20:2人きりの馬車の中で

 馬車は王城への道を進んでいた。その揺れる室内キャビンで、クロヴァとジルコニアは片側の座面に並んで腰掛けていた。到着までそれほど時間はかからない。


 クロヴァは嬉しそうに顔をほころばせ、ジルコニアを見つめた。

 望み通り一緒の馬車に乗れたはいいものの、彼の熱を持った視線に耐えられず、反対方向を向いて体を縮こまらせる。


 彼女の繊細な背中に向けて、クロヴァは優しい声で呼びかける。


「俺の方を向いてほしい」

「……こ、心の準備がいりますので、少しお待ちください」


 返事の声は上ずっていた。クロヴァは小さく笑いをこぼしながらも、困った顔で彼女の背を見る。


「わかった、待とう」


 クロヴァはジルコニアの頭にそっと手を置き、流れる金髪に沿って優しくすべらせる。

 彼の手の動きは柔らかく、彼女の緊張をゆっくりと解きほぐしていく。次第にジルコニアの身体から力が抜け、リラックスしていった。


 彼はそのまま、彼女の頬にかかる髪の束を櫛のように指先でとかし、優しく持ち上げた。あらわになった耳へ顔を寄せ、甘く低い声でささやく。


「顔を見せて、ジルコニア」


 彼の息が首筋に触れ、ジルコニアはびくっと身をすくませる。


 観念した彼女は、真っ赤な顔を両手で覆い、少しだけ首を動かし横顔を見せた。指のわずかな間から片目でクロヴァを睨む。羞恥心で涙がにじんでいた。


「待って、くださいと、言っていますのに……!」

「すまない。君にも記憶があることが、本当に嬉しくて」


 クロヴァは優しく髪から手を離し、座り直す。


「そうだ、北の山へ狩りに行ったことは思い出せたか? 大きなメスのシカが捕れて、君は目をまんまるにして驚いていた」

「……いいえ。思い出せるのは前回のことだけです」

「そうか」


 クロヴァは微笑むが、伏せた目が哀しげに揺れた。


「他にもたくさん、君との思い出があるんだ。……そうか、そこまでの記憶は戻らなかったか」


 ジルコニアはクロヴァの手を握り、力強く言う。


「この悪夢を終わらせましょう。そして、思い出をいっぱい作りましょう!」


 彼女の前向きな言葉に、クロヴァは弱々しいながらも微笑みを返した。

 ジルコニアは彼の笑みに安堵し、明るく提案する。


「前回はクロヴァ様と聖女様が結婚するという方法でしたが、他に道はあるはずです。きっと見つかります」


 クロヴァはしばらく黙った後、深刻な表情で口を開いた。


「あれは俺の失態だ。最後まで演じきれたら、成功するかもしれない」

「クロヴァ様が不幸になるのは嫌です」

「『他に方法はない』――そう言ったのは君だろう」


 クロヴァの瞳がまっすぐジルコニアを射貫く。


 ジルコニアは自らの提案を思い出し、その言葉がクロヴァを深く傷つけてしまったことを理解した。これ以外にも、きっとたくさんの言葉で彼を傷つけただろう。


「申し訳ありません。あのときはクロヴァ様のお気持ちまで配慮できず……」


 クロヴァは首を左右にゆっくりと振った。


「俺が聖女と結婚し、最後まで騙しきる。これ以外の方法が見つかるとは思えない」

「でもっ」

「君が俺の苦労をわかってくれている、それだけで十分だ」


 クロヴァは微笑んで言いきった。その目には諦めと決意があった。

 しかしそれでも、彼女は食い下がった。


「私は諦めたくありません」

「……俺もそうだった。だが、諦めないといけないこともある」

「私は、あなたを幸せにしてみせるとお約束しましたわ」

「これが俺の幸せだ」

「聖女と結婚することが、ですか?」


 クロヴァは目をそらし、窓の外を見た。城壁の近くまで来ていた。馬車は間もなく王城に到着する。

 彼は外を見たまま言った。


「二人きりで会えるのはこれが最後かもしれない。前回、聖女に俺との婚約を告げたら、君が倒れただろう。すみやかに婚約解消の手続きを始める」

 

 ジルコニアは顔から血の気が引き、言葉を失った。


 彼の心は、繰り返される途方もない時間のなかで擦り減っていき、絶望の底に至った。彼はジルコニアとの未来を諦め、聖女との結婚、つまり自身の心を欺き続ける暗い未来へと進むことを決意していた。


 ジルコニアは口を動かすが、言葉が出なかった。『だめ』とも『いい』とも言えない。

 拒絶するための知恵も、運命を受け入れる覚悟も持ち合わせていなかった。


 クロヴァはジルコニアを両腕で抱きしめ、最後の願いを込めて言う。


「君を守らせてほしい。――愛してる、ジルコニア」


 そして、ジルコニアに優しい口づけをした。


 お互いに愛し合っているのに、どうしてこんなにも苦しまないといけないのか。


 触れるだけのキスのあと、クロヴァはゆっくりと彼女から体を離した。


 ジルコニアはうつむき、自らの胸に爪を立てる。いますぐ心臓を握りつぶしたい衝動に駆られた。

 自身にせられた死の運命が、狂えるほど憎かった。

 腹の底から湧き上がるような怒りが全身にかけめぐる。こんなに強い怒りを感じるのは初めてだった。


 ジルコニアは必死に解決策を模索する。考えながら、たどたどしく口に出す。


「聖女と仲良くしてさえいれば、私が何をしていても問題ない、ですよね? 他の方法を探させてください。私から探すことはなかったはずです。もしかしたら……見つかる、かも……」


 しりすぼみになり、彼女の心は不安で沈んでいく。クロヴァがあらゆる手段を尽くして探したあとだ。解決策が見つかる可能性はないに等しい。

 根拠のない希望を述べることが、いかに空虚かを彼女は知っている。前回はそれで死んでしまったのだから。


 クロヴァは優しくジルコニアの頭を撫でて慰める。


「無理をしないように」


 彼は止めることはしなかった。それが優しさなのか、諦めなのか、ジルコニアにはわからなかった。ただ、この提案に期待していないことだけは理解できた。彼の瞳からは希望がすべて失われていた。


 馬車の速度がゆっくりになっていく。窓の外を見ると城門をくぐるところだった。

 ほどなく通用口の玄関前に止まる。クロヴァは先に馬車から降り、ジルコニアに手を差し伸べる。


「足元に気をつけて」


 いままでと変わらない優しい響きだったが、途方もない距離を感じた。

 ジルコニアは手を取って馬車から降りた。


 通用門は城壁に囲まれた王城敷地内の西側に位置し、迎賓館や図書館がある。中央の王城を挟んで東側にあるのが本神殿、つまり聖女が降臨した場所だ。


 ジルコニアはここからは見えない本神殿の方をじっと見た。聖女が降臨しているだろうか。

 クロヴァはその視線に気づき、彼女の頬にそっと触れる。


「何度も言うが、無理はしないように」

「……行ってらっしゃいませ」


 まだ2人は婚約者という立場にあるが、聖女の降臨による混乱が一段落すれば、やがては他人同士となる。

 ジルコニアは、背を向けて去るクロヴァの姿を静かに見送る。

 彼が絶対に振り返らないことを知っていた。

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