからじゃ確かめられないですが、赤ちゃんも乗っていることでしょうし・・・。」


 私は、この男性のところへ行くことに、今まで以上に何とも言い難い、後ろめたさのようなものを感じ取っていた。


 「これも立派な、乗組員の業務なんだよ。気が引けるのも分かるが、不正をしている者はしっかりと取り締まることが大事。電車内の秩序のためにも、しっかりと注意、料金の徴収をしてきてくれよ。」

「・・・わかりました。」


 私は重い足取りで、その男性の下へと向かった。


 時刻は17時40分。秋の夜長とはよく言ったもので、辺りはもうすっかりと暗くなっていた。雨は一層激しさを増し、電車内からもその冷たさを感じ取ることが出来そうなほどであった。


 帰宅ラッシュに重なっていたため、通常車両はすし詰め状態。グリーン車もほぼ満席の状態だった。


 「失礼します。」

「あ、はい・・。すみません。」


 私はその男性の第一声に、この世にある言葉ではどのようにも例えることが出来ない悲しみが湛えられているのを感じていた。


 「大変申し訳ございませんが、こちらに記載の通り、デッキや通路にお立ちの場合もグリーン車内では料金を頂戴しております。グリーン券はお持ちでしょうか。」


 捉えようのない悲しみを男性に感じていながら、私は驚いたことに間隙を開けずに、業務のルーティンとして何度も口に出してきた無機質な言葉を発していた。


 「そうですよね。すみません。お支払いします。尾久駅までお願いします。」


 この世の全てを諦めたように俯いた目をポケットに移し、力なく右手をそれに突っ込んだ。まもなく、濃紺の小さな財布が取りだされる。高級ブランド、LOEWEのものだった。


 全身をおそらくユニクロのセーターとズボンで固めた彼には似つかわしくないように感じた、その時だった。



 「何か、あったんですか・・・?」


 私は無機質に発した前の発言を悔いるように、今度は逆に、今まで一度もこの業務において口にしたことがない言葉を無意識に発していた。

 

 本来であれば、不正に乗車を行おうとしていた乗客に対して、何があったのかなど事情を聞く余地などないはずなのに。


 「え・・?」

「あ、いえ・・・すみません。失礼いたしました。」


「いえ・・。いいんです。実は私、先日妻を交通事故で亡くしまして。」


 男性は、ポツリポツリと話し始めた。


 「この子が生まれてから1年くらい、私は仕事でほとんど面倒を見られず、何から何まで妻に任せっきりになっていたんです。今日は妻が死んでから、初めての娘とのお出かけだったんですが、どうにも分からないことばっかりで。」


 私は銅像のようにすっかり固まりながら、彼の話を聞いていた。


 「気持ちを吹っ切るために、初めての子連れなのに勇気を出して、妻にプロポーズした思い出の横浜に行ったのが間違いだったんでしょうかね。ベビーカーの動かしかたもままならず、娘も何で泣いてるか分からずで散々でした。」


 彼は、眼にわずかな涙を湛えながら続けた。


 「おまけにこの帰宅ラッシュに重なってしまいまして、ベビーカーを無理やりに押し込むのも他の人に申し訳ないと思いながら、何本か電車を逃して空きを待っていたんです。しかしそれでは一向に乗れずに、この子も早く帰りたいのか大泣きしてしまったものですから、なんとか頑張ってベビーカーを押し込もうとひとつ前の車両で試みたんですが。」


「恥ずかしながら、その車両に乗っていた方々に怒鳴られてしまいまして。『満員電車にベビーカーなんて迷惑だろう』と。仰る通りだと思って。それで私も少し気が動転してしまって、けんもほろろにこのデッキに乗り込んでしまったわけなんです。」



 自然と、涙が溢れて来た。その後は、溢れて溢れて、もうどうにも止まらなかった。



 「ご迷惑をおかけしてすみません。グリーン券、今お支払いいたします。ちょっと待ってくださいね。 ああ、これですか。 妻から去年の誕生日プレゼントにもらったものなんです。 すみません、長々と話してしまいまして。」



 私が俯いていたのが、彼には自分の財布を不審がって眺めているように見えたのだろう。相変わらず申し訳なさそうに説明をする彼に向かって、震える声で私は言った。



 「どうかごゆっくり、目的地までお過ごしください。」



空きの終わりの冷たい雨の音が、さらに激しさを増して車内に響いた。



                                    終


 


 






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冷雨の東海道線 @Tomokichi-novel

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