36:帰りの馬車の2人

 ジルコニアは別室の片隅で、壁際のソファに静かに身を沈めていた。彼女の目には、まだ先程の襲撃の影がちらついている。突如として破られた平穏、鈍色に光る刃と男たちの怒号、そして、恐怖に染まった空気が、まるで湿った霧のように彼女の周りを覆っていた。


(クロヴァ様は無事のようだったけれど……大丈夫なのかしら……)


 ジルコニアは貴族の集団の中央にいたが、人垣の隙間からクロヴァの活躍がすべて見えていた。

 彼の剣さばきは、普段の優しくも不器用な姿からは想像もつかないほど、鮮やかで力強かった。彼の剣が光を反射するたびに、敵が一瞬で地に伏した。


 すべてが終わって別室に移されるとき、クロヴァとわずかに目が合った。心配いらない、と彼が微笑んだような気がするが、そうであってほしいという気持ちが見せた幻想かもしれない。

 ジルコニアは目を閉じて、彼が無事であることをただひたすらに祈っていた。


「大丈夫か?」


 聞き馴染みのある低い声に、ジルコニアははっと我に返った。目の前にはクロヴァが心配そうな顔をして立っていた。

 周囲を見渡すと、招待客は誰も残っていなかった。心を落ち着けるために座っていたが、思ったよりも長い時間が過ぎていたようだ。


 彼はいつもの落ち着いた様子で立っていた。着替えたようで、藍色の軍服には先ほどの惨劇の痕跡はない。


「顔色が悪い。心配だから送らせてほしい」

「お仕事があるのでは」

「片付けてきた」


 クロヴァは微笑んだ。その瞳には柔らかい光があった。


 2人は馬車に乗り込み、深夜の街を静かに進んでいく。窓の外には深い闇が広がっており、馬車の車輪の音が散っていく。


 馬車の中で、ジルコニアは改めてクロヴァの姿を見つめる。彼の顔には戦いの疲れが見えるものの、落ち着いているようだった。


 ジルコニアは静かに切り出した。


「クロヴァ様、おつらくありませんか?」

「見ての通り傷はない」

「体の傷ではなく、心のほうです」


 彼女の言わんとしていることを察し、クロヴァは困ったように笑った。


「俺と陛下のことについては、問題ない……と言えば嘘になる」

「この先もずっと、陛下のもとにおられるのですよね。その葛藤と苦痛を思うと、胸が苦しくなります」

「それは君の苦しみじゃない、俺の苦しみだ」

「私のものですわ」


 ジルコニアが身を乗り出して言うと、クロヴァは優しく首を左右に振った。


「この苦しみは俺のものだ。陛下との関係は確かに壊れてしまったが……許しあう日が来るかもしれないし、永遠に決別するかもしれない」


 クロヴァは静かに続ける。


「陛下の、国王として国を導く能力は疑いようもない。いまはそれだけを信じていればいい」


 彼の眼差しは遠い何かを追うように、馬車の窓の外、暗闇の中に向けられた。

 淡い希望の言葉に聞こえるが、ジルコニアはそれが破滅に向かっているように思えた。


「私はあなたを幸せにしたいのです」

「十分幸せだ」

「私は、もっともっと――」

「それなら、君に頼みたいことがある」

「何でもおっしゃってください」

「ずっとそばにいてほしい」

「もちろんです!」


 ジルコニアが返事をすると同時に、ふわっと体が宙に浮かんだ。気が付くと、クロヴァの膝の上に体を横に向けて座っていた。

 彼に抱きすくめられ、身動きが取れない。ジルコニアはわずかに高くなった目線から、クロヴァの顔を真正面から見る。

 彼はいつになく真剣な表情で、ジルコニアを見上げていた。


「クロヴァ様……?」

「俺はこれから先、何度でも迷うと思う。そんなとき、君の輝きが俺を救い出してくれる。そばにいてくれるだけで幸せなんだ」


 クロヴァはジルコニアを背中を片手で強く抱き、もう片方の手で彼女の手のひらを引き寄せて手の甲にキスをする。次に肘の内側、二の腕へとキスを繋いでいく。

 ジルコニアのナイトドレスはオフショルダータイプで、あらわになった肩、鎖骨にもキスをされる。そして彼は唇を優しく滑らせ、ジルコニアの首筋に顔をうずめた。


 そっと彼の顔が離され、2人の視線が絡まった。どちらからともなく顔が近付き、唇が重なった。お互いの存在を確かめ合うように、軽く触れるキスを繰り返す。息を吸う間に離れ、再び唇を合わせる。

 彼の手がジルコニアの後頭部に添えられ、押し当てるようなキスに変わった。クロヴァの口がかすかに開くが、ためらうように動きを止め、彼女の背中側にまわした腕をそっとゆるめた。


「……もうすぐ君の家に着く」


 クロヴァは膝の上のジルコニアを、まるでガラス細工を扱うように優しく隣に下ろす。

 彼女の顔を見ると、その頬は赤く染まり、青い瞳がうるみ、熱に浮かされたように汗ばんでいた。ぼんやりと見つめる目があまりに無防備で、クロヴァは衝動的な感情が抑えきれなくなるのを感じた。


 しかし幸運なことに、彼らを乗せた馬車がジルコニアの家の前に静かに停まった。


 馬車の扉が開いた。クロヴァは先に降りて、のぼせたようにふらつく彼女を下から支えながら降ろした。彼女はクロヴァの腕につかまりながら、ふわふわとした歩調で玄関まで歩く。少しやりすぎたか、とクロヴァは反省した。


 玄関で若いメイドと他数人に迎えられ、クロヴァはジルコニアから腕をそっと離す。


「今日は疲れただろう。ゆっくり休めるといいが」

「クロヴァ様のほうこそ……休んで……ください」


 ジルコニアはうわごとのように言い、メイドに支えられて家の中へと入っていった。


 クロヴァは少しのあいだ玄関に立っていたが、きびすを返すと馬車に戻った。室内キャビンには彼女の甘い香りがわずかに残っていた。

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