インターミッション1
インターミッション1-1
地球から火星行きの旅客宇宙船が発着する、国際軌道エレベータ(IOE)高軌道ステーションは、軌道エレベータ宇宙側の末端に位置している。
軌道エレベータは地球の自転に同期して周回する、縦に長い静止衛星である。この部分の速度は地球の重力を振り切る第二宇宙速度に達している。ちょうどハンマー投げのように、この宇宙港から宇宙船を分離させると、そのまま地球の重力を振り切る速度で飛んでいくのだ。
ロケット推進を使わなくても月や、他の惑星へ向かって飛行することができる。火星なら三年ほどで到着する。
急ぎの便ではない貨物船ならそのまま慣性で航行し、数年をかけて火星に飛んでいくが、旅客船は核融合ロケットで加速する。
定期航路に就航する旅客船が出立したのは、日本時間八時四五分だった。現在の地球と火星の位置からすると、火星到着は一四〇時間後になると、アナウンスされた。
旅客船は加速度も感じずに進んでいく。
速度が安定したとき、線内を歩いてよいというサインが表示された。
少女は船内散策に出る。一等船室を出て、長い廊下を歩いていく。この旅客船は、旅客区画だけで全長一キロはあるのだ。
しばらく歩いていくと、不意に視界が開けた。
「……ここは?」
光が溢れた通路。
見渡すと、周囲は魚の泳ぐ水槽である。ここはアクアリウムだった。
通路の壁は透明なアクリルで作られていて、水槽の中を通るトンネルのようになっている。
見上げる水中にはクラゲが漂い、イワシの群れが回遊している
水底に沈められた人工の岩礁には色とりどりの珊瑚礁に住む魚や、上層部を遊泳するサバやカツオ、マグロ。ジンベエザメやマンタのような大きな魚も泳いでいる。
「ウミガメだ」
逆光で頭上を泳ぐウミガメのシルエットが浮かび上がる
宇宙船内のアクアリウムはたんなる娯楽施設ではない。これは、宇宙放射線の被曝対策である。
宇宙線の被曝は、長期間惑星間を航行する宇宙船にとって、重大な問題になる。
完璧な遮蔽が困難である以上、いちばん有効な対策は、宇宙空間の滞在日数を減らすことだ。
宇宙船の速度を上げて目的地に早く到着すれば、被曝量は大幅に低減される。しかし、懸念が払拭されたわけではない。
厚い大気やバンアレン帯のない宇宙空間では、太陽や宇宙空間から来る放射線は弱められずに直撃する。そのため居住区画は放射線を遮蔽する物質で囲む必要があるが、中途半端な遮蔽は、二次放射線を発生させてかえって被曝量を増加させる結果になる。
放射線の遮蔽にいちばん効果的なのは、水素原子である。水素原子を含む物質として大量に積んでも無駄にならないもの、つまりはH2O。
旅客船の居住区画は水のタンクで囲まれるように配置されている。水は飲用や様々な生活用水にも使われ、浄水システムを通してリサイクルされているが、その一部分でこのようなアクアリウムを作ったり、水産物の養殖を行ったりする。
船内に作られたアクアリウムは乗客の不聊を慰め、さらにレストランでは養殖された新鮮な魚に舌鼓を打つことが出来る。
通路に、親子連れが通りかかる。
「こんにちは」
少女の親らしき中年の男性は手を挙げて応える。
目の前をマンタが通り過ぎる。
透明アクリルに顔をくっつけていた子供は、親に疑問をぶつけた。
「お魚は放射線、大丈夫なのかしら」
「たいていの魚は人間ほど長生きしないから気にすることはない、っていうがね」
そこに、さきほどの親子連れが声をかけてきた。
「あなたも、日本人ですか」
「日本人だけでしょう、この船に乗っているのは」
男性は、塚原稔と名乗った。
この船内で数日間をともに過ごしていると、ちょっとした顔見知りくらいにはなる。
「どんな仕事をなさっているのですか?」
「学者です」
「ほう、それは」
家族は話題を変える。
「火星へは、観光ですか?」
「いえ」
「移民ですか?」
「まあ、そんなところです」
「日本人」――阿蘇カタストロフ以前に日本に在住していたひとは、無条件で火星居留地に移住する権利を持っている。他国民も条件付きで受け入れを行っているが、そのハードルは低くはない。
「地球生まれに、見えますか」
「ええ……」
感心すると、稔は相づちを打った。少女はその間も、ずっと行き交う魚たちを眺めていた。
稔は声をかける。
「行こう、陽子」
「またね」
少女は手を振った。
船窓からは、赤い星がしだいに大きく見えるようになった。
船内にアナウンスが流れた。
「まもなく、本船は定刻通り、火星の静止軌道ステーションに到着いたします」
旅客船は、火星の軌道エレベータに作られた宇宙港とランデブーする。
「ただいま到着いたしました。ようこそ火星「日本(ひのもと)」へ。ただいま下船の準備を行っていますので、完了いたしますまで、お部屋やお座席でいましばらくお待ちくださいませ」
船内アナウンスが告げる。
下船が始まる。列の後ろについてふたりは、ボーディングブリッジを渡ってイミグレーションを通過する。
宇宙港は新生「
行き交うひとびとは。様々な人種や背景を持っているが、
火星で生まれ育った「
重力が地球の半分しかない環境で、代々生まれ育つと、こんな体系になるのか。
ロビーを行き交っているひとびとは、大半がモンゴロイド系の顔立ちだが、すらりと背が伸びているのは火星育ちの「日本人」だろう。
かれらに言わせれば「地球育ちは、歩き方で分かる」という。
たしかに、重力の違いは歩みの進め方や姿勢にも、影響を及ぼしているんだろう。火星の重力が身体に染みつくには、かなりの時間が必要になるにちがいない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます