19:聖女が降臨する日の朝

 クロヴァ・メイスは静かに目を覚ました。


 早朝の薄暗い光が部屋を淡く照らしていた。

 見慣れた自室の天井が、灰色の影となって浮かび上がる。


 聖女が降臨する日の朝だった。


 クロヴァはベッドの中で上半身を起こした。ぼんやりと自分の手のひらを見る。


 先ほどまでジルコニアのぬくもりがあった。

 彼女は自分の腕の中で息を引き取った。


 死の瞬間、周囲が真っ黒の空間に変わり、目の前に『やり直しますか?』と書かれている半透明の板が現れる。

 ジルコニアの死の直後にいつも起こる奇跡。


 絶望にし潰されて、立ち上がる気力さえなく、すべてを投げ出したいという衝動に駆られていた。

 彼の心は疲弊し、これ以上の死の重荷に耐えることは難しかった。


 しかし、彼女は最期に残酷な言葉をのこした。


『おねがい、もう一度だけ、繰り返して。次は絶対、あなたを、幸せに……』


 ――彼女が望むなら。


 クロヴァは半透明の板の『はい』に触れた。

 そうして、今日の朝に戻ってきた。

 

 何をする気にもなれず、ベッドに座っていた。どれほどの時間そうしていたのかわからない。

 雷のような閃光がカーテン越しに光った。続いてドォーンと大きな地響きが起こる。


 聖女の降臨である。

 以前はこの出来事に喜び、怒り、憎しみ、恐怖した。しかし、今は心が麻痺したように何も感じない。いつもならば、素早く支度をして彼女のもとへ急いでいたところだが、体が鉛のように重く動かなかった。


 そのままベッドの中にいると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。いつもならばこの時間にはとっくに準備を終え、部屋を出ているはずの主人がまだ現れないことに、使用人が心配して部屋を訪れたのだった。

 ベッドから降りてもいない主人を見て驚く。


「坊ちゃま! まだ起きていなかったのですか!」


 使用人は大急ぎで支度を始めた。

 ベッドから降りたクロヴァに、シャツの袖を通しながら心配そうに言う。


「坊ちゃまが寝坊とは珍しいですね。お体の調子が悪いのですか?」

「体は問題ない」

「降臨の御光おひかりがありましたから、ご出発を急がないと。朝食はお部屋で食べてしまいましょう」


 着替えが終わると、すぐに簡単な朝食が部屋に運び込まれた。

 クロヴァは機械的な動作で食べ物を口に運んで飲み込んだ。

 ジルコニアの家へ行く時間はもうない、そう思いながら、心がぼんやりとした重さに満ちていた。


 コンコンコンコンッ


 慌ただしいノックの音がする。

 返事をするよりも前に、息を切らした使用人が部屋に駆け込んだ。


「坊ちゃま!」

「なんだ、もう出発できるが」

「早く玄関へ!」

「急かさなくとも行く」

「違います! ジルコニア様がお訪ねになっています!」

「……ジルコニアが?」


 今までの無数の繰り返しの中で、この朝に彼女が家に来ることは一度もなかった。


 また奇跡が起こったのかと思いながら、急いで向かった。疲れ果てて深く考えることができなかった。


 クロヴァが玄関に到着すると、開け放たれた扉を背にして、ジルコニアが静かに立っていた。


 春の柔らかな朝日が背後から彼女を照らす。

 美しい金髪は光を受けて輝き、青い瞳は逆光の影の中でどこまでも透き通っていた。


 クロヴァは彼女の姿に目を奪われ、思わず足を止めた。


 ジルコニアはクロヴァが立ち止まるのを見て、彼に向けて優しい笑顔を浮かべながら近づいてきた。

 こわばった手を両手をそっと両手で包み込み、頭ひとつ分も高い場所にある顔を見上げた。


「次は絶対、あなたを幸せにしてみせますわ」


 クロヴァは一瞬、その意味を掴めずにいた。

 聞いたことのある言葉だと感じ、それが前回の死の間際に遺した言葉だったことを思い出した。


「まさか、おぼえて……」


 この言葉が意味するのは、ジルコニアが最後の瞬間だけでなく、すべてを記憶しているということだ。2人の交流、聖女との婚約、そしてその後の死の結末まで、すべてを。


 ジルコニアは穏やかな声で答えた。


「はい、覚えています。あなたが早朝に突然やってきたところから――」


 クロヴァは彼女を強く抱きしめた。

 まるで迷子の子供が母親を見つけたときのように、震えながら彼女にしがみつく。


「こんな奇跡は、二度とないと思っていた」


 その言葉に応えるように、ジルコニアは彼の背中に優しく手を回し、愛おしそうな表情でなでる。


「今朝、あなたを待っていましたが来ないので、こちらから伺いました。すれ違いにならなくてよかったです」

「俺はもう、君だけなんだ。俺は……」


 クロヴァは言葉が続かず、感情のまま腕に力を込めて強く抱きしめる。

 ジルコニアは少し苦しそうにするが、その眼差しは変わらず優しさに満ちていた。


「わかっていますよ。――私も、愛しています」


 クロヴァはパッと体を離し、一歩引いた。片手で顔を隠すように覆い、視線をそらす。


「……玄関でやることではなかった」


 その言葉にハッとして、ジルコニアは両手で口元を覆う。

 慌てて周囲を見渡すと、集まった使用人たちが困惑の表情でこちらを見ていた。

 ジルコニアの頬は恥ずかしさで赤く染まった。見ると、クロヴァも耳の先が赤くなっていた。


「も、申し訳ありません! こんなつもりはなかったのですが……!」

「いや、突然抱きしめたのは俺の方だ。俺が悪い」

「お城に行く準備をされていたのですよね。お引止めしてしまいました」

「そうだな、もう行かなければ」


 クロヴァは咳払いをして、使用人たちに指示を出す。固まっていた使用人たちは、慌てて主人の出発準備を再開した。


 ジルコニアはおずおずと、まだ何かを言いたげにクロヴァの方を見つめていた。クロヴァは優しい笑顔で「なんだ?」とうながす。


「あの、クロヴァ様、お城に着くまでのあいだ、馬車の隣に座らせていただけないでしょうか?」

「隣に? 構わないが、込み入った話があるなら、後でゆっくり時間を取ろう」

「いえ、あの……もう少し一緒にいたくて……」


 クロヴァは目を見開いたあと、ふっと笑い、ジルコニアの頬を指先でなぞる。


「君から甘えてくれるのは初めてだな」

「ご負担でしたら仰ってください」


 ジルコニアは少し戸惑いながら控えめに言う。クロヴァは破顔した。


「そういうわけじゃない。嬉しいんだ。もっと言ってほしい」


 クロヴァはまだ周囲に使用人がいることに気付き、ハッとしてゆるんだ頬を引き締める。彼女もそれに気付き、赤い頬を隠すように両手で頬を押さえる。


「ジルコニア」

「は、はい」

「続きは馬車で」

「はい。……え? 続き、ですか?」


 ジルコニアの問いに対し、クロヴァは答える代わりに優しい微笑みを浮かべた。


 玄関前へ回された馬車にクロヴァが乗り込み、ジルコニアに向かって手を差し伸べた。


「おいで」


 甘くとろけるような優しい響き。

 ジルコニアは心臓が高鳴るのを感じた。


 彼女はその大きな手の上に自らの手を置き、馬車のステップに足を乗せた。彼の引く手に導かれるまま、馬車の内部へ優しく引き込まれていった。

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