15:図書館にて
図書館は王城の敷地内に建てられている。
外観は質素な四角い建物で、入り口の扉を開けて中に入ると、石造りの館内はひんやりと肌寒い。
ジルコニアは父親から借りた入館許可証を入口の衛兵に提示して中に入る。
館内は静かな空気に満ちており、紙とインクと古木の混ざり合った香りがただよっていた。光は窓から優しく差し込み、その柔らかな光が、所狭しと並んだ重厚な本棚と、棚板に隙間なく並ぶ本の背表紙を照らし出している。圧倒的な物量に囲まれながらも、天井の高さがその圧迫感を和らげていた。
(久しぶりね。懐かしいわ)
ジルコニアは図書館が好きだった。
世俗から隔離されたようなこの空間は、いるだけで癒される。
ジルコニアの足音だけが静寂の中に響いては消えていく。
(ダイヤ様、本が読みたいと仰るほど勉強に熱を入れてくださっていて、嬉しいわ)
このところ頻繁にダイヤのもとへ通っていたが、彼女は目に見えて知識や教養が増えていった。ジルコニアはダイヤの変化を心から喜んでいた。
そんな中でダイヤはこの国の歴史に興味を持ち、本を読みたいと言ってくれるまでになった。
持って行く本を何にしようか迷ったが、父とも相談して決めた。その本は専門的だが面白い雑学がたくさん載っていて楽しめる本で、ジルコニアも読んだことがある。王城図書館内にしかなく、書棚の位置も父から聞いていた。
図書館の本棚は自身の背丈よりも高く、その間を歩くのはまるで樹海に分け入るようだった。彼女は目的の棚を目指して歩く。
奥まで進み、ようやくたどり着きそうになったとき、ふっと目の端に人影が映った。
「っ!」
悲鳴をすんでのところで飲み込む。
本棚の間で、床に座って壁に背をもたせかけている人物がいた。
白い軍服姿の見知ったその顔に、ジルコニアは脱力して思わず名前を口にした。
「す、スペイド陛下……」
「よかった、ジルコニアか」
驚いた顔をしていたスペイドは、緊張を解いてふっと笑った。
「女性の足音だったから賊ではないと思ったが、近付いてきたからドキドキしたよ。心臓に悪い」
「心臓に悪いのはこちらのほうです」
ジルコニアは胸を手で押さえて深呼吸をする。怒りよりも驚きの方が勝り、スペイドを責める気は起きなかった。
彼女は落ち着きを取り戻してから、館内に響かないよう小さな声でたずねる。
「陛下は、どうしてここに?」
「休憩だよ。式典挨拶だけだったからね。このところ忙しくて」
「
ジルコニアが軽い調子で問うと、スペイドはわざとらしく顔をそらし肩をすくめる。クスクスと2人の間に小さな笑いが起きた。
12年前、剣の稽古が嫌で図書館の奥に隠れていた9歳のスペイドと、父親に連れられて図書館に来ていた4歳のジルコニアは、偶然出会っていた。子供時代のささやかな交流は、ほとんど顔を合わせなくなった今も、2人の間にわずかな連帯感を生んでいた。
スペイドは持っていた本を閉じて、真横の棚にある1冊分の隙間にさした。
「君は父親の付き添いか?」
「いえ、ダイヤ様が本を読みたいと仰っていたので、選びに来ました」
ジルコニアの答えに、スペイドは少し目を見開いた。意外な反応に彼女は首をかしげる。
「どうしました?」
「父に連れられる赤ん坊だと思っていた君が、立派になったな、と」
「
「9歳の俺にとって、4歳の君は赤ん坊だったよ。まあ、王太子に意見するような、大人びた赤ん坊だったが」
「それは、当時は王族のご尊顔など知らず――」
「責めてるんじゃない。4歳の君に諭されるほど、俺は幼かった。……懐かしい、大切な思い出だ」
スペイドは立ち上がった。クロヴァに比べれば体格は細身であるが、身長の高さは同程度。ジルコニアと頭ひとつ分は違っていた。
彼は優しく微笑みかける。
「この本の匂いも、窓からの光の加減も、何もかも懐かしいな。……そうだ、覚えているか? かつて君との間に婚約の話があがったこと」
「そんなこともありましたね」
婚約の話が持ち上がった当時、ジルコニアの父が内紛鎮圧での功績を認められ、宮廷防衛長官に任命されたばかりだった。異例の出世だったため、しばらく宮廷内部では反発と混乱の声があがったが、伯爵の仕事ぶりが評価されるに従い落ち着いた。
これ以上レンダー家の影響力を高めると余計な確執が生まれると判断され、社交界で評判の上がっていたジルコニアとの婚約話は、2人が顔を合わせる前になくなった。
「生まれて初めて王子であることを恨んだよ」
「陛下に相応しい女性はたくさんいますから」
「君以上に?」
スペイドが1歩近付いた。微笑んでいるが青い瞳は鋭くジルコニアを捉える。
突然変わった雰囲気にとまどい、後ずさろうとするが、すぐに後ろに本棚があって動けない。
スペイドは両腕を伸ばして、ジルコニアの背後の棚板のへりを掴む。彼の腕が檻となって、逃げられない体勢になった。
「俺が本当に望むものは決して手に入らないんだ。この
スペイドは自嘲するように喉の奥で笑った。ジルコニアにはそれが獣の唸り声のように聞こえた。
(陛下から好意を向けられている? それに――敵意に似た怒りも。でもなぜ、それを言うの?)
立場的に結婚が許されず、他の男と婚約している相手に、スペイドは想いを伝えている。
それが何を意味しているのかジルコニアにはわからなかった。ただ気持ちを伝えて、彼の中で折り合いをつけようとしているだけ――?
怯えた表情を見せるジルコニアに、スペイドはふっと笑い、本棚から手を離して1歩引いた。
「俺と結婚できなかったことを残念がってほしくて、つい意地悪をしてしまった」
彼は明るく笑ってみせるが、ジルコニアは固まったまま動けなかった。
彼のどれが本心かわからなかった。過去を懐かしむ穏やかな顔、一瞬見せた恐ろしい目、紳士的に振る舞う姿勢。それらすべてが混在し、ジルコニアはどれを信じていいのか判断がつかない。彼の心の奥底に何があるのか、その真意を探ることができないでいた。
「……顔色が本当に悪い。怖がらせてすぎてしまったかな」
スペイドは心配そうに眉を寄せてジルコニアの顔を覗き込む。急に顔が近付いて驚き、思わず距離をとろうとして再び本棚に背中をぶつけた。
「ひどいな、逃げるのか?」
スペイドはくすっと笑って、再びジルコニアを挟むようにして、彼女の背後にある本棚のへりに両手を置いた。
ジルコニアは近い距離に戸惑い、どう返事をすればこの場を乗り切れるかを考える。
そのとき、図書館の扉が開く音がして、誰かが中へ入ってくる足音が聞こえた。コツコツとしたその足音は、迷いなくこちらへ近づいてくる。
「陛下、人が来ますから……」
ジルコニアは、スペイドと近いこの体勢から逃れようと、彼の胸を両手で軽く押す。しかしスペイドは少しも動かない。それどころか、ぐっと顔を近づけた。
「俺がこうして隠れていると、必ず嗅ぎつけてくる優秀な番犬がいるんだ」
番犬、の言葉にジルコニアは敏感に反応した。
スペイドが『番犬』と呼ぶ人物をひとりしか知らない。
「陛下、離れてください……!」
館内に自身の声が響くのを恐れ、ジルコニアは小声で懇願する。しかしスペイドは表情を変えず、動く気配もない。
失礼を承知で体や腕を強く押すが、びくともしない。
その間にも、コツコツと足音が近付いてくる。
切迫した状況に彼女の焦りは頂点に達していた。スペイドをどかすことを諦め、腕の下をすり抜けようと身をかがめたところ、彼の手が腰に回されて片腕で抱きしめられる。
体が密着し、見上げるとすぐ目の前にスペイドの顔が迫っている。
まるで恋人同士が、誰もいない図書館で熱烈な逢瀬をしているような状況。
必死で逃れようとしたその瞬間、近付いてきていた足音が止まった。
「陛下、ここに――」
本棚の隙間から現れたのは、藍色の軍服姿のクロヴァだった。
スペイドが女性と抱き合う姿を見て、しまった、という表情で反射的に顔をそらして背を向ける。
ジルコニアはスペイドの体に隠れているため、気付かれなかった。
クロヴァは背を向けたまま声をかける。
「陛下」
「わかった、わかった。怖い声を出すな。すぐ仕事に戻るよ」
スペイドは軽い調子で答え、ジルコニアから離れた。
ジルコニアは顔が真っ青になる。口元を覆う手が細かく震え、息がうまくできない。
誤解される場面を見られてしまった。
婚約者以外の男性に抱きしめられたのは事実だ。それをクロヴァに知られるのが怖かった。
(できれば背を向けたまま、お2人とも立ち去って……!)
祈るような気持ちでいると、スペイドが笑いながら言った。
「俺は行くから、こちらのレディを頼む」
「……承知しました」
クロヴァは不服そうに低い声で返事をする。そして、去っていくスペイドの背中を見送り、十分離れたことを確認したあと振り向いた。
その目が驚きで見開かれる。
「ジルコニア?」
彼の表情は瞬時に険しくなり、スペイドが去っていった方向を睨みつけた。
遠くから出入り口の扉の閉まる音が聞こえ、すぐに静寂が戻った。
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