30:闇を抜けた先で

 日没間際に降り始めた雨は徐々に強まり、いまは激しい雨音が部屋を満たしていた。

 ジルコニアはペンをそっと机に置き、両手を上げて体をのばした。ここ数日、彼女は自室の机にずっと向かっていた。ようやく出来上がった1枚を手に取る。


 書き上げたのは短い戯曲シナリオだった。主演の令嬢が悪役を演じ、周囲の人たちを不幸に陥れる物語。読み返したジルコニアは、悪の魅力の輝きに心を奪われた。


 あとはこれを演じるだけだ。

 主演の立つ舞台はすでに整っている。


 ジルコニアは引き出しから手紙を取り出した。明日の夜に王城で開かれる、聖女との交流パーティの招待状。スペイドが2ヶ月音沙汰のないジルコニアの様子を直接確かめるため招いたと思われる。

 宛名の横には、国王直々の招待であることを示す青いインクの印影がある。よほどの理由がなければ断ることはできない。「入念だこと」と、ふっと鼻で笑う。


 そのとき、慌ただしいノックの音が部屋に飛び込んだ。

 ジルコニアが返事をすると、息せき切って入って来たのは老齢の侍女であった。


「お嬢様ッ!」

「走って大丈夫? 膝と目が悪くなってるのだから、走るのはあまり……」

「げっ、玄関に!」

「なぁに、まさかクロヴァ様がいらっしゃったの?」


 あと1ヶ月は帰ってこない婚約者の名前を冗談であげる。

 侍女は呼吸を整えながら、何度も首肯した。ジルコニアは驚いて聞き返す。


「……まさか?」

「そのまさかです! 雨に降られておいででしたので、いま着替えていただいております。お嬢様、その間にあなたもご準備を!」

「信じられないわ。見間違いではなくて?」

「お喋りしている時間はありませんよ!」


 侍女の後に続いてメイドたちが部屋に入ると、ジルコニアはあっという間にイブニングドレスへ着替えさせられた。赤みがかった柔らかな色のコーラルオレンジのドレスで、繊細なレースがデコルテを飾り、肩をあらわにするオフショルダースタイル。ひらけた胸元には小粒のルビーが上品に輝いていた。


 姿見の前でジルコニアは小さくつぶやいた。


「夜にしては可愛らしすぎないかしら」

「伯爵様は非常にお疲れのようでしたので、明るい色合いの方が心を和らげるかと思いまして」

「……そう、疲れているのね」


 彼女は窓の外に目を向けた。夜の闇と激しい雨で見えないが、視線の先には王城がある。


 彼は聖地巡礼から突然戻ってきた。雨に濡れたということは、彼は馬車ではなく直接馬に乗って急いで来たのだろう。

 火急の用で来訪し、彼が目に見えて疲れてしまうような用事を、ジルコニアは1つだけ知っていた。


(……まさかね。わざわざクロヴァ様を遠ざけた陛下が、今になって真実を明かすとは思えないわ)


 着替え終わると、若いメイドがノックをして入って来た。


「お嬢様、メイス伯爵を2階の奥の客室にご案内いたしました」

「客室? 客間ではなく?」

「旦那様が、天候が悪く夜も遅いので、泊まっていただくようおっしゃっていました」

「……たしかに彼とは婚約中だけれど、男性を泊めていいのかしら」

「旦那様はメイス伯爵とお仕事をされたこともあり、お人柄をよく知っていらっしゃるようでした。奥様も信頼されていましたよ。それと、伯爵はお嬢様と2人だけでお話がしたいと仰っていました。客室でお待ちです」


 メイドは真面目な顔で伝えた。


 ベッドが置かれた客室で2人きりになることを許されるのは、クロヴァがジルコニアの家族からいかに信頼されているかを物語っていた。ジルコニアももちろん彼を信頼していた。


 廊下を歩き、2階の突き当りにある客室のドアをノックする。中から聞き馴染みのある声で返事があった。扉を開け、部屋に足を踏み入れる。


「クロヴァ様、お呼びでしょうか」


 ジルコニアはドアを閉じて微笑んだ。

 

 彼は黒色のジャケットを着ており、襟の合わせ目からは白い付け襟クラヴァットとシャツがのぞく。


 ソファに腰掛け、ジルコニアを無表情で見つめていた。その顔は生気がなく、目からは光が失われていた。まるで死人のような表情にジルコニアは息をのんだ。彼の隣に静かに座り、心配そうに彼の顔をのぞき込みながら声をかけた。


「どうされましたか? おつらそうに見えますが」

「……君は助からない」


 クロヴァは唇をわずかに動かして言った。


「君の死は陛下によるものだった。彼は身勝手な嫉妬から、君を殺す魔法を使っていた」


 ジルコニアは驚きで声が出そうになるのを飲み込んだ。


(陛下はすべてを話してしまわれたのね……)


 クロヴァは無表情のまま、視線を床に落として淡々と言う。


「たとえ魔法を解除できても、彼は君を殺すまで諦めない。あの場で排除できればよかったが、俺はそれができなかった。陛下への恩義か、保身か、国王殺しに臆したか、わからない。……俺はどうすればよかったんだろう」


 クロヴァは空虚な声で言った。


「君を助ける方法は、どこにもなかった」


 ジルコニアの胸は苦しみで締め付けられ、涙が溢れそうになった。彼がこれまで乗り越えた絶望とは、比べ物にならないほどの闇が彼を覆いつくしている。


 もし同じ時にこの事実が告げられたら、ジルコニアも彼とともにその闇に飲み込まれていたかもしれない。

 しかし、そうはならなかった。彼女は闇をさまよいながらも、クロヴァの手紙で奮い立ち、ついに微かな希望の光を見つけた。この希望は2人で掴み取ったものだった。


 ジルコニアは先ほど完成した計画を話そうと、はやる気持ちを抑えて切り出した。


「クロヴァ様、実は」


 その言葉は途切れた。クロヴァが突然、彼女の腕を掴んでソファに押し倒した。覆いかぶさった彼は笑っていた。


「……俺は何のために繰り返していたんだろうな?」


 彼は片手で身体を支え、もう一方の手でジルコニアの髪を優しく撫でた。その指先は彼女の頬をなぞり、唇に触れた。


「もうどこにも進めない。逃げ道も、解決策もない。……君は永遠に俺のものだ」

「クロヴァ様、っ……」


 声を上げようとすると、キスで唇を塞がれた。目の前にある彼の顔は影の中に落ち、瞳には光がなく、かわりに暗い炎が揺らめいていた。


 彼の大きな手が背中とソファの間にねじ込まれ、ドレスのフックに指がかかる。

 何が行われるか理解した瞬間、ジルコニアは恐怖で凍りつき、声も出せなくなった。


 彼女の怯えた様子に気付き、クロヴァはハッと我に返った。自らの行動に驚いた様子で、ソファからずり落ちて床に座り込んだ。

 

「違う、こんなことをしたいんじゃない……俺は……」


 混乱した様子のクロヴァを見つめながら、ジルコニアはゆっくりと身を起こした。彼はそのひざ元に縋り付き、絶望に満ちた表情で彼女を見上げた。


「助けてくれ、ジルコニア。俺はどうしたらいい。わからないんだ……」


 いまにも消えそうなほど、細く震えた声だった。その瞳には苦しそうな涙がにじんでいた。

 ジルコニアはたまらなくなり、彼の頭を両腕で抱きしめる。


「もう苦しまないでください」

「嫌だ……君を失いたくない……」

「私も同じ気持ちです。死ぬつもりなんてありません」


 彼女は腕をそっと離し、クロヴァに微笑みかけた。


「希望があります。ほんの少しですが」

「そんなものはない」

「私を信じてください」

「だが――」


 ジルコニアは彼の唇を指で優しく押さえ、反論をやめさせる。


「あなたも、他の皆も、私を勘違いしています。私は完璧な令嬢ではありません。わがままで、傲慢で、小賢しい女なのです。……私もつい最近まで忘れておりましたわ」


 クロヴァの表情は、まるで言葉の意味をつかむことができない子供のように困惑していた。ジルコニアは柔らかく微笑みながら彼に説明する


「陛下は、幼い頃に少しだけ会った私に、幻想めいた愛を抱いているだけ。その愛が今回の凶行に至らしめたのなら、それを壊せばいいのです。陛下の思い出や心を踏みにじり、愛するに値しない女だと知っていただきます。陛下に失望していただくのです」


 ジルコニアはクロヴァの顔を両手で包み、頬を優しくなでた。そして身をかがめて、彼の瞳を覗きこみ、愛おしそうに目を細めて言う。


「クロヴァ様は、私に失望しませんよね?」


 彼は少し迷いながらも、真摯な声で答えた。


「混乱していて、うまく理解できていないが……君が何者になろうと、ずっとそばにいさせてほしい」

「そのお言葉、嬉しいですわ。私もずっとあなたのそばにいます」


 ジルコニアはそっと顔を近付け、床に座るクロヴァにキスを落とす。

 彼が震えるまぶたを閉じると、涙がこぼれて頬を滑り落ちた。

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