26:国王の命令
スペイドの執務室には、簡単な食事が運び込まれており、重厚な執務机には書類の束が整然と置かれていた。
側近は仕事の優先順位を伝えた後、午後の予定を整えるために慌ただしく部屋を去っていった。スペイドはメイドたちも下がらせ、部屋には彼一人となった。
窓辺に立つと、整えられた美しい中庭と、その向こうに広がる城下町が眺められた。
この国は歴史上、いまが最も繁栄している。
父である先代の王が始めた戦争は、スペイドが王太子の頃に将軍となり勝利へ導いた。その直後に父が病死し、彼は新たな若き国王となった。
敗戦国からの賠償金は軍備拡張に使う他、技術開発にも投資し、農作物や工業製品の生産力が向上した。鉄道網が拡大し、物資や技術が国内へ行き渡るようになった。
戦争や飢饉といった災厄は過去の出来事となり、国は繁栄を続けている。
近年は魔法技術の衰退が指摘され、一時は聖女降臨も危ぶまれていたが、それも成功させた。
スペイドには、この平和を自ら築き上げたという自負がある。
しかし――
「彼女だけが手に入らない」
窓ガラスには、自らの顔が映っていた。深い青色の瞳がそこにある。先代国王である父親の、勝利と征服への執着に満ちた目と同じ色だった。
「あの男を嫌悪していたが、いまの俺はまるで……」
コンコン
耳慣れた力強いノック音が響いた。
スペイドは窓から離れつつ返事をする。入ってきたのは予想通りの人物だった。
「失礼します」
「来るとは思っていたが、早かったな」
スペイドはクロヴァを真正面から見つめ、執務机に背を向けてよりかかった。
ドアを後ろ手に閉めたクロヴァは、真剣な表情でスペイドを見る。
「陛下、あのようなことはおやめください」
「あのような、とは?」
わかって尋ねるスペイドに、クロヴァはたしなめるように言った。
「陛下が即位して2年が経ち、国は安定してきました。しかし、あなたの立場はまだ盤石とは言えません。短絡的な行動が取り返しのつかない事態を引き起こすこともあります」
「お説教か。実に忠臣らしい」
スペイドは鼻で笑い、クロヴァに歩み寄って目の前に立った。少し高い位置にある彼の瞳を覗き込むように見る。
「そろそろ愛想が尽きたか?」
クロヴァは短く息を吐き、落ち着いた口調で答えた。
「そういう話ではありません。ご自身が周囲に与える影響を、より慎重に考えてほしいのです」
「そうだなわかった」
スペイドは棒読みで答え、近くのソファに座った。クロヴァはため息をつき、これ以上の進言は余計な軋轢を生むと判断してやめた。
「……私からの話は以上です。仕事に戻ります」
「待て」
出ていこうとするクロヴァを呼びとめる。
スペイドは自分でも、なぜとめたのかわからなかった。
クロヴァは向き直り主君の命令を待つ。
室内がしんと静まり返る。
クロヴァから全幅の信頼を感じる。自身もまた、彼を心から信頼していた。
――しかし、この静けさもあとわずかだ。
明日にでも、ジルコニアから禁忌魔法について知らされるだろう。
彼との間に築かれた信頼や忠誠心が、一瞬で崩壊する。
なぜジルコニアを即座に殺さないのか、スペイド自身にも理由の説明がつかなかった。いずれ殺すのなら、彼女がクロヴァに真実を明かす前に口封じをするべきだ。
彼の存在はこの国を支える重要な柱のひとつとなっている。彼の喪失は国にとって大きな痛手となる。
スペイドはクロヴァを見た。彼は直立不動のままこちらを見据え、次の指示を待っている。
――俺は、とめてほしいのか?
2年前、高潔な志と使命感で即位したはずだった。しかしいま、罪のない女性を感情のまま殺そうとしている。
結局は自分にもあの男の血が流れているのだと愕然とする。大義を失い、病床の中の死の間際まで目先の勝利に囚われていた、深い青色の目を持つあの男と同じ血が。
スペイドは夢想する。ジルコニアを開放し、彼女の幸せを願う未来。
そうなれば…………彼女は目の前にいる男と結婚して、愛をささやき、肌を重ねるのだろうか。
スペイドは前髪を乱暴にかきあげ、心の中で声にならない叫び声をあげた。
国王となり、あらゆる権力を手に入れても、本当に欲しいものだけが手に入らない。その絶望と諦念が彼の心を蝕んでいた。自分の感情に制御がきかず、理性と欲望のはざまで心が引き裂かれていく。
スペイドは立ち上がり、クロヴァに背を向けて執務机に手をついた。
「お前に命令がある」
「はい、何なりと」
「大神官を聖地巡礼に派遣する。騎士団の一部を率いて護衛任務につけ。出発は明日だ」
聖地巡礼は3ヶ月以上かかるため聖女祭の日には帰還できない。
ジルコニアから遠ざけ、ハルトを口止めすれば、クロヴァが彼女の死因を知ることはない。
真実は闇の中に沈む。
スペイドは正義を捨てることを選んだ。代わりに得られる暗澹とした喜びに身が震える。
仮に聖女祭の日までにクロヴァが真実を知ったとしても、魔法を解除するつもりはない。彼女を殺すためならどんな手段もいとわない覚悟だった。
正義を失い、忠臣が離れ、国が荒れ、その結果として自らの身に報いが及ぶとしても……それは当然の結末だとスペイドは受け入れていた。
クロヴァは突然の命令に戸惑い、反対の声を上げた。
「明日に出発、ですか? 聖女祭を控えているこの時期に、王都の防衛を手薄にするのは危険です」
王都では聖女祭の準備のため、商人や労働者の出入りが激しくなる。治安維持は重要な任務だった。
スペイドは肩越しに振り返り、クロヴァを鋭い視線で睨みつける。
「いまお前に求めているのは行動だ、意見ではない」
「無謀な命令をいさめるのも臣下の仕事です」
「任務を忠実にこなすことがお前の仕事だ」
スペイドのかたくなな態度に、クロヴァはさらに困惑する。
「しかし、明日というのは急すぎます。大神官殿は知っておられるのですか?」
「これから知らせる」
「……であれば、人だけでなく物資も、集まるかどうか。神官、騎士団、従者、かき集めてもせいぜい20人程度の行軍になりますよ」
「それでいい。聖女が降臨されたことを王都の周辺に知らしめるだけだ」
「やる意味が……」
「いつ意見しろと言った?」
クロヴァは黙り込んだ。
スペイドから、何らかの感情をぶつけられていると感じていた。2人のときに感情をむき出しにされる事はあったが、それがこれほど周囲を巻き込んだ命令になることは初めてだった。
しかし、クロヴァはその原因を知ろうとはしなかった。彼の感情を受け止めることだけが自分の役割であり、一歩踏み込んで理解の手を差し伸べるのは別の者――――例えばもっと近しい人間、近親者や彼の友人の役割だと思っていた。
クロヴァは、自分に課された役割を全うすることが、忠義であり主君が求めることだと信じていた。
それに、少し王都を離れることもいいと思った。ジルコニアとの婚約破棄や、聖女との婚約、問題は山積みだった。一度王都を離れ、考える時間がほしかった。聖地は王都に近い箇所もあるため、折を見て一時的に帰還することは十分可能であった。そのときにでも問題を片付け、ジルコニアを今度こそ生かしたい。
クロヴァは姿勢を正して言った。
「命令に従い、明日出発いたします」
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